第十七話 羅刹眼
「あ、朧さん?」
綾姫様、お懐かしゅうございますな。この爺の名を御心に留め置いて頂けただけで感涙極まりなく存じますぞ
「ごめんなさい。お名前だけなんです」
父も母もキョロキョロとしてあたりを見回す。
「あーもう頭がバグるわ。心霊現象は専門外なんだけど」
俺は何となく存在感を感じた。それは俺の中だった。
若様より先に名を呼んでいただくとは。
「なんか棘があるな」
滅相もない。それには理由がありますゆえ。
父が目を閉じ、腕を組んで俯いた。俺には頭の上にNow Loadingの文字が見え、る気がする。
「朧さん、でいいかな。ひとつひとつ片付けていこう。羅刹眼とは?」
父が視点が定まらないのが落ち着かないらしくテーブルの上にクマのぬいぐるみを置く。それに話し掛けるつもりらしい。その古ぼけたぬいぐるみは俺が小さい頃遊んでいたソウルブラザー「クマゴロウ」だ。
これは形代でざいますな。都合が良いことに若の念が込められているので憑依可能ですぞ。
「ちと、窮屈であるが何とか」
めっちゃシュール。クマのぬいぐるみが動き出し、正座をした。目を輝かせているのは空と母。って、おとんもだった。
「羅刹眼。元は羅刹という鬼の目であったものでしたが、眞魚様が羅刹から奪い、七年と七ヶ月と七日を費やして浄化した後、その身に取り込んだのが始まりです。鬼を殺す眼と呼ばれていますが、その力は裏返って鬼にとって恐ろしい呪いとなりました」
「眞魚? まさか空海ですか?」
「恐らく。私達の時代でも数百年前。流石に古い話で定かではありません」
クマゴロウにクマの様な顔を寄せる父に、母が直視できずに横を向いて顔を隠している。
一応重大情報なんだが、母よ、肩が震えているから笑っているんだろうが隠せてないぞ。
「その力、輪廻断死なり、即ち、輪廻を断ち切り転生を二度と出来ないように殺す。あなた方も転生を繰り返しておりますが、あなた方にとって、それはあまりにも大きく重く、生まれるには置いていかざるを得んのです。鈴鹿御前のように天女であった方なら別ですが、もうひとつ特別な例が」
「鬼、だよな。鬼の強さは肉体的もあるが蓄積された経験と無限の命、転生があるから奴らは命を惜しまないという事か。なんてイージープレイな人生、じゃないな、鬼生か。という事は昨晩の鬼はもう二度と現れないのか」
クマゴロウが頷く。いや朧が。ややこしい。
母が朧を狙っていたが、空が我慢できずにクマゴロウを膝に乗せ微笑む。クマゴロウ争奪戦に敗北した母はリアル熊の父の膝の上に坐りなおした。
鬼を殺す眼。
冷たい水が心臓に流れ込んだように冷えた。
ということは。
空を見た。俺の視線に気付き微笑む空。
突然、怒りが湧いた。
「ごめん」
俺の顔は今、空には見せられない。
立ち上がって自室に行って壁を軽く叩く。
二度。
三度。
次は壁を破壊した。拳が裂け壁に血が飛び散る。机や棚を持ち上げ床に叩きつけて、ベッドを蹴り上げひっくり返した。足の甲に鈍い痛み。トロフィーを掲げて床に投げつける。賞状や写真を壁から引き剥がし見境なく窓の外に投げ捨てた。
こんな物は意味がない。そしてこんな事はもっと意味がない。
分かっている。だが空が受けた苦しみは俺じゃ癒せないのが悔しかった。苦しかった。痛かった。
この怒りは鬼へじゃない、俺に対してだ。出来るなら首を締めあげて殺したい。空の目で死ねるのなら殺して欲しかった。
何が九頭竜だ。
何がエースブロッカーだ。
何が、何が先輩だ。
空は俺を救うために実の父を殺したのだ。
最後に残ったトロフィー。最後の夏のMVPで貰ったトロフィーを窓の外に投げ捨てようと力を込め投げる瞬間、空が腕に抱きついてきた。勢いを止められず空の体も宙に浮かび、慌てて空を胸に抱え背から床に落ちる。遠くでトロフィーの崩れる音が聞こえる。空が音がする方を見ていたが、視線を俺に戻し睨んでくる。
「何してるんですか」
「空、すまない」
「何してるんですか!」
「何も守れなかったからだ! 最後の試合も、空も、俺は何も何も、何も守れなかった! 昨晩だって俺はお前に守られた!」
空が俺にまたがり、自分の胸に手を当てた。
「私をちゃんと守りました。ここを守りました! 壊れそうだったここを先輩が守ってくれたんです! 先輩が私を見つけてくれた時、どんなに嬉しかったかわかりますか? 学校にいたのは偶然じゃないの。来るかもって思ってたから! 先輩なら助けてくれるって思ったから! 先輩なら絶対私の手を離さないって、こんな我儘な私を甘えさせてくれると思ったの! 私は卑怯な女です。先輩を利用して、お母さんに甘えて、先輩から離れるふりをしながら、怖くて怖くて、ここにずっといたい、と思っている意地汚い女です!」
空が俺の肩を掴み息を切らす。泣き虫な空が、今泣いていないのは俺の為だ。涙に隠れぬよう心をありのままに見せるためだ。
「俺のせいで、空の父親は転生できないんだぞ」
空が床に肘をついて顔を近づけ、閉じていた目が俺の目を見つめる。鼻先が触れんばかりの距離だが、今はこの距離が辛い。
「私が、こ……したのは鬼です。父の安らかな顔でそう確信しています」
俺を傷つけまいと微笑んで嘘をつく。その嘘はお前にも傷をつける嘘だ。
「お前は強いな」
「先輩は割りと泣き虫。でも私の前で初めて泣いてくれたのは嬉しい、私の事で泣いてくれたのがもっと嬉しい」
「情けない」
「そんな先輩」
「幻滅だよな」
「幻滅です。でも理由は」
空が指で俺の涙を拭う。
「うん?」
「明日また片付ける場所を増やしたことです! どうするんですか。もうヘトヘトですよ」
そう言って空は俺に倒れ込んで頬を胸に押し付けた。
まあ、これは、どういう状況だ? いいんだよな? たぶん? 俺の天使と悪魔が押し倒せと応援しているし、いいよな?
空を抱いたまま上半身を起こす。俯いた空の顎を指先で挙げて、その唇に、
つーか寝てるし。
やれやれと溜息をついたところ、両親がドアのところからにやにやと覗いていた。
まあ、いたよね、あなた達。忘れてました。
「これ、親御どの、夜伽の邪魔ですぞ。若がその様な嗜好ならば致し方ありませぬが」
このぬいぐるみ野郎。
起きないように客室のベッドにそっと運んでいく途中、空が俺のシャツを摘まむ。小さく「先輩」と囁く。どんな夢を見ているのやら。出来れば頼もしい背中を描いて、
「覗いちゃ、だめ。えっち」
違うらしい。これ以上風鈴株の下げ幅はないんじゃないか。空、買い時だぞ。
ベッドに空を降ろし掛布をかけて、ベッドを背もたれ代わりに腰を下ろした。八つ当たりで散々振るった拳を見ると、裂けた傷は既に塞がり、少なくともひび位は入っていた足の甲も痛みはなかった。
「桜花、ありがとう」
そのお声を聴けただけで十分です、若様。
その会話は不思議と自然に出来た。まるで日常の会話の様に。
火照っていた頭と体が冷めていく中、睡魔に襲われる。風が吹き込んできて揺れるカーテンに注意を引かれると、窓際のサイドテーブルに気付く。そこには若い頃の母と空の母が写っている写真が飾ってあった。月明かりの下で、白い木組みのフレームの中の二人が笑っている。
今はその二人の子供が同じように寄り添っている。
運命と呼ぶには軽すぎる。必然というには重すぎる。
たぶん、そう、自然なんだ。
微睡の中、ベッドの上の空を見る。
うん、まずい。
このままだと空が起きた時にいらぬ誤解を生んでしまうだろう。だが立ち上がる気力も失せ、眠りに落ちてしまった。
「おほほ。わたくし、耀様のお嫁に参りますわ」
と、十二単の空が牛車に乗って手を振ってくる。
そんな変な夢を見るうちはまだ幸せなんだろう。




