第十二話 怪異
「対怪異特務執行室。天弥君が所属する部署の正式な名称ね。いわゆるオカルトの類を調査する機関みたいなものかな。空ちゃんのお母さん、茜ちゃんは私達の保護対象で、この国にとって大事な人だった」
「お母さんが?」
「そう。怪異、は現象だったり生物だったり。それらが伝承だけの幻じゃないことを私達は知っているの。例えば……鬼、とかね」
「鬼、ですか」
空の変化のない表情を見て続ける。
「知っているのね。だからあなたの恐怖は分かるし、ここにいた方がいい理由の一つ」
「他にも理由が?」
「そっちのほうが大事。私の大事な親友の娘さんだから。表の世界だけじゃない。裏の世界でも一緒に居た大親友。他の誰かに任せるなんて出来ないの。あなたがここに居たくないのなら私がここを出てついていくから」
「そんなの、そんなの」
「ずるいよね。あなたは今何もできない。そこをつけ込んだ提案よ」
「今は、ですか」の空の言葉に、おや? と含み笑いをする。
「ん。そう今は。あなたはお母さんの大事な心を引き継いでる。それは今後、あなたにとって大切なものになり、大切なものを守る力になる。茜ちゃんが私を守ってくれたようにね」
「お母さんが?」
「そう。本来、私達が守らないといけないのに、皆を守って茜ちゃんは……。ごめんなさい、私が守りきれなかったの。あなたのお母さんが亡くなったのは、日々のお役目の疲れからだった。私がもっと強くて上手くサポートしていれば、こんなことにはならなかった」
母の涙を初めて見る。だから空を気にかけてたのか。罪悪感は時に死に値する苦しみをもたらす。苦しくなかったはずなんてない。
「私、ずっとお母さんに謝りたかった。私を産んでしまったから亡くなった。私を産まなければ楽しい事一杯あるはずだったのに、私が駄目にしちゃった。そう思っててずっと謝りたかった。心が離れ離れになってたお母さんの気持ちを今、ほんの少し理解しました。なんか、私の中に入ってきた感じです。お母さんは絶対、大好きな咲子さんを守れて喜んでます! 私だってそうします!」
母は涙を零すと笑った。
「ほんと茜ちゃんにそっくり」
「そうだったら。そうなれたら、嬉しいです」
空の頬を母の手が包む。
「茜ちゃんの事、そしてあなたの力を教えてあげる。でも今はお客さんを叩き出すわ」
客? チャイムもインターフォンも鳴っていないはずだが。敷地内は人感センサーが網羅され、セキュリティパネルの操作盤にも変化はない。
空が悲鳴を上げた。
庭に繋がるテラスに人影を見た。ガラス窓に手を掛けようとする影が、忌々しげな唸り声を上げている。ガラスに触れる瞬間火花が生じ、人影が思わず手を引いた。
「まだ人か?」
聞いたことのない母の冷たい声。来訪者を睨みつける視線も更に恐ろしく冷たく、凍りつきそうだった。
「それは人であった方が良いということか? 愚問だ」
声の主は再びガラスに手のひらを当てる。皮膚が裂け、血が撒き散らされる。肉片がサッシに飛び散ると血痕を残しながらウッドデッキに落ちていった。
空が俺の腕を掴んできた。気づいていないだろうが爪が食い込むほどに。空が闇に溶けている人影に目を凝らす。
まさか。
「おとうさん」
闇の帳から姿を表した人影は、優しく微笑んだ。
人ではない。人はそんな温度も心もない笑顔は見せない。
その額には捻じり聳え立つ角。金色の虹彩を持つ目。動きで分かる、その体に潜む膂力。ヒグマすら凌駕する力を想像するに難くない。
「ふうちゃん、よくできました。それが合気よ。まずは相手を識りなさい」
それはぐずぐずとなった右手を舐めあげると、血だらけの手が形を整え再生していく。その気に合わせていた俺は吐き気を催す。
これは人の持つ「気」じゃない。
「空、ここを開けてくれないか」
母は空への視線を遮るように間に入る。
「空ちゃん、これは、あなたのお父さんじゃない。人ですらない。あなたのお父さんを食べた、意地汚い穢れ。忌むべき幽世からの怪異よ。耳を貸す必要はない。その声もただの作りものだから」
空は泣きそうになるが、涙を堪える。
「ふむ。呼び込んでくれたら、結界なぞ破らずに済むのだが。結構、しんどいんだぞ」
「破る? お前の真名は何?」
「その手は食わん」
その鬼は両手でガラスに触れた。先程と同じように指先から飛び散っていくが、血がガラスに文字と図形を書いていく。祖父から教わった中国の式占のひとつ、
「六壬式か?」
「ふうちゃん、惜しいけどちょっと違う。失われた奇門遁甲がひとつ、雷公式よ。」
安倍晴明が使ったとされる六壬式をもっと濃く呪術に寄せた禁術。その式盤に神の力を降ろすと言われる奴だ。危惧は迷いなく訪れガラスがその血に沿って割れ、破片が床に散らばっていった。それと同時に庭の隅の方から木が割れる音が聞こえる。
祖父から幼い時から叩き込まれた奇門遁甲。
「合気と合わされば無敵だぞ?」
「無敵! かっけぇ!」
そんな風に夢中になっていた時期もある。祖父が亡くなってからは興味が薄れて、中学に上がる頃には実技の合気道に打ち込み過ぎて遁甲の方はおざなりになっていた。
祖父は何を想い俺に教えていたのか疑問すら浮かばなかったが、祖父もやはり九頭竜だったという事。こんな未来を識っていたのだ。
「祓所が飛ばされた?」
母の額に汗が浮かぶ。
「さて。その女を寄こせ」
「もう父親の演技もしないわけね。そっちのほうが有り難いけど。ふうちゃん、空ちゃん連れて逃げて」
鬼は結界が消えた家になんなく侵入してくる。
動きがヤバい。歩き方で体幹のブレがない事がわかる。隙もなければ死角もない。
アメフトでは合気によってマンツーのマッチアップでは負け知らずだった。相手の動きが読めるとかいうレベルじゃない。どう動くかが前もって分かるレベル。フェイントがフェイントと知っていれば止めるのは簡単だった。故に動きが読めない相手は恐怖すら起きるという事を初めて知った。
母が音もなく前に出る。目に見えているのに動きが見えなかった。
「気をもって和合する」九頭竜の奥義「落葉」だ。俺がまだ会得出来ていない技。こうしてみると師匠である母に全然近づけない俺の未熟さが際立つ。
相手の死角に入りこむ「入り身」で間合いを詰める母が突然、後方に飛んだ。鬼の鋭く繰り出される拳を数度いなし、腕を絡めとると背に回り躊躇なく関節を叩き折った。油断なく歩法で再び鬼から間合いを取る。母のブラウスが胸の下で真横に切り裂かれ、露になった肌に薄っすらと血が滲み出ていた。
相手は刃物を持っていない。ただの手刀で切り裂いたのか。その手刀ですら目に入らなかった。母ですら相手を掌握できず避けたのだ。俺なんかが捉えられるわけがない。
鬼は折れた腕を見て笑う。見た目でも折れていると分かる腕が、肩をぐるりと回しただけで元に戻る。
次元が違う。腕をつかむ空に動くように促す。母を挟んでダイニングから玄関へと距離を詰めた。扉のドアノブを後ろ手で回すと、扉が軽く引かれた。
「どこいくのっと」
背後の声に振り向く、と同時に肘を顔に叩きこんだ。遠慮はしなかった。顎関節を砕く勢いで振りぬく。だが相手は避けもしない。ただ肘を頬で受け止め嗤っていやがる。
「いいじゃん、人間にしては? 金ちゃーん、こいつ食っていい?」
「星、娘はだめだぞ。その男ならいい」
名を聞いた母は青ざめた。
「載籍レベルが起きたのね」
「レベル?」
金と呼ばれた男が鼻で笑う。
「人の尺度で物申すな。腹が立つ」
金童子はソファを蹴り飛ばす。音を立てながら自身に飛んでくる勢いのあるソファを、母は身を翻しながら掌で受け床へと弾く。
「ほう? 長く寝ていたが変わった技を人が使うようになった。聞いてもいいか? お前の名は?」
「涼風咲子。幼名は九頭竜咲子よ。金童子」
「九頭竜だと?」
金童子は表情を、薄ら笑いから怒りに変え、母へと跳躍した。母が「円転の理」の異型、「落葉舟」で金童子の勢いを殺し壁に叩きつける。
短く息を吐き、脱力した構えを取る母の顔には余裕がなかった。恐らく腕の骨を折ったのだろう。二の腕が紫色に変わっている。
金童子が立ち上がり、
「何故、九頭竜が人を守る!」と叫んだ。
その言葉に驚き、鬼を目の前にしても尚、金童子の言葉に気を取られた。




