鬼人御伽 序・壱
其れは憎悪の坩堝だった。
恨み、妬みが蠱毒の蟲のように蠢き、のたうち回っている。それはいつからか瘴気となり穢れとなった。
這いずることすら叶わぬ白骨化した体を、地中奥深く重力と土塊に囚われ、瘴気に様変りした魂は骸から離れることも出来ないモノは、ただ呪いを撒き散らす。
幸は闇の底であったこと。
不幸はより深い業となってしまったこと。
どの位の月日が経ったのだろう。
二百年、いや三百か。
我が身が埋められた穴が深すぎて、地上の音も地中の蟲どもの這いずる音も聞こえぬ。口どころか顎を動かす肉すら腐りはてた頭では呪詛を吐き捨てる事すらままならぬ。
憎しや。
憎しや、うつほの姫よ。
ああ。その首の肉を貪りたい。いや、その前に精を火門に吐き出し、己の腹から生まれでる鬼子を目の前で喰ろうてやりたい。首を引きちぎり、己の手足もがれ裂かれた腹の上に乗せ、切り口から迸る鮮血であの美しい髪と顔を朱に染めてくれよう。
どろりとした瘴気は骨の表面を皮膚のように纏わりつき、ゆるりと身体を巡っていく。
何故に死ねぬ。
何故にこの朽ちた骸から離れられぬ。
憎しや、うつほ。
妬ましや、うつほ。
悍ましや、うつ……ほ。
その幾千夜と繰り返された呪詛は突如終わりを迎えた。
だが止めたわけではなかった。
その乳白色した頭骨に肉があれば、以前のように笑みを浮かべ、そして高らかに嬌声を上げただろう。
童のように。
「おい、仏さんだぞ! 西さん呼んでくるわ! ったく、厄介なもの掘り出してしまったわい!」
老齢の先輩が慌てて重機から降り、その背を若い作業者が見送った。
「もうすぐ終業なのについてないや」
家に帰れば妻が赤子を抱えて出迎え、夕飯の支度のために壊れ物のように我が子を渡される。そして、たどたどしく抱いて今日の疲れを忘れるはずだった。
若者は土から半分だけ現れた人間の頭部、既に白骨化しているが、やけに生々しいその遺体に悍ましいほどに恐怖を感じた。ただの骨だと自分に言い聞かせるが、いつの間にか目が離せなくなっていた。
見ればこの身が落ちていきそうな眼窩は、暗く、黒く、深く、何もないはずなのにこちらを見ている気がしてならない。
そして、それは真実だった。
「おーい! 鈴本、あがれー。警察が来るってよ。発見者は俺だから……鈴本?」
男は鈴本と呼ばれていた体に触れた。その体は頭部を喪失し、バランスを崩して横に倒れた。
時折、首から血や肉片と共に内蔵らしきものが溢れ出て地面の上を蠢きながら骸骨の顎へと流れ込んでいる。男は悲鳴を上げると後ずさり、腰を抜かしてへたり込んでしまった。滑る砂の上を努力ほど退けず、虚しく土を掻くだけの足が止まった。
肉片が地面を這う音とは別に、男の耳に囁く声が届いた。
「ああ」と漏れ出る声の出処を探す。鈴本の体を見るがそもそも頭はもう付いていない。先程より縮まった鈴本の体の先にあった頭骨へと視線を向けた。だがそこには何も見当たらず、大きな窪みになっていた。その場から立ち去るため立ち上がろうと身を翻した際に地面に横たわる遺骨を見た。
それは既に遺骨とは呼べなかった。白色の筋組織の繊維が骨を繋ぎ、骨同士がかち合い鳴らす音は非現実的で、幻想的でもあった。
下顎の奥に舌と喉が見え、空気が漏れる音と共に、呂律が回らない事に舌打ちしながら口を開く。
「レい……れ、い、礼ヲ言おウ。そシテ、喜べ。我が身ノ、血肉にナルことを」
頭の左半分に薄っすらと表情筋が組成され、瞼のない目が眼下の男を見下ろす。細い筋繊維が寄り集まり標本のような骨格に筋肉を形成し、それに纏わりつくように血管が表面を走って伸びていく。
立ち上がりながら「やはり足らぬか」と呟くと男を見下ろす。
癖のある長髪が大きく張りでた皮膚のない大胸筋に垂れ下がり、垣間から覗く右肺と心臓が肋骨の下で脈打っていた。足元から鈴本だった肉体から肉片が這い上がり、徐々に皮膚が全身を覆っていく。
「餓えが臓物に悲鳴をあげさせる。渇きが喉を焼く。だが、それが、それが、それが! なんという至福なことか!」
両手を開き、何かを確かめるように握りしめる。
「生き返った。……否、黄泉帰ったぞ」