深窓の令嬢は砦に足を踏み入れる
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辺境伯領を馬車で出発してから早一週間。
ルナシェは、痛む腰をさすりながら、ようやくたどり着いた領地の北端、どこまでも続くようにも思える長く高い壁に囲まれた砦の前にいた。
この地はかつて、ミンティア辺境伯領が王国だった頃から北の要所として重要視されていた場所だ。
幼い頃から辺境伯令嬢として学んできたものの、前回の人生を含めても書物でしか見たことがなかった場所に、ルナシェは立っている。
「すごいわ……。ここまでの規模で建造するのに、一体どれくらいの期間を必要とするのかしら」
「姫様、おそらく数十年かかるでしょう。一代だけでは済まずに、何世代もの王たちの力で、この壁は出来上がったと伝えられています」
振り返れば、この国では一般的な茶色の髪と瞳をした商会のトップ、ガストが立っていた。
ガストの商会は、辺境伯領全域だけでなく、王都までも販売網を広げている。今や、国内でも有数の規模を誇ろうとしていた。
たが、ルナシェは知っている。
ガストが立ち上げた黒鷹商会は、まもなく名実ともに国内トップに躍り出る。
それは、ガストが商機を感じ取る能力が誰よりも高いことが主な理由だろう。
「ねぇ、ガスト。こんなところまでついてきて、損失を考えないの?」
それは至極真っ当な疑問だ。
かつての人生で付き合ってきたガストという人間は、商売をし稼ぐということを人生の美徳としているような男だった。
どう考えても、ルナシェについてきたところで、ガストの得になるとは思えない。
「損得だけでは、生きている意味がないではありませんか。姫様の行動は、久しぶりに痛快でした。それに……。商機は、どこに転がっているかわからないのですよ?」
このまま、繰り返すだけの運命なら、断頭台に消える運命のルナシェ。商機なんてあるようには思えない。それでも、ルナシェは微笑んだ。
「ガスト、ありがとう」
「どういたしまして。……葡萄酒は、俺からの婚約祝いです」
「ふふ。そうね、いただくわ」
(ベリアス様と一緒に飲むのもいいわね)
やり直す前の人生で、ベリアスとお酒を飲む約束をした。それは、ベリアスが帰ってこなかったことで、叶えられることはなかったけれど……。
ルナシェは、婚約破棄という目的のために来たはずだ。けれど、ベリアスにもうすぐ会えることで心が浮き足立つのを止めることが出来ない。
砦の門は、固く閉ざされていたけれど、商会の会長であるガストが通行許可証を提示すれば、そこまで厳しい検閲もなく通り抜けることが出来た。
このことだけでも、いかにガストが王国での信頼を勝ち得ているか、わかるというものだ。
「……ガスト。私、ものすごく緊張しているみたい」
「ははは。姫様がそんなことをおっしゃるとは、今夜は雨でしょうか?」
「ひどいわ!」
けれど、優しげに微笑んだガストの表情で、そんな意地悪な言葉すらルナシェの緊張を解こうというガストの配慮だったと気がつく。
「…………ありがとう。行ってくるわ」
「ええ……。いってらっしゃいませ、姫様」
こんなふうに、ガストと話す機会があるなんて思ってもみなかった。本当にもったいないことをした、とルナシェは思う。
貴族であるとか、王国の平和のための婚約とか、どれだけそんなことにがんじがらめになって、大切な何かが見えなくなっていたのだろう。
ルナシェは、荷物が入った、たった一つだけのトランクを抱えた。
かかとが低い靴は履き心地がいい。軽快な足取りで壁沿いに進んでいく。
(婚約破棄を告げるのだと決めてきたけれど、ベリアス様とも話せば、何かが変わるのかもしれないわ)
ベリアスとルナシェが、時間をかけて分かりあうこと。それは、今までと違った道を進むために、必要なことのように思えるのだった。