鍵と信頼
袖を通したドレス。そこから香るのは、この日のために抽出した、小さな花のアロマオイル。
こんなにも、甘く華やかな香りは、特別な方法でしか手に入らない。
ルナシェは、ミンティア辺境伯家令嬢として、第一騎士団長ベリアス・シェンディアの婚約者として、そしてシェンディア侯爵家の次期当主の妻として、社交界の中でその立ち位置を明確にしつつあった。
ミンティア辺境伯家の立ち位置は、王国の中でも特別だ。
王国を守る盾であり、それでいて自治権が認められ、王家に反旗を翻すことができる唯一の家門でもある。
だからこそ、以前の人生では、兄アベルやベリアスは、ルナシェが社交界に出ることを望んでいなかった。
けれど、今は違う。
ベリアスと生きていくためには、ルナシェにも力が必要なのだ。
シェンディア侯爵家主催の夜会へと向かうルナシェのドレス。
スカートの裾全体が広がったデザインが、王都の流行だが、ルナシェが身につけるドレスは、腰の後ろにボリュームを持たせている。
白銀の髪の毛は、少しだけ編み込まれ、後れ毛はゆるやかに巻いて流されている。
飾り付けられたレースや宝石は、辺境伯領が誇る品だ。
王族さえも用意することができない品々が、ルナシェの可憐な美貌と組み合わさると、神々しさまで感じるほどだ。
「姫様……。お美しいです」
振り返ったルナシェを満足げに見つめているのは、そのすべてを取りそろえた糸目の商人、ガストだ。
「ガスト、何から何まで……」
「いいえ、先日のお釣りでまかなっていますので。それに、新たな商品の仕入れ先をご紹介いただきましたこと、感謝の言葉もありません。……今後も何卒、よしなに」
「――――頼りにしています」
あの日、婚約破棄をするといって、辺境の北端に向かったルナシェ。
まるで、朝露をまとったつぼみのようだったルナシェは、日に日に大輪のバラのように輝いていく。
それは恐らく、ルナシェが元々持っていた素質なのだろう。
(それにしても、度々出てくるお釣りとは?)
もうすでに、ちょっとした貴族の宝物庫にあるくらいの金額は使っているような気がするルナシェ。
けれど、それでもなぜかガストは、お釣りでまかなっていると言って聞いてくれない。
「ですが、ドレスと同じくらい、当会の従業員の服がお似合いになりますよね……」
「ふふ。また着るわ?」
商品を仕入れる際、辺境伯次期当主のサインと紹介状を携えたガスト。
その後ろには、従業員の制服に身を包んだルナシェがいた。そして、ガストの商会にいた黒い髪と瞳の男が、いつも二人の後ろに控えていた。
「――――そうですか。そのときには、ご一緒させてください。お一人で行動してはいけませんよ? ……それから、グレインを雇っていただきありがとうございます」
「分かっているわ。……それにしても、グレインは、本当に優秀ね? 何でもできるのに、我が家の執事として雇ってしまうなんて、ガストにとって大きな損失だったのではなくて?」
ガストは顔を上げる。
ルナシェの後ろには、背が高い黒い瞳と髪をした青年が立っている。
「…………時々、気配がなくて驚くのだけれど」
ガストからしても、グレインがルナシェの護衛につきたいと言ってきたのは予想外だった。
ガストの配下であっても、完全に御することができない存在、それがグレインという男だ。
恐らく闇夜であれば、ベリアス・シェンディアですら敵わないかもしれない。
彼は、不思議な術を使う。そして、辺境伯領東方の出身だという。
「――――姫様こそ、よく出身も不明な者を受け入れる気になりましたね」
「……ガストのお墨付きだもの。それに、誰が敵か分からない私のそばにいてくれる貴重な人材よ」
「……もし、グレインが」
その言葉は、続けられることがなかった。
グレインが、口を開いたから。
「……さあ、姫様。参りましょう」
「そうね? お兄様も、お待ちだと思うわ」
シェンディア侯爵家からの、夜会の誘い。
ベリアスは、ルナシェの兄アベルに、シェンディア侯爵家と関わらないように告げていたという。
(でも、逃げたりしない。……ベリアス様と私が、不仲だなんてこと、誰にも疑わせたりしない)
すでに、深窓の令嬢が婚約式の後に、婚約者に会うためだけに、命がけの旅路を経て再会をするという感動の物語は、舞台化されて王都で話題を独占している。
「ねぇ……ガスト。でも、私はあんなこと言わないわ? ベリアス様も」
「――――物語というのは、少し過激な方がいいのですよ。それに、シェンディア卿に関しては、心の声はあんな感じでしょう」
「え?」
――――君のためであれば、すべての責務も、家も、この名すら惜しくはない。
(えぇ? 幾ら何でも、栄えある第一騎士団長、そして侯爵家と私なんて、比べるまでもないわ。……それに、騎士と貴族にとって命より大切な名を、誓うどころか、捨ててしまうなんて)
台本を読んだ瞬間、本当は大幅修正を掛けたかったのだが、興行としてはこれでいいのだと言われてしまえば、それ以上わがままを言うわけにもいかなかった。
「ああ、シェンディア卿にも、台本は送りつけておきましたから」
「えっ?」
「返事の代わりに、こちらが送られてきました」
少しだけ誇らしげにガストが見せてくれたのは、シェンディア侯爵家の紋章が入った、鍵のレプリカだった。
この鍵は、使うことができないただの飾りだ。それでいて、シェンディア侯爵家が管轄する領地のありとあらゆる場所に入ることを侯爵家が許可したことを表す品だ。
(本当に、ガストはベリアス様の信頼を得ているのね)
以前の人生では、ガストとの関わりは、ただドレスを注文したり、何かを用立ててもらう程度だった。もちろん、ベリアスとガストは面識すらなかったはずだ。
それが、ベリアスからは信頼の証とも言える鍵を与えられ、ルナシェとはほとんど毎日行動を共にしている。
おかげで、ルナシェは、自分の資産というものを手に入れつつあるし、いつも流行の最先端のドレスを宣伝のためと言っては着せてもらうことができている。
そんなことを思いながら、ルナシェが顔を見つめていたところ、何を考えているかいまいちよく分からない糸目のまま、ガストは軽く首をかしげた。




