八月蝉い
ラムネのビー玉を飲み込むと、どうなるか知ってる?
日没間際の波打ち際に、僕は独り立っていた。八月の夕暮れは鬱陶しいほどに暑く、寄せては返す波だけが、僕の裸足と制服のズボンの裾を心地よく冷やし続けていた。
覚えている。あの日あなたが言ったこと、その髪のうねり、にきび、確かに全て記憶に刻まれている。でも、あなたのことを覚えている人は、もうすぐ誰もいなくなる。
僕は握り締めた右手を開き、小さくて透明なビー玉を見つめた。掌の中で静かに佇むその姿は、僕にとってはあまりにも愛おしく、儚い。
遠くでウミネコの鳴き声が聞こえる。水平線から少しだけ顔を出した夕日は、もう直視できるほどの眩しさになっていて、水面に細長い橙色のカーペットを敷いていた。そろそろ時間だ。
僕は潮の香りと一緒に、無味無臭のビー玉を口に含み、飲み込んだ。刻一刻と沈む夕日に向かって、僕は歩き出す。ウミネコの鳴き声、波の音、心臓の鼓動――
そしてあの日も、蝉はけたたましく鳴いていた。
木陰のベンチに座りながら、僕は鳴き叫ぶ蝉の声と、目の前の芝生で燥ぐ子供たちの笑い声を浴びていた。公園とすぐ側の線路を隔てる柵の向こう側で、1時間に1本ほどしか走らない四両編成の古ぼけた電車が、がたんごとんと音を立てながらゆっくりと走り去っていった。
小さな子供たちを眺めるのは、あまり好きではない。子供が嫌いだから、ということではない。あの無邪気な笑顔がいつか失われることを想像すると、いてもたってもいられない思いに襲われると同時に、自分もかつては子供だったことを思い出すのだ。実際のところ、今も僕は高校指定のワイシャツとズボンに身を包み、両親の庇護を受けながら生きている身分で、大人には程遠いわけだが、それでも僕がいつからか、「邪気」を身に纏ってしまったことは確かだった。
僕は膝の上の紙に目を落とす。綺麗だとも拙いとも評価しがたい「平澤夏樹」という文字のすぐ横に、「30」という数字が真っ赤なペンででかでかと書かれていた。あともう少し時間があれば、あともう少し知識があれば。よくある言い訳ばかりが思い浮かんで、でもきっとそうではないことは、ずっと前からうすうす気づいていた。
『はい、皆さんお疲れ様。じゃあテスト返すぞー』
1か月にも及ぶ塾の夏期講習は今日で最終日を迎え、最後の授業では数学のテストが返却されることになっていた。教室には僕と同じ高校2年生が詰め込まれていて、テストの結果を見るや否や、同じ制服を着た生徒どうしが集まって、あちらこちらで騒いでいた。
『畑ー、平澤ー、前川ー』
ベルトコンベアーのように手渡される解答用紙を受け取り、僕は真っ直ぐ席に戻りながら、解答用紙を見る。空白の回答欄一つ一つに、不正解を示すチェックマークが丹念に記されていて、なんだか申し訳ない気持ちになる。選択式の設問にすら何も書かれていない解答用紙を見て、採点者は何を思っただろう。いや、特に何も思わないかもしれない。
夏期講習最終日は昼過ぎに終わった。明日から始まる2学期を前に、残り僅かな夏休みを謳歌しようと、教室中で『カラオケ行こうよー』『てかラウワン行きたくね?』と楽しげな声の渦が巻き起こっていた。その渦の間を縫うように教室を後にして、僕は塾の入っている建物のドアを押し開ける。襲い来る大量の熱と湿気を含んだ外気に、僕は辟易した。
ぽとり。膝の上の解答用紙に何か茶色い物体が落ちてきて、僕は思わずそれを拾い上げる。それは蝉の死骸だった。お前も哀れな生き物だね。地上に出てくればうるさがられ、路上で死んでいれば気持ち悪がられる。そう思いつつも、友人とどこかへ遊びにいく予定もなく、そうかといって他に何かやりたいこともなくて、行く宛もなく公園に居座っている自分が、何かを哀れんでいる場合ではないのだった。
いや、本当は行くべき場所はある。ただ家に帰ればいい、それだけの話だ。家に帰れば両親にテストの結果を見せなさいと言われ、いざ見せればもっと頑張りなさいとは言われるだろうが、別に叱られることもなく、夕飯の時間になれば、いつものように両親と弟と僕の家族四人で、静かに食卓を囲むのだろう。それを日常と呼ぶ人もいれば、それを幸せと呼ぶ人もいて、そのどちらも妥当な表現であることは、僕もわかっていた。
僕はとりあえず拾い上げた死骸を芝生の中に隠し、ベンチの背凭れに身を委ねて、目を閉じる。わかっている。わかってはいるけれど、「もっと頑張りなさい」と穏やかに言う両親の頭の中から、少しの期待とたくさんの諦めが、騒がしいほどに聞こえてくるのだ。今から頑張ったら、少しはいい大学に入れるんじゃないか。お前は友達もいないんだし、一人の時間が多いんだから、その分勉強時間に充ててもいいだろう。お前はそれすらも――
「ラムネのビー玉を飲み込むと、どうなるか知ってる?」
初夏の空気を含んだような声が、確かに僕の鼓膜を揺らした。ふと左を向くと、ついさっきまで空いていた僕の隣のもう一人分の席が、白いセーラー服に身を包んだ少女で埋められていた。うねった黒髪を顎のあたりまで伸ばした少女は、僕のほうを向いて小さく体育座りをしながら、二重幅の広い眠たげな目で僕を見つめていた。僕はその視線から目を逸らすことができないまま、少女の瞳の奥を見た。そこにあるのはロマンスではない。この世界のどこにもないような凪いだ海が、ただひたすらに広がっていた。
「…いや、そんなの聞いたこともないですし、あのビー玉って取り出せないようになってますよね? そもそも不可能っていうか…」
僕は我に返り、自分の膝の上に視線を移したまま、当たり前のことを並べ立てる。視界の隅に、体育座りをしている少女の裸足が行儀よく並んでいるのが見える。少女はいつ現れたのか、なぜ体育座りをしているのか、そもそもこの質問の意図は何なのか――何一つわからないまま、不思議と不快ではない沈黙が、しばらくの間続いていた。
たしか、僕はこの少女に会ったことがある。夏期講習の教室で、特に座席は決まっていないのに、この少女は毎日入口に一番近い最前列に座っていて、トイレに行くたびに視界に入ってはいた。違う高校ということもありフルネームは知らなかったが、その少女が一度だけ「ふみさん」と呼ばれていたことは、なんとなく覚えていた。
「私、このあとピアノのレッスンがあるんだ」
ぽつり、と言葉を放ったふみさんに、僕は再び視線を戻す。沈黙の間じゅう、ふみさんは体勢を変えないまま、ずっと僕のほうを見ていたようだった。同じ温度で向け続けられる視線を捉えながら、僕は会話を続けることにした。
「そうなんですか、奇遇ですね。僕もピアノ習ってます、今日はレッスンはないですけど。何時からですか?」
僕は返事を待った。ふみさんは微動だにせず、X線のような視線で僕を見据えていた。次の瞬間、ふみさんはどんな言葉を口にするだろうという興味が、自分の中でじんわりと広がっていくのを、僕は感じていた。
公園の柵の向こうで、電車がのろのろと走っていく。いったいどれほど待っただろうか。10分、いや20分は経っていたかもしれない。ふみさんはおもむろに膝を抱えていた手を解き、正面に向き直って、足を地面に下ろした。そして、足元に丁寧に並べられたローファーの中から白いソックスを取り出して、ゆっくりと履き始めた。ああ、もう時間なのだろうか。髪で隠れた横顔から目を離せないでいるうちに、ふみさんはローファーを履き終えた。
「レッスンには、行かないことにしたの」
柔らかく、しかし決然と、ふみさんはそう言った。ふみさんの視線の先では、転んでしまった小さな女の子が、一人でえんえんと泣き叫んでいるところだった。
「あ…それは行かなくて大丈夫ですか? 親に怒られたりとか…」
僕がありきたりな言葉を投げかけている間も、女の子は泣き止まない。その喚き声を気にする素振りも見せず、ふみさんは足元に置いてあった鼠色のスクールバッグから何かを取り出して、僕たちの間にことり、と置いた。
それは昔ながらの瓶ラムネだった。ふみさんは瓶を包むビニールを切れ目に沿ってぴりり、と剥がすと、蛸の口のような形をした小さな部品の出っ張りを瓶の口にあてがい、上からぐっと押し込む。ビー玉の栓は思いのほか頑丈で、なかなか開いてはくれない。見るに見かねて、僕がやりましょうか、と言いかけた瞬間、ぼふっ、という不格好な音ともに瓶が開いた。ふみさんは聞こえるか聞こえないかくらいの微かさでふう、と一息つくと、僕のほうを向きながら、瓶を自分の顔の前に持ち上げた。
ラムネの水面には、気泡が集まって白波が立ち、やがて時間とともに消えていった。薄い水色の瓶の向こう側には、ふみさんの顔が歪んで見えて、きっと向こう側からも全く同じように、歪んだ僕が見えているのだろうと思った。ふみさんは瓶を眺めるのに飽きると、再び正面に向き直り、瓶に口をつけながら傾ける。耳の少し下に、今まで髪に隠れていた小さなにきびが見えて、僕はようやく、目の前の少女の存在を少しずつ信じ始めた。
残り半分ほどのところで、ふみさんは瓶から口を離した。そしてさも当然かのように、ふみさんは飲みかけのラムネを僕に差し出した。これは、少し持っていて、という意味だろうか。それとも、飲んでいいから受け取って、ということなのだろうか。僕がまごついていると、ふみさんが口を開いた。
「飲んで」
どうやら後者のほうらしい。僕は「ありがとうございます」と恭しく受け取ると、瓶の中身を見つめる。なぜふみさんは僕に分け与えてくれたのだろう、という疑問が脳裏を過ったが、一般的な高校生にしてみれば、誰かと飲み物を回し飲みするくらい、何ら特別なことではないのだった。自嘲的な笑みを浮かべながら、僕はその透明な液体を、口の中に流し込んだ。
仄かな刺激が舌を擽った直後、爽やかな甘さが口の中を支配する。美味しい、と思ったのに、どこかこのラムネは、賞味期限の切れかけた夏の味がした。明日にはこのラムネを探してもどこにもないような、そんな切なさが少しだけ飽和していた。いや、何の変哲もないラムネに、いったいどうしてそこまで思いを巡らせることがあるだろう。僕が「すみません、美味しかったです」とふみさんにラムネを戻すと、ふみさんはゆっくりとラムネを味わい、そして瓶の中にはビー玉だけが残った。
「親には怒られないよ。家に帰らなければ」
ふみさんはビー玉を見つめながら、ぽつりと呟く。それが、ピアノのレッスンをサボったら親に怒られたりしませんか、という僕からの問いかけに対する返事だと理解するのに、少し時間がかかった。家に帰らない、ふみさんはそう言った。
「私、平澤さんの下の名前って知らない。教えて」
突然名前を聞かれて、僕はたじろぐ。まず、自己紹介という行為が久し振りだったし、自己紹介せずとも僕の名字は知られていることに少し驚いた。
「そうですよね、すみません。僕、平澤夏樹って言います。僕も、ふみさん、のフルネームを教えてもらえますか」
「私? 琴浦ふみ」
ことうらふみ。僕はその名前を、口の中で反芻する。名前なんて最も基本的な情報なのに、それはまるで、異世界へのパスワードのような響きだった。
「夏樹、ごめんね。私たち、少しだけ赤の他人じゃなくなっちゃった」
いきなり下の名前で呼ばれて、僕は面食らった。ふみさんとの距離感は、掴めそうで掴めない。二次元上ではすごく近くにいる気がするのに、三次元上では遥か遠くにいる気もする。少しだけ赤の他人ではなくなった、というのはそういうことのように思えて、僕は「そうかもしれませんね」と、なんとなく納得した。
さっきまで僅かしかなかった木陰は、気づけば少し先まで広がっていて、遊んでいる子供たちもめっきり少なくなっていた。再び口を閉ざしたまま、どこか一点を見つめ続けているふみさんに、僕は確認しておきたいことがあった。
「…きっとそろそろ、ピアノのレッスンも終わってしまってますよね。今日はふみさんは、帰らないんですか」
温くぼんやりとした空気の中を、涼やかな微風が通り抜けていく。ふみさんのうねった髪が、吹いてくる風を吸収しているように見えた。
「私、最近になってようやく、なんでピアノを習い続けてるか、わかっちゃったの」
ふみさんは僕のほうを見ないまま、呟くように話し始める。ピアノを続ける理由――頭の中で、『エリーゼのために』の冒頭の、ミとレ#が繰り返され始める。
「昔から私はあまり苦手なこともなかったけど、これといって得意なこともなければ、何かに強い興味を示すこともなかったの。どこへ行ってもぼーっとしてる私を何とかしたくて、両親はとりあえずピアノを習わせ始めたんだと思う。レッスン自体は私も嫌がることなく通ってて、中学の合唱コンクールのときはいつも伴奏を弾いてた」
僕も似たような境遇だった。合唱コンクールでは団結していくクラスメイトを横目に、僕は淡々と指揮者から指示されたパートの伴奏を弾いていた。
「でもある時、私は何でピアノを習い続けてるんだろうって、考えちゃったの。自分の中で理由を探してみたんだけど、どうしても見当たらなくてもやもやしてたときに、両親から、ふみは将来どうするの、って聞かれたの」
公園の隅で、誰も座っていないブランコが、所在なげに小さく揺れている。風を感じられる頻度が、さっきから少しずつ増えていた。
「未来のことって、私どうしても興味が湧かなくって。できるだけ誰にも迷惑をかけずにその場を凌げていればそれでいいと思ってた。ピアノも同じだったんだよ。とりあえず続けていれば、両親に私が何かに打ち込んでる姿を見せられるし、そしたらきっと何者かにはなれるって、あわよくばピアニストの端くれにでもなれるんじゃないかって、期待を持たせ続けられたんだよ」
空き瓶を持つふみさんの手は、小刻みに震えていた。そのやり場のない息苦しさが手に取るようにわかる分、安易な共感の台詞を投げかけたくはなくて、僕は脳内でかけるべき言葉を一つ一つ検証した。
「…一度そう思ってしまうと、もうピアノを弾いてても、騒音にしか聞こえなくなりますよね」
ずっと正面を向いていたふみさんが、僕のほうを見る。そして、ゆっくりと深く、一度だけ頷いた。
「自分で弾いてるときですら、ピアノとの間に壁ができてて、私はその壁一枚隔てたところに住んでる、音楽なんてこれっぽっちも興味のない隣人の気持ちだった。そのうちに、日常の生活音とか、人の話し声とか、全部頭の中でハウリングするようになっちゃって。だから私、最近はできるだけ耳栓をつけてたの」
ふみさんは胸ポケットから小さな耳栓を取り出して、自分の掌に載せる。その安っぽい耳栓は、ふみさんを世界から遮断するには、あまりにも心許なかった。
「つけ始めたころは、少しは効果あるかなって思ってたの。でもある日、自分の部屋で耳栓つけてたら、はっきりと誰か知らない人の低い声で、『何してんの?』って聞こえて、私とっても怖くて、いよいよ終わりだ、って思った。最初は死のう、って思ってた、この状況から抜け出すにはそれしかないって。そしたら家族はどう思う? お父さんは? お母さんは? 妹は? 勝手に私が死んで、自殺者の出た家族として周りから哀れまれて、それってとんでもなく迷惑じゃない? 私は家族のために何かした? 何もしてないのに? それで? 自分勝手に?――」
ふみさんは過呼吸になっていた。そんな状況で、思いのほか僕は冷静だった。声に出すか出さないか、ほんのそれだけの違いでしかないのだ。僕は幼い子供を寝かすように、ふみさんの背中に手を置き、ぽん、ぽん、と一定のリズムで優しく叩いた。ふみさんは何度も咳をして、えずいて、でも涙を流すことなく、最終的に元の息遣いを取り戻した。ふみさんは俯いたまま、「ありがとう」とか細い声を発した。
「全部無理になっちゃって、だから今日初めて、ピアノのレッスンを休んだの。でもおかげで、ようやく心が決まった」
僕たちはもう後戻りできないところまで来ている。そんな予感を覚えながら、僕はふみさんの背中から手を離すことができなかった。
「ふみさんはいったい、何をするつもりなんですか」
僕は耐えかねて問いかける。そしてふみさんはこちらを向いた。さながらモナ・リザのように、少女は微笑を湛えていた。
「私は私を、なかったことにするの」
5時を知らせる『遠き山に日は落ちて』が、ぼんやりと街じゅうを包み込むように流れ始める。そのひどく平和な空間から置いていかれたかのように、僕たちは相手の瞳に自分が映るのを見ながら、ぴくりとも動けずにいた。どうか今だけは、今だけはこのシャボン玉のような空間が破られませんようにと、僕は強く願っていた。そして音楽が鳴り終わるのを待っていたかのように、ふみさんはスクールバッグを持ち上げ、ベンチから立ち上がった。
「夏樹、ここからいちばん近い砂浜に連れてって」
ふみさんはそう言いながら、線路のほうを眺めている。頭上の蝉の声が、思い出したように僕の鼓膜を激しく刺激した。
「砂浜ですか。電車に乗らないと行けないですけど、それでも大丈夫ですか?」
僕の問いに、ふみさんは何の迷いもなく頷く。「私は私を、なかったことにする」ということが、いったい何を指しているのかはわからない。ただ、僕はそれを見届けずにはいられなかった。僕は「わかりました」と返事をして、紺色のスクールバッグを肩にかけ、立ち上がった。
公園から駅までは程近く、歩いて10分ほどの距離だった。田舎ではあるものの、それでも県で最大規模の駅のコンコースには、制服姿やスーツ姿の人々が行き交っていた。県のPRソングや、駅弁を売る店員の呼び込みも相俟って、想像以上に駅には音が溢れていた。
「耳栓は、しなくて大丈夫ですか」
僕は隣を歩くふみさんに問いかける。ふみさんは両手でラムネの空き瓶を握り締めたまま颯爽と歩いていて、少しペースを上げないと置いていかれそうになるほどだった。
「もう大丈夫。ちょっとだけ急がなきゃ」
ふみさんはそう言うと、急に方向を変え、券売機に向かっていく。僕が二人分の往復切符を買うと、ふみさんは自分の分のお金ちょうどと引き換えに切符を受け取って、改札に歩き出す。改札機はかしゃり、と音を立てて、切符にぽっかりと穴を開けた。
ホームに降りると、僕たちを待ち構えていたかのように、年季の入った四両編成の列車が停車していた。目の前の車両のボタンを押し、ドアを開けて乗り込むと、真夏の勢いでエアコンが効いていて、少し寒く感じられるほどだった。僕たちがドアを閉めて、空いている席に並んで座ると、程なくしてこの県出身の歌手の曲が駅メロ調に流れ始める。そして、「発車します、ご注意ください」という車掌のアナウンスの後、列車はゆっくりと動き始めた。
夕方の上り列車には、仕事終わりらしきサラリーマン男性や子供を連れた買い物帰りらしき女性がちらほら乗っている程度だった。その乗客も次の駅とその次の駅で一人残らず降りてしまい、そこからの車内にはがたんごとんという列車の走行音だけが響いていた。
「あと何駅?」
ふみさんが少し眠たげに口を開く。気づけば車窓は住宅地を抜け、緑一色に塗り替わっていた。
「二駅です。もう20分くらいで着くと思います」
僕の答えに、ふみさんは小さく頷く。木々の間から断続的に西日が差し込んできて、とても眩しい。僕が目を細めていると、列車はトンネルに突入した。
向こう側の窓ガラスには、他に誰もいない車内で、隣同士で座っている僕たちが写った。ついさっきまではお互いの存在すら曖昧にしか認識していなかった二人が、当たり前のように横に並んでいる。ガラスの中のふみさんは、今から自分を「なかった」ことにしようとしているとは思えないほどに、落ち着き払った様子でガラスの中の僕を見ていた。ふみさんが隣にいることに、少しでも違和感を覚えられたらいいのにという思いが、僕の脳裏を掠った。
「自分をなかったことにするって、いったいどういうことなんですか」
僕はガラスの中のふみさんに聞いてみる。しばらくの間、車両の走行音が車内を満たしていた。
「私の生きてる意味は、宇宙レベルと地球レベルで、違ってくると思うの」
ふみさんが口を開く。僕は黙って、ふみさんの言葉を聞いていた。
「宇宙からしてみれば、太陽系の配置も、地球に人間が棲めることも、私たちが今ここにいることも、特に意味なんてないの。ただそこにそうあるだけで、それ以上でもそれ以下でもない。でも私たちの生きている地球では、いろんなことに意味があるの。私は両親にとっての娘で、妹にとっての姉で、同級生にとっての同級生で、先生にとっての生徒なんだから、その全ての関係を勝手に反故にしちゃいけない。それは私にとっての生きる意味だし、それを社会と呼ぶんだと思う」
ふみさんは淀みなくそう語った。それは年月をかけて濾過された思考だった。だからふみさんは――
「だから私は地球から出るの」
列車がトンネルを抜け、僕たちは窓ガラスから消えた。その向こうには、夕日でほんのりと赤く染まった海原が広がっていた。線路が海沿いに出たら、目的地まではあと少しだ。傍らを見ると、ふみさんはとても大切そうに、空っぽの瓶を両手で握り締めていた。
駅に着いて、車両のドアを開ける。蝉の大合唱と湿気をふんだんに含んだ空気は、夕方になってもまだそこにいて、やはり鬱陶しい。僕はドアを閉めて、誰も降りる人のいないホームで、もうしばらくは戻ってこない列車を見送った。
「行こう」
振り返ると、ふみさんは外装が錆だらけの跨線橋の前に立っている。ふみさんは少し急いでいるようで、僕は駆け足でふみさんの横に並び、階段を登り始めた。
無人駅の改札を抜けると、道路沿いには瓦屋根の一軒家が立ち並び、その間に材木店や廃れた個人商店がぽつぽつと紛れていた。少し先に「海水浴場 すぐそこ」という手作りの看板が出ていたので、僕たちは目の前の道路を渡り、その看板のほうに歩いていった。
海水浴場にはものの3分ほどで到着した。砂浜はそこそこ広く、ピーク時にはきっと芋を洗うような混雑具合なのだろうと想像したが、お盆過ぎの海水浴場には人っ子一人歩いておらず、一瞬ここが僕たちのプライベートビーチなのではないかと錯覚した。夕日はだいぶ水平線に近づいていて、海との境界がはっきりとわかるほど、空は淡い紫色に移ろっていた。
「間に合った」
ふみさんは僕の傍らでそう呟いて、肩からスクールバッグを下ろし、砂浜に置く。遠くのほうから、ウミネコの鳴き声が聞こえてくる。
いったい何に間に合ったんですか。これから、何が起こるんですか。矢継ぎ早に質問したい気持ちに駆られたが、僕は口を噤んでいた。僕はこの砂浜までの水先案内人でしかない。スクールバッグを肩から下ろしながら、僕はふみさんの次なる行動を待っていた。
「夏樹、ありがとう」
ふみさんは夕日を見つめながら、僕にだけ聞こえるくらいの声でそう言った。ふみさんの滑らかで真っ白な頬に、沈む準備を始めた太陽の光が、少しだけ滲んでいた。
「いえ、そんな大したことじゃないですよ。最寄りの砂浜まで一緒に来ただけですし」
潮風がふみさんの髪を攫う。耳の下のにきびは、見紛いようもなく、小さいながらも確かにそこにあった。
「ううん。それだけでいいの」
ふみさんはそう言いながら、掌の中の空き瓶を見つめる。そして一瞬夕日のほうに視線を戻したあと、ふみさんはおもむろに僕の正面に立った。その表情には、若干の不安が見て取れるような気がした。
「夏樹、見てて」
ふみさんの決然とした声に、僕は頷く。ふみさんは空き瓶を持ったまま、両手を背中の後ろに隠し、眠るように目を瞑った。そして、からん、という音が聞こえた。ふみさんは恐る恐る目を開けながら、両手を僕の前に差し出す。左手にはビー玉が、右手には本当に空っぽになったラムネの瓶が、それぞれ乗っかっていた。
「…できた」
ふみさんの口から、白い歯が少しだけ覗く。とても綺麗に並べられた歯に、僕は思わず見入ってしまった。この少女は魔法使いの末裔かもしれない。馬鹿げた妄想だとわかっているが、それでも外に出るはずのないビー玉は、確かにふみさんの掌に鎮座していた。
「日が沈むその瞬間に、ラムネのビー玉を飲み込んでから海に向かって歩いていくと、その人は消えるんだって」
明日もまたいい天気だって、とでも言うように、ふみさんは微笑みながらそう言った。どんなに咀嚼しても、僕はその意味をすぐに飲み込むことができなかった。
「消えるって…それは姿が消えるってことですか? どこか遠くにテレポートされるとか…」
僕の絞り出した声に、ふみさんはあっさりと首を横に振る。
「ううん。存在自体が消えるの。次の瞬間には、私はこの世界のどこにもいないし、私がこの世界にいたという事実も、私にまつわる他人の記憶も、全部消える」
ふみさんの顔に、躊躇う様子は一切なかった。自分を、全部なかったことにする。それが現実的なのかどうかはさておき、それを肯定することの意味を、僕は考えていた。
「…みんな、ふみさんのこと忘れてしまうんですね。家族の皆さんも、学校の皆さんも、ピアノの先生も、みんなそうなんですね。ふみさんは、寂しくないんですか」
ふみさんは少し遠くを見ながら、考えを巡らせる。それでも、ふみさんの表情は変わらなかった。
「ちょっとだけ寂しいよ、幸せだった思い出もあるからね。でも、苦しい記憶のほうが、やっぱり重たいから。存在ごと、しゅわしゅわと消えられるなら、そっちのほうが私は幸せかな」
ふみさんはそう答えるや否や、後ろを振り返る。夕日と水平線との距離は、残り僅かとなっていた。ふみさんはローファーと靴下を脱ぎ、自分のバッグの横に丁寧に並べると、海に向かって砂浜を歩いていく。少しずつ遠く、少しずつ小さくなっていくふみさんを、僕は眺めていた。もうすぐだ。間もなくふみさんは、消える。――僕は急いで靴と靴下を脱ぎ、走り出した。そしてちょうど波打ち際で、僕はふみさんに追いついた。ふみさんは少し驚いたような顔で、僕のほうを向いた。
「夏樹、どうしたの?」
どうして走り出したのか、自分でもわからなかった。さっき出会ったばかりのこの少女に、語るべき思い出も、垂れるべき説法も、僕にはない。でも、僕はどうしても、ふみさんに何かを伝えたかった。
「きっと、…きっと僕ももうすぐ、ふみさんのことを忘れるんだと思います。だから今この場所で、最後までふみさんのことを見ててもいいですか」
ああ、僕はこれが言いたかったのか。ふみさんは僕の目を見て、「うん。ありがとう」と返事をした。その目からたった一滴が滴り落ちていくのを、僕は一言も発することなく、ただ見ていた。
水平線から少しだけ顔を出した夕日は、もう直視できるほどの眩しさになっていて、水面に細長い橙色のカーペットを敷いていた。そろそろ時間だ。ふみさんは何も言わずに夕日のほうを向いて、握り締めたビー玉を口に含み、そして飲み込んだ。刻一刻と沈む夕日に向かって、ふみさんは歩き出す。セーラー服のスカートは、徐々に海水の中に引き込まれていく。僕は制服のズボンの裾を濡らしながら、その時を待っていた。
それは一瞬だった。太陽が完全に沈み切ったその刹那、雷のような眩い光が、音もなく辺り一面を覆い尽くした。信じられないほどの眩さに、僕は目を閉じ、開いた次の瞬間には、太陽のない空と穏やかな海だけが、そこに広がっていた。
僕は一人、呆然と波打ち際に立ち尽くしていた。ふと足元を見下ろすと、ラムネの空き瓶とビー玉が、波に引き込まれないようにしがみついている。僕は空き瓶とビー玉を拾い上げ、誰もいない砂浜を振り返る。広い砂浜に、スクールバッグ二つと靴2足が、ぽつんと置き去りになっていた。僕は置き去りにされた荷物に向かって、歩いていく。
寄せては返す波の音と、遠くからでもよく聞こえる蝉の声が、僕の脳内でひたすらに反響し続けていた。
木陰のベンチに座りながら、僕は鳴き叫ぶ蝉の声と、目の前の芝生で燥ぐ子供たちの笑い声を浴びていた。公園とすぐ側の線路を隔てる柵の向こう側で、1時間に1本ほどしか走らない四両編成の古ぼけた電車が、がたんごとんと音を立てながらゆっくりと走り去っていった。
ふみさんが消えてから1年が経ち、僕は高校3年生になった。
あの日、ふみさんが消えた直後も、僕はふみさんのことをはっきりと覚えていた。だからラムネの空き瓶とビー玉を拾い上げたときも、ふみさんが飲み込んだはずのビー玉がなぜここにあるんだろう、と思ったし、砂浜にバッグと靴が二人分残されていることにも、当然違和感を抱かなかった。そのあと家に帰り、もしかしたら一晩経ったら忘れるかもしれない、ふみさんのバッグも靴も、ラムネの空き瓶もビー玉も、明日の朝には全部消えているかもしれない、と思いながら床に就いたが、次の日目が覚めても、ふみさんの持ち物は疎か記憶もそのまま残っていた。
もしかしたら、と僕は思った。このバッグと靴をふみさんの通っていた高校に持っていけば、何かわかるのではないだろうか。バッグについている校章は間違いなく市内の高校だし、バッグの中のノートや教科書にも、几帳面に「琴浦ふみ」と名前が書いてある。僕はいてもたってもいられず、2学期初日に高校から帰るや否や、ふみさんが通っていたはずの高校を訪れて、ふみさんのバッグと靴を職員に託した。
『あのー、確かにバッグの校章は本校のものと一致しているのですが、琴浦ふみという生徒の在籍が確認できなくてですね…ご足労をおかけして恐縮ですが、一度引き取りにきていただけないでしょうか』
翌日、そんな電話がふみさんの高校からかかってきた。いないはずないじゃないですか、だって校章は一致してるんですよね? じゃあ僕があの日見たのは何だったんですか、幻だとでも言うんですか? ――そんなふうに責め立てたところで、奇人扱いされて終わりだということを僕は知っていた。僕はわかりました、とだけ返事をして荷物を引き取ったきり、それを交番かどこかに引き渡すでもなく、クローゼットの中にしまっていた。それでも、きっと家族が捜索届を出しているはずだと、新聞やニュースも隈なく見るようにしていたが、一向にめぼしい情報は見当たらないまま、平然と月日は経過していった。
僕は一つの結論に達した。きっとあの日、ふみさんはたった一つだけミスを犯したのだ。消える瞬間は、おそらく誰にも見られてはいけない。だから僕の記憶からだけはふみさんは消えることなく、いつまでも残り続けている。そう納得したその日から、僕はバッグの奥底に、あのラムネの空き瓶とビー玉を、常に忍ばせておくことにした。
ぽとり。膝の上に置いてある紙に、何か茶色い物体が落ちてくる。それが蝉の死骸だと、僕にはすぐわかった。僕はその死骸を傍らに置き、膝の上の紙を持ち上げる。相変わらず綺麗だとも拙いとも評価しがたい「平澤夏樹」という文字のすぐ横に、「30」という数字が真っ赤なペンででかでかと書かれていた。僕は1年前から何も変わっていない。「お前はどの大学に入りたいんだ」と両親に切実に聞かれ、とりあえず僕にでも入れそうな地元の大学を志望校に設定したあと、模試では安定してB判定を出し続けていた。
本当に地元の大学でいいの? こっちの大学のほうが就職率高いんじゃないの? そんな両親や先生からのありがたい提案を受けるたびに、僕はなんとかその場をはぐらかした。僕がより良く生きていくための方法を提示されればされるほど、僕の耳は外界の音をうまく拾えなくなっていった。
存在ごと、しゅわしゅわと消えられるなら、そっちのほうが私は幸せかな。
僕はふっと左隣を見る。一人分空いたベンチには、さっき僕が移動した蝉の死骸が転がっているだけだった。僕は蝉の死骸を拾い上げると、落ちていた石で地面を掘って、その亡骸を埋めた。こうすればいつかは、この蝉も形を失い、土に還る。
ねえ、ふみさん。あなたが幻だったらどんなによかったのにって、いつも思ってるよ。どうして今もあなたは、僕の記憶の中にいるの? どうしていろんなものを置いていってしまったの? おかげで、ほら、僕はずっとラムネの空き瓶とビー玉を、持ち歩くようになってしまったんだよ。そんなふうに目の前で消えられたら、僕だって――
僕は目の前に空き瓶とビー玉を掲げながら、思わず息を呑む。もし、例えば、ふみさんが僕の記憶に残り続けていることは、ミスではないとしたら。
5時を知らせる『遠き山に日は落ちて』が、ぼんやりと街じゅうを包み込むように流れ始める。そのひどく平和な空間から置いていかれたかのように、ふみさんは僕の隣に座っていた。ああ、これはあまりにも明晰な幻だ。でも、どうか今だけは、今だけはこのシャボン玉のような空間が破られませんようにと、僕は強く願っていた。そして、音楽が鳴り終わった。
「夏樹、ここからいちばん近い砂浜に連れてって」
ふみさんはスクールバッグを持ち上げ、ベンチから立ち上がる。うねった髪が揺れて、ふみさんの耳が覗く。その耳の下のにきびがなくなっているのを見て、ああ、やっぱりそうなんだと僕は確信した。
「わかりました。僕も行きます」
僕は呟くようにそう言うと、スクールバッグを肩にかけ、立ち上がる。空き瓶とビー玉を絶対に離さないように握り締めながら、僕は夕暮れの公園を後にした。
誰もいなくなったベンチの上で、明日も蝉は、けたたましく鳴き続ける。
《完》