水瓶からこんにちは(4)
さっと、ファリスの顔色が変わる。
「何をっ」
「退かせってば! あんたみたいなガタイのいいやつ、俺がどうこうできるわけないだろ!」
無理矢理、刀を押し退かし、起き上がる。俺はようやく、ファリスの顔をまともに見た。
はっきりとした眉目にすっと通った鼻梁、力強いラインを描く輪郭は凛々しい。薄く形のいい唇は、不誠実な言葉とは無縁そうに見えた。逞しい体格と相俟って、美々しくも精悍な印象を受ける。
(なんだこいつ、めちゃくちゃ美形じゃねーか)
そこにいるだけで迫力のある、映画俳優みたいな男前だった。相手は男だというのに、心拍数が勝手に上がる。先ほどまでの恐怖と緊張からくるそれとは違い、四肢に一気に血が通った。手の指先が、じんと痺れる。
(なん、なんだ……俺……)
同性相手に、これほど動揺したことなんてない。
見慣れない異国人だからとか、美形だからという理由だけではない何かが胸の奥からせり上がってきて、俺はごくりと唾を呑み込んだ。
どうしてか、逞しい筋肉に隆起した褐色の肌に触れたくなる。それは好奇心というには生々しい欲望に満ちていて俺を動揺させたが、抗えなかった。
琥珀色の瞳に映る自分に気がついて、胸の奥がざわめく。
(――目が、逸らせない)
変だと思ったときには、もう遅かった。どうしようもなく、体が熱い。
「俺、あんたが好きだ」
気がついたらそう口走り、俺は目の前の男を手に入れるべく腕を伸ばしていた。
ファリスの頬に指先が近づくだけで、胸が高鳴る。
ファリスは俺の言葉にかなり驚いたらしく、頬に指先が触れても固まっていた。
無抵抗なのをいいことに、唇を寄せる。
俺は今まで、いわゆる恋というものとは無縁だった。
純粋な恋心を持つ前に、女の欲深さを知ってしまっていたからだ。俺に近寄ってくる女は皆、俺と金を切り離して考えてはいなかった。ぞくりとするようないい女も確かにいたが、一度か二度抱けば飽きた。自分の総てを差し出してでも手に入れたいと思うような女はいなかった。
満たされているようで、どこか満たされない。そんな感覚が、俺の飽きっぽい性格の根底にある気がしていた。
けれど、出会ってしまった今ならわかる。どんなに魅力的な女がいたとしても、この男には敵わないのだ。
(この男にしか、俺の飢えは満たせない)
衝動のように湧いた恋慕だったが、理解してしまったらなんの抵抗も感じなかった。これが運命ってやつか――と、ごく自然に生まれた感情を受け入れる。
この男が欲しいと、ただ単純にそう思った。
触れた唇の熱さに、うっとりと瞼を閉じる。
暫く味わってから瞼を持ち上げると、自分の瞳が潤んでいるのがわかった。間近にある琥珀が、俺の瞳を捉える。
「……ッ!」
ファリスの瞳孔が一瞬で大きく広がり、俺は強く突き飛ばされていた。
「やめろ!!」
「いったぁ、なんだよ急に!」
俺にとっては神聖さすら感じた静寂がうち破られる。
もう一度引き寄せようと腕を伸ばしたが、それよりも早くファリスの手に首を掴まれて、強引に床に倒された。
起き上がろうと藻掻くと、力任せに喉を思い切り圧迫される。
「うっ――く、な……なに……」
突然の仕打ちに目を見開くと、ファリスがもの凄い形相で俺を睨みつけていた。刀を今にも振り下ろしそうな位置に構えてすらいる。
「貴様、俺に魅入ろうとしたな!?」
切羽詰まったファリスの瞳は、動揺を押さえ込もうとしてか興奮と敵意に揺らめいていた。
(なんで――)
容赦のない圧迫で呼吸を妨げる手を、引き剥がそうと全力で藻掻く。抵抗しなければ殺されると思ったし、実際ファリスは本気だった。
「ぁ、が……ぅぐっ、……ッ…………や、やめ、」
「黙れ! 何を企んでいるのかは知らないが、裏切り者が付け入る隙など、我が国にはもうない!」
「な、なんの、ことだか……わか……っ」
なんだその、いかにも俺が邪教徒みたいな設定は!?
身に覚えのない、しかも理解とは程遠い言い掛かりをまくしたてられても困る。
どんなに藻掻いても、今や握り潰さんばかりにこめられたファリスの握力に、俺は唇を震わせて喘ぐことしかできなかった。
「――、――――ぁ…………ッ」
思考が痺れ、腕に力が入らなくなっていく。
「人心を惑わすその穢れた血肉を捨て、魂だけ逃げ帰るがいい。そして背約者に伝えろ。必ず、貴様を滅ぼしてやるとな!」
寸分の狂いなく、首めがけて刀が振り下ろされる。俺はただ、絶望にも似た怒りを込めて、その刃を見つめた。
「ファリス!? 何をッ」
俺の首と胴を切り離す筈だった鋭い刃は、ファリスを背後から羽交い締めにしたシュナによって寸前で止められる。
「目を覚ませファリス! 花嫁を連れたシェラディアを血で穢す気か!?」
シュナの言葉に瞠目し、ファリスは俺を呆然と見下ろした。間を置かずに首を掴んでいた手が緩み、シュナに促されるようにして俺の上から退く。
激しく咳き込んで身を丸める俺を横目に、シュナの手がファリスの肩を叩いた。
「少し外の空気でも吸ってきたらどうだ。この子は俺が見張ってるから」
「……気が動転していただけだ。もう問題ない」
「しかし」
「殺せないとなると、色々と厄介なことになるな。早々に何か手を打たなくては――」
「ファリス? なんの話だ?」
「こいつは本物のヴィナ・ユナだ」
「だからそれはまだ」
「よく見ろ。あんなに鮮やかな紫色の瞳を、俺は見たことがない。いや、だめだシュナ。見るな。さっき俺に魅入ろうとした」
動揺混じりに苦々しく吐き出されたファリスの言葉に、シュナがはっとしたように俺を見た。
当然、俺は全力で首を横に振る。
刀を振り下ろされたときは俺を殺そうとするファリスに怒りすら覚えたが、首を掴まれた痛みが強まるにつれ、恐怖が今更のように湧き上がってきていた。
殺されかけた恐怖が、ガタガタと俺の体を震わせる。
情けないことに、どんなに止めようと思っても、ぼろぼろと涙が零れて止まらなかった。
シュナが一歩、俺に近づく。
「おい――」
「わかっている。触らないし、瞳は見ないようにするさ」
肩を掴んだファリスの手を軽く叩いてから外し、シュナは俺の前に屈んで顔を覗き込んできた。本人が言った通り、微妙に視線が逸らされている。
眉や目尻がすっと細くなっていて、ファリスよりもすっきりとした顔立ちをしてる男だった。こいつも、それなりに綺麗な顔をしている。
綺麗といっても、あくまで『男らしい』ことを前提としての表現だが。
観察するように眺めてくる不躾さが嫌でシュナを睨みつけたが、震えてるし泣いてるしじゃ威嚇にもならない。
だが、怯え縮こまるだけでは俺のプライドが許さなかった。そもそも、この震えや涙は、俺の意思を無視して勝手に出ているだけだ。
冷静なのに心身を制御できないってことは、自覚がないだけで俺もかなり混乱しているのかもしれないが、それを認めてやる必要はない。
「なぜ、ここに現れた。背約者の解放を望むなら、奴が封印されている帝宮に行くべきなんじゃないのか? お前はいったい何を企んでいる」
またかよ、と思わずにはいられなかった。どうしてこいつらは、わけのわからないことしか言わないんだ? だいたい、なんで俺がヴィナ・ユナとかっていう変なもんにされてんだ? 瞳が紫になってるからか?
というか、いつから紫になっちまったんだ?
(いや、ちょっと待てよ……? 水の中で会った美女の瞳が、紫だったじゃねえか! 変なモノも呑まされた!)
思い当たる出来事は、それしかない。もしかしなくても、あれが原因じゃないだろうか。
(水と一緒に吐き出せたと思ったのに)
あの女こそ、ヴィナ・ユナだったんじゃないだろうか。つまり、俺はあいつの身代わりに仕立て上げられた?
(……冗談じゃない)
でも、事情を説明したところで、信じてくれるだろうか。今までの態度を見る限り、こいつらのヴィナ・ユナに対する嫌悪や疑心は強い。
(でも、言うしかないよな)
他にどうしたらいいかわからないし。
「何もわからないんだ。さっきそいつ――ファリスにも言ったけど、俺は自分の意思でここに来たわけじゃない。気がついたら、ここにいたんだ」
「黙れ。そうやって油断を誘い、貴様らが一体どれだけの人々を闇に惑わせ殺していったか……。我らは、何年経とうと忘れはしないぞ!」
「嘘じゃない! 俺は本当に――」
「下手な芝居はやめろ!」
「ファリス、落ち着け。本当にお前らしくないぞ。やっぱり、外で頭を冷やしてくるか?」
シュナがそう言うと、ファリスは顔を顰めた。忌々しげに嘆息し、天幕を支える支柱の一つに背を預ける。
自分でもらしくないと思っているのか、動作の一つ一つに苛立ちが見えた。
俺だってめちゃくちゃ腹が立っていたが、それでもファリスが気になってしまう。惹かれるままに目で追ってしまう自分がいて、悔しかった。
俺が何を見ているか気になったのか、シュナが辿るような仕草をみせたので、慌てて視線を戻す。
一瞬目が合うと、シュナの顔がぎくりと強張った。
どいつもこいつも、俺を化け物みたいに扱いやがって。
「……俺は、ヴィナ・ユナなんかじゃない」
「君がヴィナ・ユナではないと証明できる方法がある」
「本当に? どうやって?」
「祝福の言霊だ。なんでもいい。一つ唱えてくれ」
普通に知らないっつーの。というか、
「ヴィナ・ユナがそれを唱えるとどうなるんだ?」
俺の質問にシュナは目を瞬かせ、ファリスは白々しいことをと舌打ちをした。
本当に知らないんだから仕方ないだろうが。
「死ぬほど痛い思いをするだろうな。その身に宿している力が穢れているから、邪気を祓う言霊は苦痛をもたらすはずだ」
つまるところ、俺が身代わりとしてヴィナ・ユナにされてたらヤバいってことだよな?
「……俺、祝福の言霊を知らない」
「なら一つ教えてやろう。『太陽神と月女神の加護があらんことを』だ。ほとんど挨拶がわりになっている言葉だ。だが、だからこそ、力ある者が発すれば相当な力が宿る」
苛立つファリスとは正反対に、シュナは丁寧に俺の質疑に答えてきて、追いつめてくる。
まずい。非常にまずい。死ぬほど痛いとか、マジでありえないし。
「俺の瞳は産まれたときから黒だ。だけど、落ちた湖の中で、紫の瞳の美女に会った。そいつに無理矢理何かを飲まされたんだ。瞳が紫になったのは、そのせいだと思う。彼女がどんな目的で俺に何を仕掛けたのかはわからないが、俺はヴィナ・ユナじゃないけど、ヴィナ・ユナなのかもしれない」
「だから、祝福の言霊は言えないと?」
「そうだ」
「仮にヴィナ・ユナに仕立てられたのだとしても、その美女が問題だ。君の言葉だけでは、存在を信用できない」
「嘘じゃない! 俺は確かに――っ」
「害意がないなら、騒ぐな」
言い募ろうとした言葉を、制される。
「確かめようのない言葉の真偽を議論するつもりはない。お前が言う女は存在するものとして話を進める。危険因子を存在しないと仮定するわけにはいかないからな」
お前の言葉を信じたわけじゃないって言いたいんですね、わかります。考え方としては間違ってないんだろうが、否定されているのが俺なのでむかつく。
「女の正体が気になるな。他者をヴィナ・ユナに仕立てる力があるとなると、ヴィナ・ユナではないかもしれない。背約者の分身。あるいは力の一部を与えられた存在――」
「背約者の力が外界に洩れている……つまりは、結界が弱まっているということか?」
思わずという体で、ファリスが口を挟んだ。それに対して、シュナが曖昧に頷く。
「可能性の一つとして考慮すべきだと思う。現状では確かめようがないがな」
「伝令くらいは出しておくか?」
「いや、それはもう少し事態が見えてきてからにしよう。とにかく、今はこの子だ。ヴィナ・ユナである以上、なにがしかの役割は絶対にあるはずだ。本人が無自覚だったとしても、暗示や呪がかけられている場合もある」
「暗示……?」
思わぬ言葉に俺が反応すると、シュナは少しだけ気遣わしげに俺を見た。
「お前の意志を無視――もしくは意識を奪って、体が目的のために動くことがあるかもしれないということだ」
なにそれ、怖ぇ!
いつか観たノンフィクションの再現ドラマ番組を思い出して、俺は身震いした。
詳しい内容は覚えていないが、スーパーモデルが薬物と催眠によってスパイに仕立て上げられていたやつだ。
(俺の体が、他人の意思によって動くかもしれないってことか?)
思わず両手を前に出して見下ろすと、俺の不安を察したシュナが肩に触れてきた。はっと顔を上げるが、視線はファリスに向いている。
「もっと詳しい話を聞かなければならないだろうが、まずは――」
本当に、本当にさりげない仕草で、シュナの指先が動く。
肩を撫でるようにして腕に降りた手のひらは、どう見ても獲物の隙をついて捕獲しようとする動きだった。
(こいつ――!)
こんな見知らぬ世界、見知らぬ人間がいる場所で、俺が油断なんてしているわけがない。
指先に拘束の力が込められる前に、俺は思いきりシュナを突き飛ばした。