水瓶からこんにちは(2)
翌朝、チェックアウトを済ませてから、清々しい朝の空気に誘われるまま近くの湖に散歩に出た。湖の周囲を、景色を楽しみながら歩くのは思っていた以上に気持ちのいいもので、俺はいつになく良い気分だった。
湖を囲う道はなだらかな斜面になっており、徐々に切り立っていく。過去に地盤沈下でも起きて湖になったような地形だった。一番高くなっている岸壁は展望台になっていて、湖とその奥に広がる緑豊かな景色が見渡せた。
芽吹き始めた新緑と、濃くなり始めた青空の対比が美しく、素直に惹き寄せられる。ひと気のない湖は静かで、俺は神秘的な景観に魅入った。
最近のこと、もっとずっと昔のこと、様々なことに想いを馳せては霧散させて、ゆったりと流れる時間を楽しむ。
こんな時間を過ごすのは、久しぶりだった。
伸びすぎた前髪が日に透けて輝くのは綺麗だったが少し邪魔で、視界の端にちらつくそれを掻き上げる。髪を耳にかけながら密集する木々を見上げたとき、ふと違和感に気がついた。
「……うん?」
遠く近く断続的に聞こえていた鳥の囀りが、不自然なほど長く沈黙している。
今更だったが、いくら平日の早朝とはいえ、この広く美しい湖に人が一人もいないというのは奇妙だった。
微かな不安を感じて、周囲を見渡す。首を左に振ったとき、驚くほど近くに人が立っていて、俺の心臓が跳ねた。
緊張に強張った体を宥めながら、相手を確かめる。
見た目は二十代半ばだが、瞳にはそれ以上の奥深さを感じさせる、不思議な引力のある美人だった。
思わず感嘆の口笛を吹いて、相手を改めて眺める。中性的な容姿が性別を曖昧にしていたため不躾な視線になったが、どんなに美人でも男を口説く気はないので仕方がない。
だがすぐに、相手の格好が妙なことに気がついた。
目の粗い麻布のようなローブといい、そこから覗く衣服といい、まるでファンタジーゲームか映画の魔導師だ。
しかも「趣味のコスプレ」という感じじゃない。それを着て生活をしているような、何十億と予算をかけて本格的に制作された映画の世界から、役柄そのままに抜け出てきたような独特の雰囲気があった。
装飾具にも美しい意匠が凝らされていて、年月を思わせる鈍い輝きを放っている。
俺が唖然としていると、美人の視線がこっちを向いた。
滑らかな頬や喉元、首の細さから、女だと判断する。
女子中高生が見たら悲鳴を上げて駆け寄りそうな、正に男装の麗人だった。
耳を飾るピアスが、鋭く陽光を反射して煌めく。眩しさに目を細めると、女の右手が優雅に持ち上がり、ローブを跳ね上げた。
俺は口説こうとしていたことなどすっかり忘れて、その指先がどこを差しているのかを目で追った。
思わせぶりな仕草だったにも拘わらず、そこには穏やかな湖しかなかった。首の長い浪漫生物がいるわけでもなく、山の向こうに巨大な都市が浮いているわけでもない。
女の格好に感化されて幻想的な期待をした俺も俺だが、ちょっとがっかりした。
仕方なく女に向き直ろうとしたら、俺のうなじ――いわゆる『ぼんのくぼ』ってところにぴたと何かが当てられた。
いや。なにか、じゃない。女の指先だ。
「なんだよ」
振り返ろうとすると、ぐっと強く押されて阻まれる。ぼそぼそと女が何かを呟いている声が聞こえた。
「おい。何言ってんだよ、お前――」
俺の問いかけを無視して、一言二言と言葉が重ねられる。その度にうなじが熱を持ち、意識がぼうっとした。
もしかしなくても、これはヤバいんじゃないだろうか?
俺は前に足を踏み出すことで女の手から逃れようとしたが、指先がうなじから離れた瞬間、俺の足許から目も開けられないほど強い光が放たれた。
「ッツ!」
目を灼かれる恐怖よりも、その光がなんなのかが気になってるあたり、俺も相当退屈していたらしい。
だがその結果は、俺の予想を超えて冗談みたいだった。思わず笑ったくらいだ。
本来ならCG加工されて映像に加えられるはずの、俗に言う魔法陣のようなものが青白い光を放ちながら、地面に広がっていた。そして、さらに愉快なことに、俺の体が二十センチくらい浮いていた。
「すごいな。俺って実はまだ旅館で寝てるのか?」
どうやって浮いてるのか確かめようと手足を動かしながら女を見ると、女は俺を見て苦笑した。
「私より図太い神経してそうで安心したよ。同じ地球人のよしみで、わざわざあんたの苦労を一つ減らしにきてやったんだけど、必要なかったかなぁ」
「地球人? 妙な括りをしたもんだな」
「そうでもないよ。これからあんたが行く場所は、異世界だから」
「へえ、異世界か。そろそろ日本にも飽きてきたところだ。海外通り越して異世界に行くのも悪くない」
「言っておくけど、夢じゃないよ」
「は? これのどこが現実だと――」
疑問を言い終える前に、不可思議な現象が終わった。体が重力に従って落ち、上手く着地できずによろめく。転落防止用の柵に掴まり、体勢を立て直した。
「目がチカチカするな。で、あんたは俺にいったいなんの魔法をかけたんだ?」
「そのうちわかるよ。そうしたら感謝してよね」
「感謝する価値があったらな」
「――時間だ。間に合ってよかった」
女は俺の言葉に不敵な微笑を返すと、再び湖を真っ直ぐ見た。つられそうになったがさっきのこともあるので、俺は後ろ手に柵を掴んだまま女から目を離さなかった。そんな俺の態度に、女は幼子を見守るような眼差しで、目尻を下げた。
邪気の無い、綺麗な笑みだった。
『お前の運命に、太陽神と月女神の加護があらんことを』
「なに?」
耳慣れない言語で女が何かを告げると、ドクンと大気が脈打った。重低音に似た、体に響くほどの波動が背後から迫る。思わず振り返ると、二度目の波動に世(丶)界(丶)が(丶)揺れた。
震源地は、湖だった。
一度目の波動で起こった波紋が二度目の波に追いつかれて乱され、呑み込まれていく。
「なっ――ッ!」
何が起こっているのかと柵から身を乗り出すと、崖下から駆け昇ってきた強い風に体を叩かれる。清涼な湖を滑ってきたとは思えない、乾燥した熱風だった。
その風の中に、焼けた砂の匂いを嗅ぎ取った瞬間、俺が寄りかかっていた柵が、跡形もなく――消えた。
◇ ◇ ◇
柵が消えたらあっという間にドボン、だった。
しかも沈む沈む。面白いくらい沈む。
けれど俺は、この状況に恐怖を感じなかった。それよりも、見上げた先にある湖面の美しさに見蕩れていた。
体が巻き込んだ空気が気泡となり、キラキラと輝きながら浮上していく。
あの高さから誰かを蹴り落とすことならあったかもしれないが、自らが湖に飛び込むことは一生なかっただろう。夢だろうが、貴重な体験だ。
どうせならこんな事故みたいにじゃなく、思いきり助走をつけて飛び込みたかった。きっと、凄く気持ちよかったに違いない。
いつの間にか遠のいていた水面に、ようやく微かな不安を抱いて、俺は軽く体を捻ることで下降を止めた。
パーカーとジーンズは、水を吸うとかなり重い。その重さが手足に伝わってきていた。
(なんつーか、感覚がリアルな夢だな)
そんなことを頭の隅で思いながら、浮上するために水を掻く。水面に上がり、もう一度あの女と会いたい気分だった。滅多にいない、面白そうなタイプだ。
ファンタジーというジャンルに特別興味を持ったことはないが、有名な映画は一通り観ているし、ゲームも中学までだがそれなりにプレイしていた。
好きか嫌いかと訊かれれば、嫌いじゃない。
(…………?)
手で水を掻きながら、俺は違和感を抱いた。
かなり沈んだので湖面が遠いのは仕方ないが、浮けないはずはない――のに、一向に湖面が近づいてこない。まるで幻のように水面は遠く煌めくばかりで、浮上する速度で遠ざかっているように見えた。
夢なのでそういう事態もあり得るんだろうが、如何せん息が苦しい。夢だからといって、耐えられるものじゃない。
しかし、焦ったところで目に見えるのは水だけだった。
あまりの苦しさに喘いだ口から、肺に残っていた空気ががぼっと逃げる。空気の泡は俺の焦燥を嘲笑うように、湖面へと吸い込まれていった。
なんだそれ。
(ん?)
睨みつけた泡の先に人影を見つけて、俺は目を凝らした。光を透かす水の中で、男なら一度は憧れるような逞しいシルエットが蒼く影を落としている。
筋肉がつきにくい薄い体はコンプレックスだったりするので、俺は羨ましさに現状を忘れて、男を目で追った。
金の髪や、手足にある装飾品が、陽光を弾いて煌めいている。好奇心から顔を見たいと思ったが、遠すぎて無理だった。苛つくままに舌打ちすると、どこかに意識がすうっと引っ張られた。
かぽ、となけなしの空気が口から零れて、我に返る。
意識が遠のきかけたのは、酸欠だからだ。
不意に、「夢じゃないよ」という女の言葉が、ずんと俺の意識に重くのし掛かった。
(やばい、のかもしれない)
事態の深刻さに焦りながら、がむしゃらに手足を動かす。揺らめく湖面の遠さに気力が萎えそうになったが、死への恐怖が俺の体を動かした。
きつく瞼を閉じたまま闇雲に動かしていた手が、唐突に何かに触れる。
(わっ、な、なんだ!?)
俺は驚くままに、それを強く握っていた。
ちょうど一掴みにできる太さと柔らかさが、その物体の正体を容易く推測させる。
(これはなんつーか……、女の腕?)
答えを確かめるべく瞼を開くと、紫水晶みたいな瞳をした、絶世の美女が目の前にいた。
もの凄く不機嫌な顔で俺を睨んでいるが、それすら絵になるほどの美貌だ。腕を美女が引き寄せたので、それを掴んでいた俺も彼女に近づく。
(……あ)
その美貌に思考能力を奪われていた俺は、彼女のくちづけを無抵抗で受け入れていた。いや、こんな美女とのキスを拒める男がいるわけがない。
柔らかく弾力のある唇の感触に酔い、促されるままに口を開く。入り込んできた舌と共に、つるっとした丸い物体が口内に押し込まれた。
(え!?)
唇が離れたところでどんと胸を強く押され、反射で謎の玉をごくりと呑んでしまう。驚きに俺が目を見開いたときにはもう、彼女は背を向けていた。
引き留めようと掴んでいた腕を引くと、なぜか俺のほうがぐっと彼女に引き上げられる。しかも信じられないことに、俺の体は彼女にぶつからずにめり込んだ。
「んなばかなっ」
思わず口を開いてしまった瞬間、耳元でざばっと水が体から剥がれる音が聞こえ、ぐらりと体が傾ぐ。
何が起こったのか理解できないまま、体はどこかに倒れ込み、強い衝撃と共に破砕音が響いた。
一拍遅れて、大量の水がばしゃりと地面に広がる。
水から解放されたことで、本能が求めるままに息を吸い込んだが、焦りすぎて盛大に咽せた。何度もえづき、それなりに呑んでしまっていた水を口から吐き出す。
「……がはっ、ごほっ、っツ……けはっ」
これはこれで苦しい。だが、咳の隙間に水ではなく酸素が送られてくるのは救いだ。それにこれだけ吐けば、さっき呑み込まされた玉も吐き出せているだろう。
何を呑み込まされたのかは知りたくないので、俺は息が落ち着くまで目を瞑ったまま深呼吸を繰り返した。
頼むから、どこかに転がって視界から消えていて欲しい。
息も気持ちも落ち着いてきてから、顔に張り付いた前髪を掻き上げる。周囲を見渡すと、割れた陶器の破片が水浸しで散らばっていた。
何かが砕けた音はこれかと納得しつつ、更に視線を巡らせる。真後ろに幌のある荷台があり、その中に縦に長い水瓶が複数あった。どうやらその一つを割ってしまったらしいが、ここに俺がいる理由がわからない。
しかも俺の左手は、しっかりと水瓶の縁の一部を握り締めていた。美女の腕を掴んでいたはずが、なんでいきなりこれになったのか。
「なんなんだよ、マジで」
もっとよく周囲を見るために体を起こすと、何かが足に引っ掛かる。振り返ると、割れ残った瓶の底部分に片足が入っていた。
思わず凝視してから、ぐるりと視線を上に向ける。
(なんていうかこれは――)
この水瓶から出ようとしたが失敗し、荷台から水瓶ごと転がり落ちて割れた的な?
いやいやいや。
俺は湖に落ちたのであって、水瓶に体を沈めた覚えがない。あっても困る。そんな趣味ないし。
(俺くらいなら、ギリで入れそうではある……けど)
事態が把握できずに首を傾げていると、ばたばたと忙しない足音が近づいてきた。岩場に敷かれた板の上をがたがたと踏み鳴らしながら、男が二人現れる。
見るからに逞しい体は褐色で、ゆったりとした砂色のローブとズボン、それに萌葱色の腰布を巻いていた。頭にも白い布を被り、腰にはでかい刀を佩いている。
細かい部分は曖昧だったが、砂漠を連想させる風体だ。
『お前、ここで何をしている! どこから現れた!?』
「え?」
早口で怒鳴られたが、何を言っているのかさっぱりわからない。
『Please talk in English or Japanese』
咄嗟に英語で話しかけたが、それにも眉を顰められる。仕方なく挨拶程度しか喋れないフランス語、ロシア語、中国語と一通り口にしたが、言語を変えるごとに男達の眉間に皺が増えた。
俺のほうが意思疎通の努力をしているのに、なんで睨まれなきゃならないんだと苛立ちかけて、手に持ったままだった水瓶の欠片の存在を思い出す。
(もしかして、これを怒ってるのか?)
どちらかといえばあの美女の仕業だと言えなくはないが、実際には俺が割ったみたいだし、弁償しろと言うならしてもいい。だからとりあえず、言葉の通じるヤツを連れてきて欲しい。
俺は溜息混じりに立ち上がろうとしたが、体を前に傾けた瞬間、眼前に刃先を突きつけられて硬直した。
『どこの言葉だ? おい、動くな!』
「おわっ、ちょ、危ね……っ」
俺の抗議を黙らせるように、刃を首に押しつけられる。曲面に添って、陽光がぎらりと滑った。絵本の中でアリババとかシンドバットが持っていそうな、薄刃の新月刀だ。
(ほん、本物……だよな?)
言葉が通じない場合、警戒している方より、させている方が不利だ。男の声音に強い警告を感じるので、これ以上不信感を煽れば斬りつけられるかもしれない。
俺は二人を刺激しないよう、ゆっくりと両手と顔を上げた。顎に髭を生やした男と目が合う。すると、髭男はこれでもかというくらい目を瞠った。
『……なっ』
よろめくように一歩後ずさり、刀が首から離れる。
顔色が見る間に青ざめ、警戒と不審にぎらついていた瞳に忌避の色が混じった。
『妙な格好してんな。ゾラ、どうする――って、ん? どうした?』
俺に近寄ろうとした赤みがかった茶髪の男を、髭男が腕を掴んで引き留める。すると茶髪男が不思議そうに、髭男に振り返った。
『うわ、なんつー顔してんだよ。真っ青だぞ!?』
髭男の顔を見て茶髪男が瞠目したが、髭男は俺から視線を逸らさなかった。震える唇で、何かを呟く。
『ディン、……これは、拙いぞ』
『まずいって、何が』
促されるように、茶髪男が俺に向き直る。顔を覗き込むようにしてきたので視線を向けると、茶髪男はひっと呻いて飛び上がり、髭男よりも後ろに後ずさった。
なんだお前ら、めちゃくちゃ失礼だぞ。
『ヴィナ・ユナだ』
『ど、どうすんだよ、ゾラ。護衛隊に選ばれて母ちゃん喜んでたのに!』
『どうするって、ヴィナ・ユナは殺さないと……。しかし、シェラディアを血で穢すわけには――』
言っていることは相変わらずわからなかったが、動揺していることは声の震えからあきらかだった。
『とにかく、俺はシュナ隊長を呼んでくる。お前はこいつを見張ってろ』
『なんで俺が見張り!?』
いきなり互いに服を引っ張り合って口論を始めたが、どうにも様子がおかしかった。二人は俺から意識を逸らさないようにしつつも、絶対に目を合わせないようにしている。
(俺が怖いのか?)
こいつらからしたら華奢な部類に入る俺の何を恐れているのかまったくもって謎だったが、さっきから二人の声を聞く度に、うなじがじわじわと熱をもってきていて気になった。間違いなく、あの男装女に触れられた場所だ。
そのことに気を取られていたら、茶髪男が髭男に突き飛ばされてバランスを崩し、俺の目の前に倒れ込んできた。
『いてっ』
転倒の勢いで散らばっていた水瓶の破片に突っ込み、茶髪男の腕が浅く切れる。
突っ込んできたことにびびりつつも、俺はその腕を掴もうとした。傷口が、俺のジーンズに触れそうだったからだ。値段は忘れたが、この一本は苦労して見つけさせたビンテージもので、まず間違いなく再入手は不可能だ。
泥と砂で汚れている時点で十分最悪なのに、血までつけられたら堪らない。
「おい、腕!」
『触るなぁ!!』
「うわっ」
茶髪男がひいっと喉から引き絞るような悲鳴を上げ、力いっぱい俺の肩を突き飛ばす。俺の体は座っていたにも拘わらず、派手に吹っ飛んだ。
しかも最悪なことに、後ろにあった荷台の縁に後頭部をしこたま打ちつけてしまい、目の裏に火花が散る。
ぐらっと、視界が揺れた。遠のいていく意識の外で、口論を続ける二人の間に怒声が割り込む。叱りつけるような声音に視線を動かそうとしたが、体が地面に倒れ込む衝撃と共に総てが暗転した。