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始まりの終わり(1)

 アリヤの儀式が終わるまでは、空間を人の気で乱してはいけないという理由で、夜になった時点で何人たりとも外に出ることが禁じられた。


 そのため、俺はファリスの天幕に連れてこられていた。


 自分の輿でリドと過ごそうと思っていたのに、シュナが迎えに来てあっという間にファリスの天幕に放り込まれてしまったのだ。


 ファリスから少し離れたところに座り込み、皿に綺麗に盛られた果物を摘む。葡萄みたいに小さな実が房になっているそれをぷちぷちと摘み取り、奥歯で噛み潰した。


 甘酸っぱくて美味いんだが、なんとなく空気が重くて、旨味が半減している。


「あんたさ、そわそわすんのやめろよ。気になるだろ」


「していない」


「してんだろうが。空気がピリピリしてんだよ! 俺はそういうのに敏感なんだ。疲れるだろうが」


 呆れ気味に告げると、ファリスが緩慢な動きで俺を見た。


 奇妙な沈黙は思いの外長く続き、視線はなかなか外されない。口に入っていた実をごくりと飲み込む音が、やけに大きく聞こえた。


 だがその嚥下を切っ掛けに、喉が開く。


「なん、だよ。アリヤのことなら大丈夫だぜ? ナディアは必ず祝福を授けてくれる」


「なぜそう言い切れる。ユナだからわかるのか?」


「ちがう、俺が説得したんだ。ちゃんと約束してくれたし、もう少し心の整理がついたら、神殿にも戻るってさ」


 ファリスの目が驚きに見開かれ、ぱかっと口が開いたので俺は思わず笑ってしまった。


 こんなに間抜けな顔は、初めて見る気がする。


「驚いてねーで喜べよ。そして俺に感謝しろ。目の前に引っぱり出すの、めちゃくちゃ大変だったんだぞ。感謝のキスぐらい、くれてもいいんじゃねーかな」


 意地の悪い言い方をしても、ファリスの反応は薄かった。柱に預けていた体を、ゆっくりと起こす。


「なぜ、そんなことを? アリヤは、お前に祝福してもらえれば充分だと言っていただろう」


「そうだな」


「ならなぜ?」


「……あんたがそう、望んだからだよ」


「俺が?」


「偶然だったんだけどな。泉に水浴びにいくと、誰かの強い想いがきらきら水面に残ってるのに気づいたんだ。それが三日続いた。気になったから見張ってみたら、あんたがナディアに祈ってた」


「……見ていたのか。趣味が悪いな」


「その一回だけだって。でも、一度見ただけのあんたの顔が、すごく必死だったから……。つい、気まぐれを起こしただけだ。暇だったしな。そうしたら、たまたま上手く説得できたんだよ」


「さっき、大変だったと言っていたが」


「……言葉のあやだろ。揚げ足をとるなよ」


「で、どっちが本音だ?」


「なんでそんなこと」


「気になったからだ。もし、お前が俺のために懸命になってくれたと言うなら、お前の望みをきいてやってもいい」


「なっ!」


 予想外の言葉に、心臓がどくりと跳ねる。だがすぐに、俺は安易な願いを口走ったことを、猛烈に後悔した。恩に着せることで、望まぬ行為をさせたかったわけじゃない。


「ばっか、冗談だよ。気まぐれだった。本当に、なんとなく呼んだら出てきたんだ。苦労なんかしてねーよ。俺は面倒臭いことは大嫌いなんだ」


「そうか」


 あっさりと引き下がられて、安堵と悔しさが胸に渦巻く。


 怒りたいのか泣きたいのか、ごちゃごちゃとした気持ちになって、俺は実を二、三個毟り取り、そのまま口に放り込んだ。ろくに噛まずに飲み込もうとしたら、思いがけず喉に詰まる。


「……っ! ごほっ」


「馬鹿かお前は。欲張るからだ」


 ファリスに呆れられ、羞恥から頬が熱くなる。


「ッ、るせっ」


「ほら、飲め」


 目の前に差し出された杯に、驚く。顔を上げると、直ぐ傍にファリスがいた。


「飲め」


 息苦しさに突っ張ねることができず、乱暴に杯を奪って中身を飲み干す。多少の痛みが喉に残ったが、ようやく呼吸が楽になって、ほっと一息ついた。口端から零れた雫を手の甲で拭っていると、ファリスの手が背中に触れる。


「っ!」


 不意の接触に肩が跳ねて、手から杯が転がり落ちた。俺の大袈裟な反応を訝しむ視線が、ファリスから向けられる。


「……脅かすなよ」


「背中をさすってやろうとしただけだ」


「……あんた、俺がユナだってわかってから、妙に優しいよな。気色悪いぞ」


「ヴィナ・ユナに対する扱いと、ユナに対する扱いが同じ人間などいない」


「………そう言われると、そうだな」


 ファリスが転がった杯を拾い、手近にあった台の上に置くのを見ながら、納得して頷く。


 俺が迫っていたのもあるだろうが、本当に視線にも態度にも嫌悪に満ちていたから、そのギャップが激しすぎて慣れないだけなのかもしれない。


 俺以外に接するときは、確かに優しかったし。


「なんか……慣れないな」


「お前が最近、近づいてこないのは、俺の態度が変わったからか?」


「え?」


「そういえば、冷たくされたり詰られたりするのが好きだという、変わった嗜好の人間がいると聞いたことが」


「違う!」


 何を言い出すんだ、この男は。


「だろうな。お前はたまに、とても傷ついたような顔をしていた」


「ファリス?」


 真剣な顔で隣に座り込むファリスに、体が緊張する。こんなに近づくのは、本当に久しぶりだ。


「俺はお前の、あの顔が嫌いだった。偽りに見えないのが恐ろしかった。俺を揺さぶるための演技だと思うと余計に。だがあれは……あれは、お前の本心だったんだな。真実、俺の態度や言葉に傷ついていたんだな」


「……知らねえよ」


 誤魔化す言葉がみつからなくて、俺は俯いたまま突っ慳貪にそう言った。手持ちぶさたな指先で、首飾りを弄んでは引っ張る。落ち着かない気持ちを押さえ込むように、俺は飾りの一つを握り込んだ。


 ただひたすらに思うのは、同情して欲しくないということだった。同情からくる優しさは、きっと俺をズタズタに切り刻む。そしてそれはきっと、今胸に抱えている痛みよりも、ずっと辛い。


「ヴィナ・ユナだと決めつけられ、追い込まれ、戸惑いを押し隠して高慢に振る舞っていたお前が、何度も俺を好きだと言ったのは、それが真実だからか? それとも状況を誤魔化すための嘘だったからか?」


「なんでそんなこと、今更訊くんだよ」


「知りたいからだ。教えてくれ」


 声音は優しいのに、なぜか追いつめられていくような気がした。真実を確かめて、どうしようというんだ?


 俺の心を暴き出して、傷を剥き出しにしてから、可哀相なことをしたと撫でるつもりなのか?


 傷口に塩を塗り込むみたいに。


「……嘘だった。あんたなんか嫌いだと言っただろ」


「俺の目を見て言え」


「……ッ」


 顎を取られて、俯いていた顔を上向かされる。逃れようとすると右腕を掴まれてしまい、俺は動けなくなった。


 そこを抑えられてしまうと、身を捩るときに傷のある肩を捻らなくちゃならない。


「……何が、したいんだよ」


「真実が知りたいだけだ」


「知ってどうする」


「お前が答えないと、俺も答えの出しようがない」


 俺の本当の気持ちへの答えは、もう散々聞いている。もう一度言い聞かされなくてもちゃんとわかっている。それとも、曖昧なものではなく、しっかりとした壁が欲しいんだろうか?


 嘘と真実が入り交じったやり取りの中で曖昧に造られた板ではなく、罅一つなく完璧に俺を遮断する、壁が。


「言ったら、手を離せよ」


「いいだろう」


「……俺は、あんたが好きだよ」


「嘘はないな?」


 もう口を開く気も起きなくて、目を逸らすことで答える。


 レキオラが俺に愛していると言ったときに感じた悪寒を思いだして、肌が粟立った。早くファリスから離れたかった。俺が味わったあの気味の悪さを、ファリスも味わっていると思うと自分を嫌いになりそうだ。


 顎から手が離れた隙に身を引こうとしたが、今度は両手で耳を塞ぐように顔を掴まれる。


「ファリ……えっ」


 驚きに瞠目したときにはもう、くちづけられていた。軽く押し付けられた唇が触れ合っていた時間は、そんなに長くはなかっただろう。


 酷く甘く、恐ろしいほど苦いキスだった。


 唇が離れて、目が合う距離になったとき、大粒の涙がぼろっと眦からこぼれ落ちた。


「っにやってんだよ!」


 ファリスの口元に手を伸ばそうとして、それが素手であることに気づいてためらう。逡巡してから、ファリスの上着の襟を引っ張り、その唇を拭った。


「馬鹿……。畜生!」


 何度か拭った後で、手を掴まれて阻まれる。すぐに伸ばした左手も、容易く掴まれてしまった。


「何をしている」


「うるさいっ、なんで……!」


 振り払おうと暴れると、より強く腕を掴まれる。


「ばか、暴れるな。傷口が開く」


「黙れ、離せ! 俺に触るなっ」


「オトヤ!」


「っ!」


 小さな舌打ちとともに、抵抗を封じるように押し倒される。容赦なくのしかかられて、暴れようにも暴れられなくなってしまった。


 落ちつけと何度も言われるうちに、徐々に興奮が収まってくる。呼吸がある程度落ち着いてくると、ファリスは少しだけ体重をかけるのをやめてくれた。


「なんなんだ急に。嫌だったのか?」


「嫌なのはあんただろう! 何考えてんだよ……俺は、気持ち悪いの我慢してまで触れてもらいたかったわけじゃない! 違うんだ。ただ、何かしてやりたかっただけで」


「なんの話だ」


「あんたの話だよ! 俺、わからなかったんだ。レキオラに押し倒されるまで、好きでもないやつに無理矢理迫られたり、触れられたりするのが、あんなに気持ち悪いなんて思ってなくて……。だから――」


「まさか、急に近寄らなくなったのは、それが原因か?」


「そうだよ。俺だって、好きな相手に必要以上に嫌悪されるのは嫌だ。まして、今はもうヴィナ・ユナだからって理由に逃げることもできない。逃げ場もなく、あんたに俺自身を拒絶されたら……生きていけない」


 馬鹿なことを言っている。


 頭ではわかっていても、口しか動かないなら思いつくままに吐き出すしか、ファリスから逃れる方法がない。


「せめて、俺があんた好みの綺麗な女なら良かった。その気にはなってもらえなくても、迫れば照れてもらえるような、そういう……でも現実は残酷だ。俺は男で、醜い」


 自分の性別や容姿に苦しまされる日がくるなんて、思いもしなかった。たとえナディアの力があったとしても、この世界は俺に優しくない。


 俺が欲しいのは、たった一つなのに。


「今まで悪かったと思ってる。俺があんたにしたことは、最低だった。だけど、どうか許して欲しい。見えないところまで俺を遠ざけたりしないでくれ。俺はただ、本当にあんたが……」


 俺を見下ろしているファリスの顔は、見慣れた顰め面だ。ああ、また困らせている。そう思うと、心臓が潰れそうだった。だけど、今更止まれない。


「あんたが、好きだっただけなんだ」




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