ナディア
「今日はこれがいいわ。それにこれとこれを合わせて」
「はあ」
差し出されるまま服を受け取り、リドに手伝ってもらいながら緩慢な動きで身につけていく。
腹部を丸出しにするそれはあきらかに女物だったが、俺に逆らう権利などないのだ。
下手に抗議すると、もっと露出度の高い物か、華美なものが出てきて、俺へのダメージが増える。
つまるところ、俺はこの三日間、着せ替え人形という不本意極まりない役割を無理矢理受け入れさせられていた。
「……はぁ」
肩の傷はナディアの力に満ちている場所のお陰か、医者が驚くほどの回復をみせているらしい。実際、傷はほぼふさがったし、よほど無理に動かさなければ痛みもほとんどなくなっている。
「腰帯はこれにして、と。うん、似合うわ。ね、リド」
「はい。アリヤ様」
俺を眺めながら、二人そろって満足げに頷きあう。
レキオラとの一件の後、俺はファリスにこれまでの経緯を全部喋らされた。もちろん、俺がごちゃごちゃと悩んだり反省したりしていたことは話してない。
できるだけ淡々と説明したつもりだが、独断行動の下りでは、どんな言い方をしても自己犠牲じみていて、話すのが苦痛だった。
ファリスに後悔をさせたくなくてシュナ達にも嘘を強要したのに、結局、総て無駄な努力に終わったわけだ。
俺を見る度に申し訳なさそうにされるのが嫌で、ここ数日はファリスを怒らせることに心血を注いでいる。
そのお陰か最近は気まずさも薄れてきていたが、怒らせることが楽しくなってきている自分がいて困った。
俺がユナだということはファリスによってすぐに全員に伝えられ、今までの冷たい視線はなくなっている。
それでも疑念や警戒は皆無ではなかったから、俺は距離を置いていた。だが、いきなり輿に現れたアリヤにあちこち連れ回されるようになってからは、周囲の警戒も解かれつつあるらしい。結果オーライと言うか、なんと言うか。
やってみせてくれと言われて、アリヤを祝福したのが効果覿面だったようだ。
夜だったから祝福の輝きがはっきりと視認できたし、燐光のようにそれを纏うアリヤは本当に美しかった。旅隊に同行していた神官が、興奮しすぎて失神したくらいだ。
「なあ、気が済んだなら自分の輿に戻れよ。結婚前の花嫁が男の部屋に毎日入り浸ってんじゃねーよ」
呆れを隠さずに告げると、控えていた女官が強く頷く。
「そうですよ、アリヤ様。ナディア様から祝福を賜るための儀も明日に控えていらっしゃるんですから、今日はもう輿に戻って瞑想なさいませ」
「え、明日なのか!?」
女官の言葉に、アリヤよりも早く反応してしまう。思わず口を挟んだ俺に、女官は丁寧に答えてくれた。
「イーダは明日の日没までですから、明朝に奥の泉へ入る予定です」
「……そうか」
「でも瞑想は午後からでいいって言っていたじゃない。もう少しオトヤで……と遊びたいわ」
おいコラ、今、俺で遊びたいと言いかけなかったか?
「悪いが俺の方に用事があるんだ。ほら、帰った帰った」
「え、ちょっと。何よ急に! 酷いわオトヤ」
「酷くねえよ。ほら、俺も出るから、出てくれ」
追い立てるように、アリヤの体をぐるりと入口に向ける。この世界は女もでかいらしく、俺よりアリヤの方が身長が高かった。グラマーな分、体格も俺の方が劣っている。
正直、こうして近くに並ぶのは悔しいだけだったが、そんなことを気にしても仕方ないので、背中を押す。
「わかったわよ。あ、ちょっとオトヤ。ダメよ、外に出るときはローブを着なさいって言ってるでしょう」
「平気だ。陽射しの強い場所へ行くわけじゃねえし」
「日除けだけがローブの役割ではないのよ。どうして貴方はそう……リド!」
アリヤが呼んだ時点で、リドはすでに白地のローブを手に持っていた。銀糸で気の遠くなりそうなほど繊細な刺繍が施されている一品で、アリヤが俺にくれたものだ。
外に出るときは絶対に着ろとしつこく言われ、無視するとリドを始め、ゾラやファリス、シュナにさえ怒られた。
唯一怒らないのはディンぐらいだが、俺を見逃す度にゾラに殴られている。
そうそう、ディンがレキオラの一撃で受けた傷は、殆どが掠り傷程度だった。ファリスたちを庇うため、咄嗟に前に出たらしいが、直撃を受けたのは騎乗していたモニモラのほうだったらしい。それでも裂傷の数が多かったため、二日ほど熱と痒みに苦しんでいたが、翌日には起き上がっていた。今はもう、ゾラと一緒に俺の警護に復帰している。
モニモラの遺骸を回収することは出来なかったが、ファリスを護ってくれた命だ。ディンに頼まれるまでもなく、俺はそいつの魂の安寧を祈った。
「はい、オトヤ様」
傷のせいで右腕をあまり動かせないので、リドがローブを広げてくれる。そうされると着るしかなくて、俺は仕方なく袖を通した。前からもアリヤの手が伸びてきて、フードを目深に被せられる。
「そんなに厳重にしなくても、俺って赤くなるだけで黒くならないから大丈夫だぜ?」
「もう、貴方の白い肌は憎らしいくらい綺麗だから、私のお気に入りなの。だから守らなきゃだめ。それに、ローブは貴方の姿を隠す役割も担っているのよ」
「俺って、そんなに隠さなきゃならない顔してるか?」
「してるわよ! あんまり晒しちゃだめよ。いい?」
「……わかったよ。わかりました」
ユナだと認識されるようになってからは、こんなやりとりばかりだ。今まではヴィナ・ユナだからと放置していたことを、指摘するようになったらしい。
ファリスに言われたときほどのショックはないが、さすがにこう何度も、念を押すみたいに「見るに耐えない」と言われるとへこんでくる。同時に反発心も湧くわけだが、ローブを着ていないところをファリスに見つかると、もの凄い勢いで輿か天幕に強制連行されるから、最近は長くうろつくときはちゃんと自分で着るようになった。
なのになぜか、ちょっと近場をうろつこうとしたときに限って見つかるんだよな。「また着てない!」って。
(ちゃんと着てるっつーの)
アリヤをディン達に送らせて、俺は用事がある場所へ向かおうとしたが、リドがついてこようとしたので止めた。
「どうしてですか」
「本当に直ぐ戻るから。それより戻ってきたときに、冷たいものが飲めるように用意しておいてくれ」
「……わかりました。けれど、あまり遅いようでしたらファリス様に報告しますからね」
「奥の泉に行くだけだって。心配になったら、お前が呼びに来いよ」
渋い顔をしたリドに手を振って、セナルの中心部にある小さな泉に向かう。俺がここに来てから水浴びに使っている泉で、一番ナディアの『気配』が濃い場所でもある。
毎日、こうして訪れては水浴びついでにナディアを呼んでいるが、気配はすれど姿は見えず――だ。
アリヤと接するようになったことで、俺自身も彼女のことを気に入ったから、ちゃんとナディアに祝福して欲しい。
それがファリスの願いでもあるからこそ、余計に。
「ナディア、いい加減に出て来いよ。俺に使徒としての力を与えた以上、あんたは好きなだけ嘆いていても問題ないのかもしれないけどな、ナディアの『力』じゃなくて、『ナディア』が必要な人達だっているんだぞ。あんたの哀しみを軽視してるわけじゃねえから、滅多に人前に姿を現さなくてもいい。だがせめて、帝宮の神殿には戻れよ」
幾度と無く口にした台詞を、今日もまた言う。しかし幾ら待っても。風に揺れる葉のざわめきしか聞こえなかった。
明日の夜明けが期限だと思うと、イライラしてくる。
気配はあるから、絶対にどっかで俺を見てるくせに!
「ナディア! 我が儘も大概にしねえと、俺にだって考えがあるからな。神樹にお前が戻るまで毎日ナイフで傷を刻んで『ナディア様ご帰還まで何日かかるか数えようカレンダー』を作成してや――ッ!?」
言い切る前に、ざわっと泉の水が揺らめいて、少し視えるようになってきていた精霊らしき光の塊が一斉に散る。
僅かな間を経て、激しい怒りを宿した紫眼が、俺の眼前に現れた。瞳の奥が、燃えるように煌めいている。
「なんと恐ろしいことを! 妾の本体を傷つけるなど、この罰当たりが!」
バシンッ、と思いきり頭を叩かれる。
「でっ! 何すんだよ!」
「こちらの台詞じゃ。妾の使徒でありながら、妾を脅すなど……なんと恐ろしい。ああ、嘆かわしや! 父様の願いでなければ、妾の力をお主に与えなどせなんだ!」
俺の鼻先に細い指を突きつけて、猛々しい仕草と口調で感情を露わにするナディアは、ものすごく違和感があった。
見た目は本当に女神然とした、繊細で神秘的な儚い美貌を持っているのだ。
「ととさまだぁ? あんたの意志で、俺を喚んだんじゃなかったのか?」
「まさか! 妾ごときに異界から人間を喚び寄せる力などありはせぬ。父様が――太陽神様がこの世界の人間でなければ力を与えてやってもいいだろうと、無理矢理お主を妾のところへ連れてきたのじゃ。妾は嫌じゃった。嫌じゃったのに……父様のご意志に反するわけにもいかぬ。故に、仕方なくお主に力を与えたのじゃ」
つまり、初めて水の中で会ったとき、あんなに嫌そうな顔をしてたのは、本当に嫌々だったからってことか。
「つーかさ、それってつまり、裏切ったのはこの世界の人間だから、じゃあ異世界の人間なら問題ないだろう! という神様的横暴によって、俺は巻き込まれたってこと?」
「……恨むなら己が魂の運命を恨め。妾はもう誰かを不幸にするのも、恨まれるのも嫌じゃ」
「――ナディア」
消え入りそうな声には、胸に刺さるような悲憤が混じっていて、総てを拒絶して閉じこもる根本にあるものがとても優しい感情なのだと連想させる。だが、神様に神様の都合があるように、俺には俺の都合がある。
「あんたは水と大地、そして復活の女神だ。再生や新たな始まりを司る女神が未来を見つめないってことが、どれほどこの砂漠に悪影響を与えているか、あんただって気づいてるはずだ。だからこそ、あんたは俺に、使徒というよりは分身と成り得る程の力を与えたんだろう?」
「だが……だが、妾は怖い。人の心が怖い。妾を欺き力を奪い去った男も、己を護るために他を犠牲にできる者達の心も……恐ろしくて堪らない!」
「確かに、一度恐ろしいと思ってしまったものを克服するのはとても難しいことだと思う。だけど、時間がないんだ。長い間、女神の加護という特殊な状況に支えられてきた大地が、急にその力を失ったらどうなるか、あんたはわかってない。いい加減に、目を覚ませ。このままじゃ、ヒュゴに与えられた名すら枯れるぞ」
「なにを……言って」
「本当に気づいてないらしいな。感じないのか? この地にある総ての命は、あんたに長い間支えられていたことで、根本的な生命力が弱くなっちまってるんだ。あんたが思っているよりもずっと、ここの大地は今、弱ってる」
睨むように見つめた俺の瞳に戸惑いつつも、ナディアの気配が四方に拡散するのがわかった。今まで真剣に外の状況を探ったことなどなかったのだろう、見る間にその顔が強張っていく。
「そんな。これ、は……妾は、なんと愚かなことを!」
俺よりも少し明るい色の瞳が、目一杯に見開かれる。呆然と俺を見つめ返してくる顔は、ずいぶんと幼く見えた。
神とはいえ心がある以上、その内側に強さと弱さを持っていて当然だ。何かに迷い、怯え、逃げ出したいときもあるだろう。だが、強い力を持ち、それを行使することを選んだ者には、それ相応の責任ってもんがある。
いつまでも蹲っていられちゃ困る。
「ひとつ、良いことを教えてやるよ。俺の世界であんたの名前は一番目、つまり最初っていう意味がある。偶然だろうけどな。ナディアは――始まりを示す名だ」
瞳の奥に葛藤が見えて、少し安心した。彼女の心は、死んでいるわけではない。
「今直ぐに気持ちを切り替えろと言われても難しいだろう。だから、帝宮に戻ってくるのはもう少し待ってやる。そのかわり、明日訪れる花嫁には、ちゃんと祝福を与えてやってくれ。あんたにも、セッダにとっても、新たな始まりと希望を運んで来てくれる女性だ」
俺だって鬼じゃない。多少の猶予ぐらいはくれてやれる。
「……承知した。約束しよう」
「そうこなくちゃ」
艶やかな菫色の髪を撫でて、額にくちづけてやる。
「始まりの女神に、光と勇気を」
唇を離すと、ナディアがいつかのリドみたいに目を見開いたまま俺を呆然と見上げていた。
「女神様に失礼だったか? ま、多目にみとけよ」
「…………お主は、変わっておるな」
「そうか?」
「女神に人が祝福を与えるなんて、聞いたことがない」
「あんたには頑張ってもらわないとだからな。できることはなんでもやっておこうと思っただけだ」
肩を竦めてみせると、ナディアがふわりと微笑んだ。初めて見る笑顔だ。
淡く慈愛に満ちたその表情は、ようやく目の前の存在が女神なのだという実感を、俺にもたらしてくれた。




