神乃乙矢(2)
「ファリスのところに行きたい。俺だけじゃ悪目立ちするから、一緒に来て欲しい」
「何かお考えがあるのですね? 我々で役に立てるのならば喜んでお供いたしますが……。急いだ方がよさそうだ」
そう言って、ゾラが外に視線を向ける。
俺もつられて見ると、視線の先にあった空の一部が微かに明るくなり始めていた。
「げっ!」
大変だ。交渉の場にいられなければ、意味がない!
「返答は夜明けだったよな!?」
リドは東か南だと言っていたが……どっちだ!?
決めあぐねながら、外に出る。兵士達は迎撃の準備をしているらしく、ピリピリとした空気が辺りに充満していた。そこを駆け抜ける俺がどんなに異質かなんて、わかりきっている。けれど、目立たないように気を使っている時間はもうない。
「オトヤ様!」
背後でゾラの声が聞こえたが、俺は兵士達の間を駆けた。
ヴィナ・ユナだと思っているからか、俺に気づいても瞠目するか硬直するだけで、追っては来ない。それどころか、俺が避けるまでもなく、向こうが避けてくれる。
シャラシャラとぶつかり合う手足の装飾が案外邪魔で、焦る気持ちとは裏腹に女って大変なんだなとか、そんなことを思った。
背が高く枝のない木々の間を、少しずつ真横から零れてくる光に視界を奪われながら走る。輿に乗っていたから道なんて全然わからないはずなのに、俺は迷わなかった。
何かに導かれるように、進むべき方向に足が向く。
ただどんなに走っても似たような景色が続くばかりで、俺の体力の方が問題になってきた。セナルの端までは、俺の足で走りきれる距離じゃなかったらしい。
「っ……くそっ、こんなに広かったなんて!」
悪態をつきながら飛び越えた岩の先で、思いがけず男と遭遇した。
「なっ!?」
見慣れた兵士の格好をしていたけれど、どこか雰囲気が違う。何か違和感があった。
見つめ合った一瞬で男は俺と遭遇した驚愕を納めると、さっと腰から幅の広い刀を引き抜いた。
「女か、脅かしやがって」
「えっ」
呆気にとられる間もなく、一閃された刃をかろうじて避ける。首飾りの一つが引っかけられて、繋がれていた石やガラス玉がばらばらと散った。刀よりもそれを目で追ってしまうあたりが、戦いを知る者とそうでないものの違いなのかもしれない。
我に返ったときにはもう、男は俺に肉薄していた。
「っつ!」
恐怖に目を瞑ったまま、尻餅をつくように身を屈める。避けられたのは、偶然としか言いようがなかった。すぐさま切り返された刃は木によって阻まれ、男が舌打ちする。幹から刀を引き抜く時間で、俺は這うように数歩の距離を稼いだ。
「余計な手間を!」
こっちの台詞だっつの! だが、怯える俺よりも、男の方が圧倒的に動きが速い。再び刀の間合いに詰め寄られそうになったとき、それは斜め後ろから降ってきた。
軽く巻き起こった風から、腕で顔を庇う。
「なっ」
現れたのは、見上げるほどに巨大な鳥だった。あれだ。兵士が騎乗用に使っている、モア文鳥。ドスッと俺と男の間に着地し、翼を畳みながら恐ろしい勢いでターンする。ものの見事に、男は尾と翼に殴打されて吹き飛んだ。
モア文鳥の頭はそのまま俺を通り過ぎ、深く折り曲げていた足を伸ばした。殆ど登場時の勢いを殺さないまま走り出し、上から伸ばされた腕が俺をかっ攫う。
「な、なっ、うわっ」
モア文鳥が伸び上がる力もあったからか、俺の体が面白いくらいに浮き上がり、騎乗していた男の肩よりも腰が上がる。男も驚いたようで、もう片方の手も慌てて手綱から離して俺を引き寄せた。
足を開く余裕がなくて、腕の中に囲い込まれる形で横座りに騎乗させられる。何を考えるよりも先に、宙に浮いたときに背筋を震わせた恐怖が勝り、俺は男にしがみついた。呼気は浅く乱れ、心臓がばくばくと鳴っている。
男の肩越しに後ろを見ると、俺を殺そうとした男が後から来たもう一騎に、起きあがり様を蹴散らされていた。
「ディン」
「いや、俺はゾラですが」
思わず呟くと、直ぐ傍でショックを受けたような声が返ってきた。
「ゾラ! いや、後ろにディンが。つか、なんで」
「すみません。モニモラを連れ出してくるのに少し時間がかかってしまいました」
そう言って手綱を少し持ち上げてみせる。モニモラってこのモア文鳥のことか?
「まったく。我々に共をと命じた途端にお一人で駆け出されるとは……。酷いお方だ」
「悪かった。焦っちまって。でも、あの男はなんだったんだ? …………ヴィナ・ユナを恨んで?」
「いえ。あの男の顔に見覚えがありません。おそらくはジャダス側の斥候かなにかでしょう。見つけられて運が良かった。もしかしたらファリス様が交渉に出向いておられる隙に何かしようと企んでいたのかもしれません」
「つくづく卑怯な奴らだな……。他にもいるんじゃないのか?」
「警戒をしていないわけではありませんから。そのうち、見回りがさっきの男を捕らえるでしょうしね」
「そうか」
「それで、あの、ですね……。できれば、もう少し離……いや、俺が悪いんですが……。すみません、貴方があんなに軽いと思わなかったんです」
そう言われて、俺は自分がゾラに思い切りしがみついていたことに気づいた。
「ああ、悪い。苦しかったか?」
力は抜いたが、スピードが速すぎてとてもじゃないが体を離す気にはなれない。抱えられているとはいえ、慣れない揺れに振り落とされそうで怖かったのだ。どうしようかと迷っていたら、ディンが追いついてきた。
「狡い! 狡い! 狡い!」
並んだ瞬間、なぜかゾラにブーイングをかます。
「黙れ馬鹿! そういうことじゃないだろうっ」
「顔が緩んでんだよ! ムッツリスケベ! エロ髭! エロオヤジ!」
「お前の頭は食うこととそれしかないのか! だいたいお前と俺は同じ歳だろうが!」
こいつらはいつも意味がわからん。というか、緊張感がなさすぎる。何を言っても絡んでくるディンに痺れを切らして、ゾラが横から蹴りを入れそうな勢いだったので、俺は仕方なく間に入った。
「お前ら! 連れて行く気があるなら真面目に走れ!」
「「御意に!」」
俺が怒鳴った瞬間、ぴたっと無駄口をやめられてびびったが、ちょうど止めどきでもあったらしい。
前を向くと、セナルの木々の切れ目が見えて、いつのまにか地面は乾いた土から黄金に輝く砂になっていた。
◇ ◇ ◇
セナルに近づくにつれて、人を拒むように上がってきていた気温は、セナル周辺に入ってしまってからは少し汗ばむ程度で安定している。ジャダスにとって、この気温が落ち着く範囲までの道のりを把握することが、最も重要だったに違いない。
かなり遠くに、野営地らしきものがいくつか見えた。その周囲をちまちまとモニモラらしき物体が行き来している。ジャダス陣営の一部だろう。
セナルと敵陣に挟まれる形で、数人が向き合っていた。
ジャダスの連中が、返答を聞きに出てきたところだったんだろう。緊迫した視線が、俺達に集中するのがわかる。近くまでモニモラで行くのは余計な警戒をさせるだけだと判断し、ファリス達の少し手前で停まった。
「お手を」
「ああ、ありがとう」
それなりに高さがあったから、遠慮なくゾラの手を借りて降りる。突然の闖入者に対し、ジャダス側は様子見を選択したらしく、動く気配はない。セッダ側からしても、「何をしているんだ貴様!?」って感じだろうが。
ファリスの白いモニモラと、シュナの漆黒のモニモラの対比が、射し込み始めた朝日に眩しかった。
「オトヤ様!」
ジャダス側に目を凝らしていたら、ディンがひっと小さく悲鳴を上げて俺をつつく。
何事かと視線を戻すと、砂地を歩いているとは思えない速さで、一直線にシュナが近づいてきていた。咄嗟にゾラとディンを引き寄せて背後に隠れると、ディンが酷いと言ってモニモラを壁にする。
「何を考えているんだ、貴様!」
あっという間に目の前に来たシュナは、モニモラの尻を勢いよく叩いて退かした。それに連動するように、ざっと二人も一歩脇に逸れやがった。このやろう。
「俺の部下を脅し……ゾラ!? ディン!」
小声で怒鳴るという器用なことをしていたシュナだったが、俺が連れていた兵士がゾラとディンだと気づくと、目を剥いた。俺に対する憤怒に驚愕と喜びが混じって、微妙な表情になっている。
「お前達――どうして」
「俺が助けてやったんだ。感謝しろ」
「でたらめを!」
「本当だっつの。なあ?」
わざとらしい俺の態度が癪に障るらしく、シュナは気色ばんだが、さすがに場所をわきまえてか俺に食ってかかることはせずに、拳を握ることで耐えた。
そのまま厳しい目つきで、二人を睨む。
「本当か」
二人が冷や汗をかきつつもはっきり頷くと、シュナの顔が歪んだ。
「オトヤ様は、我々の命の恩人です」
「馬鹿なことを。どうせろくな方法じゃない。命惜しさに、魂を売り渡したか!」
シュナがゾラの胸倉を掴んで引き寄せたが、ディンが阻むようにその手首を押さえた。
「違いますよ。シュナ隊長」
「そう。違ったんすよ」
「……? なんの話だ」
「オトヤ様は」
「待て、それは俺が自分で話す」
「……そう、ですか?」
「ああ。お前達はファリスのところへ行っていろ。ファリスの盾が、怒りにまかせて持ち場を離れてるからな」
俺の嫌味に、シュナの眼光がきつくなる。
「貴様っ」
「事実だろ? 早くゾラから手を離せ。ジャダスはちゃっかり、セナル内に斥候も送り込んでたぞ」
「なに!?」
「安心しろ、この二人が片付けた。だけど、この交渉の席で何も起こらないという保証はない。ほら、手短に話してやるから、先にそいつらを行かせとけ」
「……くっ」
シュナは口惜しげにゾラの胸倉から手を離すと、「行け」と吐き捨てるように言った。二人がファリスの元に辿り着くのを見届けてから、シュナに向き直る。
「さて、ジャダスと交渉する前に、俺と交渉といこうじゃないか」
「何だと?」
「俺の出す条件を飲めるというのなら、誰一人犠牲者を出すことなく、この場を納めてやれるかもしれないんだけど、どうする?」
俺の言葉に、シュナがすっと目を細めた。不信感を隠しもしない眼差しで、俺を捉える。
「……何を企んでいる」
「条件を飲むか?」




