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水瓶からこんにちは(1)


 神乃乙矢かみのおとや、十七歳。暇だから芸能人にでもなるかと訪れた芸能事務所の資料室で、俺はいま、非常にムカついていた。どれくらいムカついているかというと、これまでの人生を振り返って道徳心ってやつの存在を確かめに行かなければならないくらいだ。


 俺は実父と、小学生のときに死別している。

 中二のときに母親の再婚を機に父方の祖父母である智次(ともつぐ)絹江(きぬえ)に引き取られたため、ど田舎で暮らしていた。


 引退するまでは鬼と言われるほど残忍なやり口で荒稼ぎしていた祖父は、息子の死を切っ掛けに労働意欲を失い、仕事を後続へ譲った。そうして今は、豪奢な屋敷に似合わぬ質素な生活をしている。


 絹江はこれでようやく一緒に過ごせると笑っていたが、田舎ってのは他人の噂話くらいしか娯楽がないらしく、俺は近所のババアどもの格好の餌食だった。


 恨みばかり買っていた祖父への同情は薄く、俺の境遇に対して吐かれる言葉は大人げないの一言に尽きる。


 でも俺は、親に邪魔にされた可哀想な子だと言われても気にしなかった。


 周りが何を言おうと智次と絹江は孫である俺を溺愛してくれたし、それこそ蝶よ花よと可愛がられてやりたい放題だったから、貧乏人の僻みにしか聞こえなかったのだ。


 僻むくらい金が欲しいなら、犬の真似でもしてみせれば札束くらい恵んでやるのにと思っていたくらいだ。


 気に食わないヤツがいれば取り巻きにこづき回させて遊んだし、気に入った女がいれば抱いた。最初は嫌がっても、小綺麗な容姿に金が付属してくると知れば、二度目をねだってくる女の方が多かった。


 俺は飽きっぽいから、二度目がある女は少なかったが。


 なんでも平均以上にそつなくこなせる俺は、学校では優等生だった。学校で粋がるなんて低脳な馬鹿のすることだ。夜遊ぶなら、教師は味方につけておくに限る。


 夜中に補導に出ていた教師と遭遇しても「そこのコンビニまで消しゴムを買いに」と言えば、笑顔でお別れだ。


 ちょっとふざけすぎて警察沙汰になりかけても、智次が金とコネで揉み消してくれた。


 そんな自由奔放な生活も、高校二年にもなれば飽きてくる。そこで思いついたのが、芸能界だった。昼間を退屈な高校で過ごすよりは、綺麗な女優やアイドルとお知り合いになるほうが楽しいに決まっている。


 智次にねだると、すぐに大手芸能事務所に所属できるように手配してくれた。


 そうして俺は事務所を訪れたわけなんだが、遅刻したからか逆に俺が待つハメになって、かなり苛ついた。


(二時間ぐらい待てよな。というかむしろお前らが俺に会いに来るべきじゃねーの?)


 まあ、絹江が「新人気分を味わってみるのもいいんじゃないかしら」とか言うから、俺もそれもそうかと思って自ら出向いたわけだが。


 珈琲は不味いしソファは固いしという劣悪な環境だったにも拘わらず、五分待った俺は偉いと思う。


 帰ろうと待合室を出てエレベーターに乗ったが、ふと気まぐれを起こして上階のボタンを押した。


 降りた場所はシンとしていて、ひと気がなかった。近くにあったドアのプレートを見ると、『資料室1』と書かれている。その隣は『資料室2』だ。


 ドアを一つ一つ調べて回ると、一室だけ鍵が開いている部屋があった。中には古いものから新しいものまで、様々なドラマや映画の脚本やパンフレットが綺麗に整頓されて並べられており、俺は懐かしいタイトルを見つけては取り出して眺めた。


 何作品目かで、父親と一緒に夢中になって観ていたコメディドラマの脚本を見つけた。毎週毎週、二人で来週が待ちきれないとはしゃぎ、母親にさっさと寝ろと怒られたのを思い出す。


「あれ、なんで……」


 一話から読んでいったが、なぜか最終話の脚本だけが無かった。俺はこのドラマの最終回を観ていない。


 父親と絶対に一緒に観ようと約束して、一週間が過ぎるのを楽しみにしていたのに、放送日の夕方に、父親は俺との約束を守れない場所に逝ってしまったのだ。


 俺はいつのまにか、どこかに紛れ込んでいる筈の脚本を真剣に探していた。棚を移動するごとに、妙な使命感と意地も湧いてくる。


 脚本探しに没頭していた俺を、突然開いたドアの音が現実に引き戻した。


 はっとドアに顔を向けると、初老の男が顔を覗かせていた。見覚えがあるような、ないような顔だった。


「何をしてるんだい? 新しく所属した子かな?」


 男は俺の顔をまじまじと眺めながら、そう問いかけてきた。どうやら事務所関係者らしい。貫禄が少なからずあるので、それなりの役職に就いているかもしれない。


 そうとわかれば、対応も選ぶべきだろう。俺は邪魔された苛立ちを引っ込めて、手に持っていた数冊の冊子を、男に見せるように掲げた。


「持ってこいと言われた脚本を探してるんですが、見つからなくて」


 大嘘と猫かぶりと愛想笑いは得意だ。このくらいの年齢の男は、若さを妬みつつも、頼られれば自尊心をくすぐられてすぐに相好を崩す。


 俺は助けて欲しいのだと、少し媚び気味に微笑した。


 案の定、男は気をよくしたようで、紳士的な笑顔で手伝おうと申し出てきた。相手が教師だろうが芸能事務所の役員だろうが、所詮は同じ人間だ。


 女ならここで火遊びに興じることもできたが、そんなことを思ってもこのオッサンが女に変わるわけじゃない。


「ありがとうございます。ブレイクアウトというドラマの最終回の脚本です。こっちからは俺が探しますから」


 仕草でそっちの棚を見てくれと頼むと、男は頷いてから、あれは面白かったと最終回の内容をベラベラと喋り始めた。


 最悪だ。


 探す手は休めずに、この馬鹿を黙らせる手段はないかと考える。だがそれは答えを見つけ出すまえに、首筋にふっと生温かい空気が当てられたことで霧散した。


 咄嗟に振り返ると、驚くほど近くに男が立っている。首筋を撫でたものがこいつの息だと気がついて、背筋にぞわっと悪寒が奔った。


 何するんだと牽制する間も無く、男の手が俺の尻を撫で掴む。あからさまなセクハラに、嫌悪と怒りが湧いた。


「ッ――おい!」


 険を含んだ声音で抗議したが、男は凄まじくいやらしい顔で笑った。


「若いっていいねえ。そんな昔のドラマの練習じゃなくて、来期のドラマの仕事とか欲しくないか? ちょうど二週間後に――」


 男が交渉の総てを口にするまでもなく、俺は俺なりの返答をした。――それ故に、男は今、俺の目の前に転がっているのだ。


 倒れたときに頭を棚の角にぶつけたらしく、盛大に流血しているが、息はあるから死んではいないだろう。


 というか過去を振り返ったところで、やりたいことだけやってきた俺に道徳心なんかあるわけなかったか?


 いや、世間体を気にするくらいはあった気がする。それが道徳心かと聞かれれば首を傾げるしかないが。


 どうしたものかと男を足でつついていたら、尻が震えた。さっき男に触られた感触を思い出して鳥肌が立ったが、これはあれだ。携帯電話だ。急いで取り出すと絹江か

らで、迎えに来たから昼を一緒に食べようという誘いのメールだった。


 絹江のことは大好きだ。この世で一番いい女だと俺は思う。誘われれば一秒も無駄にできない。


 少し機嫌が浮上した俺は、クズなエロジジイのために三桁の数字を押す気まぐれを起こしてやった。



   ◇ ◇ ◇



 結局、俺はその事務所には所属しなかった。 


 三日前に俺が赤信号を無視できる乗り物を用意してやったエロジジイは、やはり重役だった。というか事務所の社長だった。


 どっかで見たような気はしてたんだ。昔なにかのTV番組でインタビューを受けていて、そのときもエラそうでエロそうな顔したオッサンだと思った記憶がある。


 余計な茶々が入ったおかげですっかり芸能人になるという考えも萎えたので、俺は暇を持て余すままに駅前をだらだらと歩いていた。


 改札を行き交う人々をやさぐれた目で追っていると、なんだか無性に旅がしたくなってくる。いっそ海外まで飛びたいくらいだったが、空港までいくのがダルい。


 俺はそのまま行きがかりの電車を乗り継いで、着の身着のまま旅をすることにした。


 そうして、ときに駅員、たまにタクシーの運転手を巻き込んで、程良く都会から離れた山間部にある温泉旅館に辿り着く。


 タクシーで空港まで行った方が楽だったと後で気がついたが、まあ行き当たりばったりの行動なんてそんなものだ。


 旅館はこんな気まぐれを起こさなければ一生泊まることはなかったであろう安っぽさだったが、この寂れた感じが、今のだらけてる俺にはちょうどいい。


 客が少ないのか過剰接客気味だった女将を早々に追い払って、予想外にマシだった露天風呂を堪能した俺は、これ以上ないほど上機嫌なまま眠りについた。




 智次と絹江が俺の手を強く握る。母と義父がかなり遠くで佇んでいた。


 実父があの頃と変わらぬ姿のままで現れて、俺を抱き締め、「これからが大変だけれど、頑張るんだよ」とわけのわからない励ましをくれた。


 俺は、自分が夢をみているのだと気がついた。


 嬉しくて懐かしいけれど、なぜか少し哀しい夢だった。


 人が出てくる夢なんて滅多に見ないくせに、俺はその違和感に気がつけなかった。


 気がついていたら、絹江に電話くらいしたのに――。


 俺は、気がつけなかったのだ。



 これが、最後の別れだと。


ルビがうまく表示されないときがあるみたいですが、新規作品に労力を割きたいため脳内保管でおねがいします。


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