嘘と真実と嘘(4)
「ナディアとて、このままではセッダが滅ぶとわかってるのよ。シェラディアの行路にちょうどいい間隔でオアシスがあることが、彼女の葛藤を現していると思わない?」
言われてみれば、必ずいいタイミングでオアシスに辿り着いていた。砂漠化が進み、大地が枯渇していっているというのに、一日で進める距離にかならずオアシスがあるというのは不自然だ。
「お互いに傷つきすぎてしまって、ナディアも赦すタイミングが掴めないのよ。だから、切っ掛けが必要なの。切っ掛けがね」
そう言って、春日が同意を求めるように俺を見た。
ヴィナ・ユナの再びの出現が、神殿に戻る切っ掛けになるってことだろうか?
「俺がセナルに行けば、ナディアを刺激できる――?」
「そういうこと。きっと今か今かと待ってるわよ。乙矢の周りに精霊がうじゃうじゃいるもの。あんたの放つ魔力に惹かれてるのも多そうだけど、ナディアに言われて見に来てるのもかなりいると思う。こんなに沢山の精霊を見たのは久しぶりだわ。やっぱ神が棲む場所が近いと違うわね」
ぎょっとして俺は周囲を見渡したが、何も見えない。
というか、ナディアから奪った力を持つ存在に、なんで精霊が惹かれるんだ?
「ナディアの魔力に慣れれば視られるようになるわよ。あ、よさそうな場所発見。乙矢、そこの水から魔力掬って!」
急に声のトーンを変えて、春日が身を乗り出してくる。
「え? なんだって?」
「そこよ、そこ。なんとなくわからない? キラキラしてるっていうか、光が集まってる感じのとこ」
指さされた水面を覗き込むと、確かにちょっと深いところの水が、時折青白く発光しているように見えた。
「ここか」
ざばと手を入れて掬い上げ――驚く。
適当に掬っていたときは米粒大の結晶ばかりだったのに、今の俺の手のひらには、一辺が一センチはありそうな魔力結晶が三個もあった。
「でか! なるほど、いいコツを教わったな。ほらよ」
感嘆しながらダイスを差し出すと、春日は何故かきょとんとした。
「なんだよ。欲しいんじゃないのか?」
「三個ともくれるわけ?」
「やるよ」
「すごく希少なものだって、私言ったよね? この大きいのは、何十年もかけてここに魔力が蓄積してたから採れたんだよ?」
「そんなこと、知らないんだから黙ってりゃいいのに。でもいいさ。俺はあんたにそれだけ感謝してるってことで」
「意外。ケチそうなくせに」
「助けられた礼をケチってどうすんだよ。心外だぞ」
「そりゃいい心がけね。でも、さすがに三つはもらえないわ。私は等価交換が主義なの」
「なら、何かあったらまた助けてくれ。俺はそれを持っていても飲み込むくらいしか使い方がわからないし、あんたを利用できるほうが有り難い」
「魔女として畏敬される私をこき使おうなんて――さすが、ボンボンなだけはあるわね」
「ボンボンって……死語だぞ」
「うるさいわね。私の機嫌を損ねる気? あいつ(丶丶丶)と違って相応しいだけの対価もくれたし、割と好印象だったのに」
「悪かったよ。助けてくださいお姉様」
棒読みだったが、それが気に入ったらしく、春日は不敵に微笑んだ。
「いいわ。可愛い坊やの頼みとあらば、この春日竜果、喚ばれてあげましょう。一度だけ、ね」
芝居がかった声音で告げ、春日は召喚に必要だからと、妙に楽しそうに、いかにもな『力ある言葉』を俺に教えてくれた。確認のため復唱してもらおうとしたら、すっと春日の視線が俺の服が置いてある岩場に向く。
「どうした?」
「妙なのがいるね。幻術系の魔導式が視える。――魔導師か?」
「魔導式? なんだそれ?」
「ああ、もうっ。もっと早く気づくべきだった。気になるけど……そろそろ戻らないと」
春日の顔が悔しそうに歪み、次いで俺を心配そうに見た。
「春日?」
「力有る存在ってのは何かと制約があってね。私はもう戻らなきゃいけない」
「え?」
「さっさと服を着て、この場から離れな。それから、なるべく一人にならないこと。いいね? ああ、そうだ。ちょっとこっちにおいで」
言うなり腕を掴まれて、引き寄せられる。勢い余って岩場に手をついた俺の額に、温かな息が触れた。
「ちょ、なに――」
「太陽神と月女神の加護があらんことを」
聞き心地の良い声音で囁かれた言葉ごと、額に唇が押しつけられる。瞠目して仰け反ったときにはもう、春日の姿は消えていた。
俺のことを何かとても温かいものが包み込んだ気がして、思わず体を見下ろす。ほんのりと優しい光を放つ無数の粒子が体の周囲で弾け、溶けるように消えた。
いつかシュナが言っていた、力有る者が唱えると力が宿るっていうのは、こういうことなのかと漠然と思う。
「……つーか、恥ずかしい女」
額へ触れた唇の熱と感触がなかなか消えなくて、妙な照れくささに襲われる。動揺を振り払うように泉から上がろうとしたが、青白い煌めきが視界を掠めて足を止めた。
試しに掬うと、五ミリくらいの結晶が採れる。春日が言ったとおり、一センチもあるのは本当に希なようだ。
「おや、今日は早かったんだね」
ちょうど服を着終わったところであの蛇男が現れ、すっかりその存在を忘れていた俺は大きく肩を震わせた。
「もう行ってしまうのかい?」
残念そうに呟く男を無視して、足早に横をすり抜ける。追いかけて来ないところが男の余裕にも思えて、余計に不気味だ。追いかけられても困るが。
ちょうど食事から戻ってきたらしいファリスが反対方向から歩いてきていて、少しほっとする。男のくせに女々しいかもしれないが、あの男は生理的嫌悪が先立って、どうしても怖かった。
春日が警告をしたのは、奴のことだったのかもしれない。
だが、一人になるなと言われても、現状では難しい。自分で気を付けるしかないだろう。
「ファリス」
小さな声で呼んだが聞こえたらしく、ファリスが俺に気づいて足を止めた。琥珀色の瞳がすっと眇められる。
まだ旅隊の人間が沢山動いている時間に外に出ていたことを、咎めるような視線だった。
「ちゃんと人がいない場所にいたぞ」
俺の弁解への返答は、片方の眉を少し持ち上げただけだった。そのまま天幕に入って行こうとしたので俺も続く。
真実を話さなければならない。
上手く伝わらないかもしれないが、言わないままでいることのほうが、ファリスが被る被害が大きい。俺がセナルに行くことでナディアが動く切っ掛けになるとわかった今、セナルまで拘束されても構わなかった。
むしろ、無意識にファリスやリド達に何かしてしまうことの方が恐ろしい。
俺が誰かの為に動くなんて、自分でも信じられない。だが、内にある力が未知である以上、自分勝手に振る舞うには危険が多すぎる。それこそ、生死に関わるような事態に発展する可能性もあるだろう。
入口に向かうファリスの背中を見ながら、嘆息する。世界が変わった途端、何もかもが上手くいかない。それともこれは、向こうで好き勝手やってきたツケなんだろうか?
「ファリス」
なんとなくまた名を呼ぶと、捲りかけていた幕布を手放してファリスが振り返った。溜息をつかれる。
「なんださっきから。言いたいことがあるなら言え」
正に話があるのだと言おうとしたら、つま先から脳天までをぞっとするような感覚が突き抜けて息が詰まった。
ざわりと肌が粟立って、瞳孔が開く。
このオアシスに着いたときに感じた不快感をもっと鋭くしたような空気が、胃をずんと押し下げた。こうしてあからさまに感じると、あんなに気分が悪くなった原因が、疲労以外にもあったのだとわかる。
考えるよりも先に、体が動いた。俺が一瞬だけ硬直したのを不審そうに見ていたファリスが、目を見開く。
「き……っ」
貴様、と言おうとしたらしいが途中で言葉を詰まらせた。俺が全力で走り寄った勢いで、飛びついたからだ。首にしがみついてそのまま突き倒すつもりだったのに、ファリスは体を少し仰け反らせただけだった。
数秒の沈黙のあと、脇の下をがしっと掴まれる。まるで子どもを抱き上げるような支え方で、引き剥がされた。
「何を考えてるんだ貴様は!」
怒りを押し込んだような声で怒鳴られ、首を竦める。
俺のスキンシップ(というかセクハラ?)は今に始まったことじゃないのに、ファリスはかなりご立腹のようだった。怒りに目を吊り上げ、俺の肩を突き飛ばす。文句を言おうとしたが鋭く睨み下ろされて、俺は言葉に詰まった。
(なんだよ。飛びついただけで、そんな怖い顔しなくたっていいだろうが)
俺を突き動かした気配は、いつの間にか消えていた。だが、絶対に勘違いなんかじゃない。俺を睨む人達の気配に近いけど、もっと研ぎ澄まされているような、割れたガラスみたいに透明な負の感情だ。
(殺意、みたいな――)
それが、ファリスに向けられていた。
その確信はあるのにどう説明したらいいかわからなくて見上げると、さらにきつく睨まれた。今回の俺の行動には、不純なものなど微塵も含まれてなかったのに!
「殺されると、思ったんだ」
俺が零すように言うと、案の定、ファリスは顔を顰めた。
「なんで殺されると思って俺に飛びかかるんだ」
「いや、俺じゃなくて……ッ」
肩口に棘が刺さったような痛みがちくりと走って、言葉に詰まる。その一瞬で、証明しようのない話をするのが面倒になって、俺は溜息をついた。
「俺、ファリスが好きだよ」
代わりにそう言うと、ファリスは眇めた目で俺を一瞥し、鼻で嗤った。結構、傷つくんですけど?
結局、真剣な話をしようとする前にファリスがさっさと横になってしまったので、俺も仕方なく横になった。
◇ ◇ ◇
その異変は、いつものようにファリスに無理矢理くっついて眠っていたときから、少しずつ始まっていた。最初はただ暑いだけだと思っていたが、段々と気温ではなく、俺自身が熱いんだと気づく。
(……熱い)
発熱しているのが、嫌でもわかる。
この状態でくっついていたらファリスも寝苦しいだろうと思って体を離そうとしたが、乗っけていた体を脇に転がしただけで力尽きた。
というかこれはやばい。絶対に何か変だ。
なんだかこんなことばっかり思ってる気がするが、さっきから左の肩口がちくちくするのも気になる。外で変な虫にでも刺されたのかもしれない。
(それが毒でも持ってた……とか?)
せめて体が動けばダイスを口に放り込んで気を紛らわすことができたかもしれないが、腕どころか指一本が鉛のように重い。
「……くそ、熱ぃ」
喉が、渇いた―――。
◇ ◇ ◇
「……おい。おい」
頬を叩かれて重い瞼を少し持ち上げると、ファリスが俺を覗き込んでいた。
出入り口の隙間から零れる光は、まだ日暮れには程遠い色だ。それほど時間は経っていないが、俺は少し眠っていたらしい。
「お前、なんでこんなに熱いんだ?」
「恋の病」
思ったよりも甘い声が出て、ファリスが顔を顰める。けれど俺の意識はかなり混濁していて、自分でも何を言っているのかさっぱり理解していなかった。
言った端から忘れていくような、どこまでも流れ出ていってしまうような心許なさと、それと同じくらいの高揚の狭間を揺蕩う。
「なあ、喉が渇いたんだ。水が欲しい」
「自分で飲め」
「……じゃあいい。上着脱がしてくれよ。暑い」
「自分で脱げ。俺は寝る。なぜ熱を出しているのか知らないが、唸るのはやめろ。煩い」
「ああ待って。頼むよ。じゃあこれだけ、な? 嫌だって言ったら……ひっついてやる」
幼稚な嫌がらせだったが、それなりに疲れているらしいファリスには効果があったらしく、ぐっと押し黙った。
「……なんだ」
「左肩がちくちくすんだよ。虫に刺された痕とかねぇ?」
ファリスは心底面倒そうな顔をしたが、服の襟刳りを指で引っ張り、肩を覗き込んでくれた。
「外側、だよ。もっと、引っ張らな……と……」
見えないだろうと言いかけたら、ファリスの顔色が変わった。俺の肩に手を差し入れ、何かを引き抜く。ズクッと、重く鋭い痛みが走り、俺は顔を顰めた。
「いてっ、触るなよ……なんだ、それ」
ファリスの手に、細長い針があった。太さはミシン針ほどもあり、そりゃ痛いわな、と妙な納得をする。
ていうか、なんで気づかなかったんだ、俺?
朦朧と思考を巡らせていたら、ファリスは果物が盛られていた大皿の中身をぶちまけ、そこに針を置いた。確かに無くしたり落としたりしたら危ねぇけど、もうちょっとやりようってもんが……。
「いつやられた!?」
「へあ?」
「気の抜けるような声を出すんじゃないっ。心当たりくらいあるだろう! いつから具合が……」
「ファリス?」
「さっき、殺されるとか言っていたな。あのときか!?」
「……なに、知らな……い、痛い」
何で詰問されてるのかが、理解できなかった。
ファリスが怒ってるのが悲しくて、わけがわからなくなる。考えが纏まらない。
熱い。悲しい。水が欲しい。――熱い。
「――ッ」
「なっ――おい、泣くな。さっき、なぜ俺に抱きついたんだ」
「ファリス、怒ってる」
「怒ってなどいない」
「嘘だ、怖い、顔……してる」
「していない」
「喉渇いた」
「貴様っ……わかった。後で飲ませてやるから、質問に答えろ。なぜ俺に飛びかかってきたのかと聞いている」
「水」
「質問に答えるのが先だ」
「……ファリスが死ぬと、思って……嫌な気配が……気持ち悪い……水」
妙に思考が遅いうえにぐるぐると回って、それを言葉にすることが億劫になる。その後もファリスの詰問は続いたが、完全に熱に浮かされていて、俺は何にどう答えたのかちっとも把握できなかった。
◇ ◇ ◇
再び意識が浮上したとき、俺は上半身裸だった。状況が飲み込めなくて、視線だけ動かして左肩を見る。青紫に変色していて驚こうとしたが、驚く体力がなかった。
体は燃えるように熱くて、だから苦しくて息が荒くなってるんだろうが、忙しなく息をするのもまた苦しかった。
苦しい。とにかく苦しい。
「ビズの毒だ。もう全身に回ってしまっている」
「ヴィナ・ユナでも毒はどうにもならないんだな」
「力があるだけで、普通の人間と同じだと言っていた」
「ならちょうどいいじゃないか。このまま放っておけばいい。ビズの毒に犯されて意識も朦朧としてるんじゃ、いまさら力を使うもなにもないだろうしな」
ファリスとシュナの声が聞こえるが、どこか遠くて何を言っているのかわからない。
どっちでもいいから、俺に水をくれ。水が欲しい。
「だが、俺を庇ったんだ」
「だからなんだ」
「俺を救ってくれた者を、見殺しにはできない」
「どっちにしろビズの解毒剤は存在しない」
「これを使えばいい」
水が欲しいんだってば。水をくれよ。
「馬鹿を言うな!」
シュナの怒鳴り声で、いくばくか意識がはっきりとした。
「お前、実はもう魅入られてるんじゃないのか!?」
「俺は正気だ。だからこそ、相手が誰だろうと裏切るようなことはできない」
なんだ? 揉めてるのか?
「相手がヴィナ・ユナなら話は変わってくるさ。裏切り者の手下だ」
「俺にナディアが最も忌み嫌う罪を犯せと? 相手がヴィナ・ユナなら罪にならないとでもいうのか!?」
「そうだ」
「シュナ。俺はそうは思わない。誰が相手だろうが、裏切りは裏切りだ」
ファリスが俺の口元に何かを持ってこようとして、シュナに手首を掴まれる。
「これはお前の生誕を、ナディア様が祝福して授けてくださったものだろう。ヴィナ・ユナに使うなんて許さん。後悔するぞ!」
「しない」
「ファリス! 陛下や他の皇族達にどう説明するつもりだ。お前の高潔さは俺の誇りでもあるが、今回は駄目だ。それは皇族の証でもあるんだ。ヴィナ・ユナに使って失ったら、お前を邪魔に思っている連中が何を言い出すか!」
「後悔はしない」
よくわからんが、俺を助けるか助けないかで揉めてるらしい。唇にたまに触れる冷たい塊は、貴重な薬かなにかなんだろうか?
(てか……皇族が、なんだって?)
会話の内容が上手く頭に入ってこない。考えが纏められない。水分を失いたくないのに、苦しくて涙が滲んだ。
「ファリス。お前の総てを護るのが俺の役目だ。相手がお前自身でもそれは同じなんだ。頼む、考え直してくれ」
「俺の高潔さは誇りだと、今、お前が言ったぞ」
「ファリス」
「俺だって、できるならば一生使わないか、使うとしても愛する者を救うことに使いたかった。だが、このヴィナ・ユナを見捨てるわけにはいかない。わかってくれ」
複雑であろうファリスの表情が、見なくても想像できた。
ゆっくりと唇を押し広げるように押し込まれた固形物は大きさがかなりあって、しかも丸くない。とてもじゃないが、飲み込める代物じゃなかった。
だが、押し返そうと舌先で触れた途端、それはあっという間に溶け崩れて液状になり、喉の奥に流れ落ちた。
液体が体に染み込んでいくと呼吸がすっと楽になり、俺はシュナの呻き声を聞きながら、再びの眠りに落ちた。




