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嘘と真実と嘘(3)

「オトヤ様、いらっしゃいました。天幕で休ませてもらいましょう。私もお供してよろしいですか?」


 ディンが水に蜂蜜を少し溶かし込んだような、ほんのりと甘い飲み物を持って戻ってきてから暫くすると、ファリスが遠くから歩いてくるのが見えた。


 リドは俺が心配らしく付き添いを申し出たが、支えられるようにして座っている俺を奇妙に思ったんだろう、遠目にもファリスの眉間に皺が寄るのがわかった。俺に誰かが触れることを過剰に避けていたことを不意に思いだし、リドの手をそっと退ける。


「いいか、余計なことは言うなよ」


 ファリスを見つめたまま、小声で言う。リドが何か言い縋ろうとするのを振り切って、俺は立ち上がった。


 セナルには順調に近づいてきているらしいのに、ファリスと俺の距離は一向に縮まってはいない。互いの立場を考えれば当然とも言えるが、ファリスが信心深いセッダの兵士で、俺のことをヴィナ・ユナだと思っていても惹かれ合うだろうと信じている自分がいる。


 それなのに、触れることや傍にいることに慣れはしても、嫌悪と拒絶を訴えることを忘れない琥珀色の瞳が、心身の消耗と共に俺の意志を揺るがせていることは確かだった。


 俺を醜いと言ったファリスが俺の顔色を見るとも思えないが、気分転換も兼ねて食事の前に水浴びに出た。今回のオアシスは一つの大きな泉ではなくいくつかにわかれて湧いており、人目につかない場所を探すのは簡単だった。


 それに、セナルに近づくにつれてオアシスに植物が増えてきているから、ちょっと陰に入るだけで死角になる。


 時間がずれていることもあり、あの男が来ないことを願いつつ体の汗を流す。ついでに手のひらに結晶を掬って、二、三粒飲み込んだ。


 すっと気分の悪さが消えて、体が軽くなる。やはり思いこみというよりは、なにか効果がある気がする。そこで初めて、そんな効果があるのなら一般的に採られていないのはおかしいと気がついた。


 採っているところを見たことがないし、なにより俺が杯に入れるのを見ていたリドが結晶のことを知らなかった。不意に、これが誰にでも採れる物じゃない可能性に行き当たる。もし、これがヴィナ・ユナの力だとしたら――。


 結果が疲労回復というものだとしても、ぞっと腹の底が冷えるような感覚に襲われる。自分が自分の知らない何かになってしまったような恐怖が、体を震わせた。


 残っていた数粒が、手のひらから零れ落ちる。ささやかな水音に混じり、「へぇ」と誰かが呟いた。


「あんた、水に溶けてる魔力を結晶化できるんだね」


 あの蛇男かと思ってビクリと体が跳ねたが、振り返った先にいた人物に、俺は一瞬だけ言葉を失った。


「……あっ! お、お前!」


「久しぶり。異世界はどう?」


 木の幹に悠長に腰掛けていたのは、あの男装女だった。身軽な動きで、俺の肩くらいの高さの岩に降りてくる。


「どう? じゃねぇ! お前、俺がどれだけ――ッ」


春日竜果(かすがりゅうか)


「は?」


「私の名前。春の日に竜を果たすと書いて、春日竜果」


「春の日……って、漢字? 日本人かよ!」


「うん。最初に言ったじゃん。私はあんたと同じ、日本人だよ。非現実体験の先輩として、尊敬してもいいよ」


 顔は爽やかに笑ってるが、尊敬することを強要している雰囲気がある。


「あんた……どうして俺をこの世界に連れてきたんだ」


「え? 違う違う。私が連れてきたんじゃないよ。運命ってヤツ。自分が一番わかってんじゃないの?」


 そう言われてすぐにファリスの顔が浮かんだが、向こうは今のところ俺に運命を感じてくれてはいない。


 それが顔に出たらしく、春日と名乗った女は訝しげに首を傾げた。


「……? どうしちゃったの、あんた。最初の高飛車な感じが成りを潜めてんね」


「うるせ」


 顔を逸らすと、春日は何かを探るように俺の横顔を注視していたが、暫くすると嘆息して視線を外した。


「まあいいや。私はお礼をもらいにきたのよ」


「は?」


「報酬よ。助けてやったんだから、何か寄越しなさいよ」


 そう言って、ずいと手を俺の前に差し出してくる。


「報酬って……あんたが一方的に」


「でも、助かったでしょう?」


 微かに口端を上げて、春日は挑発するように笑った。女のくせに、男っぽい仕草が妙に様になる。


「そう言われてもな。見ての通り、俺は何も持ってない」


 言葉が理解できたことは俺をかなり助けてくれたから、渡せるものがあるなら渡してやってもいいくらいの感謝はしてるが、本当に今は身一つだ。仕方なく「セックスでもするか」と言ったら、思いきり頭を殴られた。しかも拳で。


 冗談だってわかってるくせに!


 こいつ女じゃねぇ。素っ裸で水に浸かってる俺の前で、恥じらいもしねーし。


「そういえば、あんた龍姫とか言われてるらしいな。やたらこっちで有名みたいだけど?」


「うん? ああ、まあね。他にも北の魔導師とか、旧大国(ヴァミリオ)の魔女とか言われてるよ。私の魂はもともとはこっちの世界のものだったんだってさ。しかも前世は超優秀な召喚士。私はその能力をガッツリ継承してたみたいで、こっちに喚ばれるわ滅びかけの国を取り戻す為に奔走させられるわで、マジで大変だった。その話もいつの間にか英雄譚になっちゃってさ。どこからか異世界人だってこともバレちゃって……。やれ、《天の御使い》だとか、《神の申し子》だとか、すっかり崇拝の対象よ」


「神に遣わされし救世主ってか? ずいぶんとドラマティックな人生だな」


「異世界に召喚された時点で波瀾万丈なのに、さらに設定を盛られて面倒ったらないわよ。いつのまにかイーダなんて行事までできちゃってるし」


「イーダって行事なのか? なにか特別な感じはしたが、(こよみ)か何かだと思ってた」


「暦でいいのよ。私がこの世界に召喚されてきた月のことを、吉祥を示す星の名にちなんでイーダって言うようになったってだけ。その期間は神と人々の距離が近くなるってこじつけられて、この大陸(ヴァミリア)の国々は例外なく何かしらの祭典を行ってるわ」


「なるほど、あんたを讃えてるわけか……」


 そう呟くと、春日はもの凄く面倒くさそうに手を振った。


「違うわよ。『我が国にも栄華をもたらす天の御使いを降臨させたまえ~』って神様にお願いしてんの。私は滅びかけた国を救う手伝いをしただけで、繁栄させたのは立ち直った王家だし、召喚は魂の(えにし)によるものだから、神様は関係ないのにね。変な期待されて神様もいい迷惑よねぇ?」


「勘違いとはいえ、あんたという実例があるなら仕方ないんじゃねえの。そういうのを生き甲斐にしてる奴らもいるだろうし……。放って置けよ。願うだけなら自由だ」


「そう言われちゃうとそうなんだけどね。しかも今度は本当に本物の神の御使いサマも現れたわけだしね」


「なんだ、本物もいるのかよ。そりゃ躍起にもなるだろ」


「なに他人事みたいに――って! あんた、ちゃっかりお礼の話はぐらかしたわね!?」


 チッ、気づきやがった。舌打ちすると、春日は目を眇めて俺を睨んだ。


「だから、そう言われても何もないんだって。体は嫌なんだろう?」


「私は身も心もとっくの昔に一人の男に捧げてんの。あんまりしつこいと、新しく造った魔導具の実験台にするわよ? 命の保証はないわよ?」


 うふふ、と薄気味悪い顔で笑われて思わず一歩後ずさる。


「馬鹿ね、冗談よ。私は根っからの派手好きだからね。興味がなければ、研究とか開発とか面倒臭いことはしないの。お礼にはダイスちょうだいよ。ダイス」


「ダイス?」


「魔力結晶のことよ。さっきあんたが手に持ってたやつ。普通は長い年月をかけて精霊が宿っている木とか岩とかで結晶化するものだからめちゃくちゃ貴重なんだけど……あんたはナディアの魔力なら即時に結晶化できるみたいね」


 それは、俺がヴィナ・ユナだから――?


 動揺した俺を見て、春日は少し複雑な顔をした。


「今はまだ背約者の傷跡が残ってるから大変だと思うけど、そのうちみんなの認識も改まってくると思うから、あまり気にしない方がいいわよ。本来は紫って、セッダにとってはとても尊い色なんだから」


「尊い色?」


 この、忌み嫌われている色が? いや、そういえばリドもそんなことを言っていた気がするな。


「そうよ。そもそもナディアを象徴する色なんだから」


「ああ、そうか。紫は、もとはナディアの瞳の色だもんな。彼女の魔力を背約者が奪って悪用したから、紫が忌まわしい色っていう認識になっちまったのか――」


「その通り」


「――少し気になってたんだが、悪いのは背約者であって他の人間は被害者だろ? なのになんで、ナディアは背約者からようやく取り戻した国を追い込むような仕打ちをしてるんだ? 復興に力を貸すのが役目だろうに」


 守護する立場なら、国が潤いを取り戻すために積極的に手助けしそうなものなのに――。


「そこもね、なんていうか……複雑なの。ヴィナ・ユナという存在のせいで、ナディアの使徒が大勢殺されたから」


「ナディアの使徒?」


「背約者じゃなくて、ナディアから祝福された者のことよ。ナディアは気に入った人間に、直接加護を授けていたの。使徒となった者の大半はその力で(まじな)いをしたり、祝福を分け与えたり、人々を幸福へ導く使者として活動していた」


 ざわり、と嫌な予感に背筋が疼く。ナディアの加護を授けられていたということは、当然、瞳が紫だったはずだ。源が同じなのだから、きっと、ヴィナ・ユナと同じ色の――。


「……それって、最悪じゃないか」


 希望と幸福の象徴だったものが、ある日突然、死と絶望を与えるものになる。その事実は人々にとって、どれほどの恐怖だっただろうか。


「で、でも、区別はつくはずだよな? ヴィナ・ユナは祝福の言霊を唱えられないんだろう?」


「そりゃそうだけど……それを確かめることがどれほど危険な行為かわかるでしょう?」


「あ」


 そうか。相手がナディアの使徒ならば誤解が解けて終わりだが、ヴィナ・ユナだったならば、のこのこ近づいてきた人間を生かしておくわけがない。


 紫の瞳を持つ者を見つけたら殺すしかなかった――?


 自分達が、生き残るために。


 救いを求めるべき王を失い、混沌と化していた当時の人々にとって、紫眼の存在は今とは比べものにならないほどの恐怖だった筈だ。間違えば殺されるという恐怖に打ち勝てたものは、ごく僅かだったに違いない。それでも、彼らもまた、勇気を出せたからこそ殺されていったのかもしれない。そして、残された人々には悔恨と憎しみが残り、積み重なっていったんだろうか。


 人々が俺に向けてくる視線を思い出して、身震いする。改めて、その業の深さを思い知らされた気がした。


 穢れを避けなければならないシェラディアの最中だろうと、俺は殺されていてもおかしくない状況にいたのだ。


 それを押し留めさせるだけの力がファリスにあったから、俺は今、生きている。


「死の恐怖は抗いがたいわ。だから、ナディアの使徒の多くが、弁解する余地すら与えられず殺されていった」


 仕方がない。仕方がないのだと頭では理解できるが、あまりにも――。


「救いがないな」


 ナディアからすれば、罪もない子ども達を惨殺されたようなものだろう。裏切りによって力を奪われ、追い打ちのように自らの使徒を殺されれば、ナディアの怒りと哀しみは想像を絶するものだったに違いない。


 それに、もしかしたら……殺されていった者達の無念の叫びも、女神である彼女には届いていたのかもしれない。


 背約者がいなくなったとはいえ、すぐに人間を赦せないのもわからなくはない気がした。


 他に方法がなかった。けれどなかったでは済ませられない哀しみと痛みが双方にある。




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