嘘と真実と嘘(1)
昼にオアシスで眠り、夕暮れから夜明けにかけて移動する。そんな旅を続けて、五日ほど経った日の昼だった。
水を吸って額に張りついた前髪を掻き上げながら、水浴びのたびに俺を見ている男を睨みつける。どんなに警戒していても、いつのまにか思いもよらないほど近くにいるのだ。堂々としているだけに、めちゃくちゃ気味が悪い。
なんていうか、普通にストーカーだ。
しかも今日は俺が脱いだ服の側にいて、薄笑いなんか浮かべてやがるし。お前は電話がかかってくるたびに近づいてくるホラー人形か。
ここで怯んだら負けのような気がして、俺は平静を装って水から上がり、男の存在を無視して体を拭いた。警戒で産毛が全部逆立って、肌がピリピリと刺激される。男の視線はそれを楽しむみたいに不躾で、何度も頬や首筋、腰から腿、足首のあたりを撫でた。
内心で悔しく思いながらも、その視線に急かされるようにズボンを穿く。
最初に与えられた女物を俺が一日中着ていたことで懲りたのか、それ以降はファリスが自分の服を仕立て直させた物しかくれなくなったので、露出は少ない。
それでも余るウエストが落ちないように腰布をきつく巻き、膨らみすぎる裾を足首で絞ってから足輪で留めた。
「儚いなぁ」
話しかけられても俺はいつも無視していたが、今回は言うなり背中をするりと撫でられたので、思いきりびくついてしまった。
驚愕と怯えに引き攣った顔で振り返った俺を見て、男が哀しそうな顔をする。
「私を怖れる必要はないんだよ? ユナ」
男の瞳にうっすらと暗い色が滲んだ気がして、皮膚がぞわりと粟だった。
蛇男は、俺をヴィナ・ユナではなく「ユナ」と呼ぶ。
なんとなく名前を呼び捨てられているような、馴れ馴れしさがあって気に食わない。怯えた自分を奮い立たせるように、俺は意図して語気を強めた。
「略すな。馴れ馴れしい」
「略す? そんなことはしていないよ。君はユナだ」
心外だと言わんばかりに訂正されて、俺は戸惑った。ヴィナ(丶丶丶)にどんな意味があるのか知らないが、そんな言われ方をされれば気になってくる。
「私のユナだ」
「…………はぁ?」
突然の所有物発言に唖然としたが、男の指先が俺の頬に触れようと伸ばされてきたので、慌てて払った。
「俺に触るなっ」
光を吸い込むような暗い碧眼に、俺まで吸い込まれそうな気がして、背筋が震える。急いでローブと胴着を引っ掴むと、俺は逃げるようにその場を後にした。
駆け出さなかっただけ、自分を褒めてやりたい。
「ファリス、ファリス!」
「っ!? なんだ貴様っ」
出立の準備にかかろうとしていたファリスを捕まえて、無理矢理抱きつく。ファリスの体温と匂いで、自分を落ち着かせたかったのだ。
「いい加減、離れろ!」
「あっ……ケチ!」
俺を拒む動きが遠慮がちなものから力尽くに変わり、べりっと引き剥がされる。腰帯を掴んで抵抗したが、それも引き抜かれてしまった。
あんたの可愛い俺が、ストーカー被害に遭ってるっつーのに! なんだその態度は。
「いいだろ、くっつくくらい!」
「俺は暇じゃない。仕事中は邪魔をするな」
五日経ち、俺が本当に力を使わないこと(使い方がわからないだけだが)を信じ始めたらしく、ファリスの対応に遠慮がなくなってきている。
ヴィナ・ユナに対する嫌悪は見せるものの、俺個人に対する態度は軟化してきたような気がするのだ。単に慣れてきただけかもしれないが、俺は良い変化だと思っている。
「仕事って、ここに突っ立ってただけじゃないか。誰か待ってるだけなら、そいつが来るまでくっつかせろ!」
「おい、――ッ、止めろと言っている!」
「やだ!」
子どもじみた攻防をしていると、いつのまにか一人の兵士が少し離れたところに現れていた。俺が気がついて視線を向けると、ファリスも手を止めて顔を向ける。
そこでようやく、兵士が俺にびくつきながらも近寄ってきた。
「ファリス様……あの」
「どうした」
兵士に気が逸れた一瞬で、手を握る。ファリスは俺の手を振り払おうと何度か腕を揺すったが、部下の手前だからかその抵抗は直ぐに終わった。諦めに脱力した手のひらの温もりを、遠慮なく味わう。
触れるにしても、触れられるにしても、相手次第でこんなにも違う感覚を得られるのが不思議だった。
「救護班総出で尽力したのですが、どうしても動けない兵士が数名おります。熱が下がらず目眩も酷いようで、中には嘔吐した者も……」
「そうか。体力のある者達でも、やはり長旅だとザグルにかかるのは避けられないな」
「申し訳ありません」
「いや、仕方ないことだ。彼らは医療班の一部を付き添わせてもう一日ここに留まり、後衛部隊と合流するように言っておけ」
「了解しました」
敬礼した兵士が去っていくと、ファリスは大きく溜息を吐いた。
「もう少し、一度に持たせる水を増やすか」
独り言だろうが、気になったので俺は口を開いた。
「塩は?」
「なに?」
「だから、塩」
「塩がどうした。欲しいのか?」
「そうじゃなくて、ザグルって熱中症のことだろ?」
「ネッチウセウ?」
ファリスが発音しにくそうに俺の言葉を繰り返し、首を傾げる。
「俺がいたところだと、ザグルを熱中症っていうんだよ。熱中症は、体中の水分が汗として大量に失われることで起こる。汗ってのは、水分だけじゃないんだぜ? カリウムとかリンとか……って言ってもわからないか。とにかく、予防したいなら水分と一緒に最低でも塩分を摂らないとだめだ。水に塩を混ぜるか、別に持たせて一緒に摂取するように言ってやるといい」
「…………」
「……ファリス?」
返事がないので見上げると、ファリスが厳しい顔つきでじっと俺を見下ろしていたのでビビった。
「なんだよ」
「何を企んでいる?」
はいきた。めっちゃカチンって来たぜ俺は。
「…………ッ」
握っていた手を振り払い、ちょうど迎えに来たリドがファリスに挨拶しようとするのを遮って輿に向かった。
ファリスが俺を疑うのは仕方のないことだが、理解と実際の感情ってのは違うもんだ。
(なんだよ。馬鹿……バーカ!)
◇ ◇ ◇
慣れない気候と慣れない旅生活は俺の体力と体重を奪っていたが、それを打ち明けられる立場じゃないから隠すしかない。おまけにあの気味の悪い男のせいで気力も萎えていて、時折どうしようもないほどの寂しさに襲われた。
智次と絹江にすごく会いたかったし、金でつるんでいた連中も一緒に馬鹿をやった仲間には違いないからか、何日も会わないと恋しくなった。
ふとしたときに自分の心の弱さを自覚させられて、その危うさにぞっとしては気を引き締める。
最近は、その繰り返しだ。
無自覚なところで気持ちの浮き沈みが激しいのか、輿の微かな揺れが心地良いときもあれば、吐きそうなほど気持ち悪いこともあった。
「水をお飲みになりますか?」
俺が喉に手をあてて溜息をつくと、リドがそう聞いてきた。喉が渇いていたわけじゃないが、気持ちを切り替えるのにいいかもしれないと頷く。
リドはすぐに水差しを取り出し、中身を杯に注いでくれた。温いが、ルッカという香草が水の中に浸されていて、そこから抽出された爽やかな香りと味が涼しさを体感させてくれる。
おそらく、メントールかそれに似た成分があるんだろう。
そのことに気がついてからは、時折水を布に浸して体の汗を拭っていた。リドは不思議そうにしていたが、からかい半分に首を拭ってやると、涼しいととても驚いていた。
リドは癒やしだ。些細なことでも表情をくるくると変えて、俺を楽しませてくれる。
「どうぞ」
「ん、ありがと」
差し出された杯を受け取り、俺は懐からあの四角い結晶を取り出し、中に落とした。水に触れるとあっという間に跡形もなくなる。
オアシスの水は飲み水として使っているから、この結晶も食べられるだろうと試しに一粒口にいれたら、なんとなく体の疲労が少し取れたような気がして、ちょっとキツいなと思うときは口にしているのだ。
気休めかもしれないが、今の俺には思いこみでも疲労が和らぐのは有り難い。
「リドも自分の判断で飲めよ? 脱水症状起こして動けなくなったら、輿から蹴落としてやるからな。自己管理もできない役立たずはいらねえ」
「はい。ありがとうございます」
なんでそこで感謝するのかがわからん。昨日、喉の渇きを我慢している事に気づいたとき、自分で判断して水分補給できないのかと罵ったらめちゃくちゃ驚いてたし。
「ああ、外の二人にはお前から出してやれよ」
「……はい」
お前から(丶丶丶丶)という言葉を使う度、リドは表情を暗くする。別になにか仕込んだりしねえっつの。ただあいつらは勝手に飲めと言ったところで我慢しそうだし、俺からだと言ったらそれこそ死んでも飲まないだろうから、そう言っているだけだ。
ちなみにあの二人ってのは、ゾラとディンのことだ。
いつだったか、俺の輿にも護衛がちゃんとついていることに気がついた。ヴィナ・ユナに護衛なんてファリスも何を考えてるんだと思ったが、リドがいるんだよな。
何に襲われるのかは知らないが、輿は目立つし目的によっては真っ先に襲われる。その中身がヴィナ・ユナである俺だけなら見捨てるのもありだろうが、リドがいる以上、護衛は必要だろう。
とにかく、護衛をつけるのならゾラとディンがいいと、俺はファリスに言った。当然、ファリスは訝しんだが、今の護衛の憔悴っぷりと、あの二人が俺に屈しなかったことを教えてやると、いざというときにリドを見捨てられても困ると思ったのか、一日思案した後で、渋々だったが俺の希望通りに配置を換えてくれた。
俺の輿の護衛になった二人の顔は見物だった。今思いだしても笑える。というか、二人を見る度に思い出されて、毎回噴き出しそうになっている。
でもあいつらにだって、限界はある。
最初の連中の消耗っぷりに比べたらましだが、日に日に旅の疲労とヴィナ・ユナの傍にいる緊張でやつれていっている気がしなくもない。
その負荷の分、ということでリドに水を分け与えさせていた。緊張で余分に汗かいてそうだし、配給されている水だけじゃ足りないだろう。
「あ。待て、リド」
小窓を開けようとしたリドを止め、俺は二人のために用意された杯の中に一粒づつ結晶を落とし入れた。俺の意見が反映されたのか無視されたのかを把握していないので、塩の代わりというか気休めだ。
結晶を有害物と誤解されるかと思ったが、リドはただ不思議そうに首を傾げて俺を見た。
「最近、オトヤ様が口にされているものですよね? 何か訊いてもいいですか?」
「毒」
取り繕っているのかと思って、わざとそう言うと今度は困ったような顔をして笑った。
「ご冗談を。それを口になさるとオトヤ様は顔色がよろしくなるように思います。体にいいものなのでしょう?」
「……俺にはな」
俺(丶)を強調して言ってやったが、そこでリドが動揺することはなかった。
「ここのところ、お痩せになったようにも思います。セナルももう近いそうですし……ナディア様のもとへ行くのが不安ですか?」
「……ナディア様のもと? ああ」
そういえば、俺はナディアにこれからの身の振り方を委ねるために旅に加わったことになってたんだっけ。実際はよくわからないうちにこの世界にいて、いつの間にかヴィナ・ユナにされちまっただけだが、ナディアに俺のことを相談するのは悪くないかもしれない。
どうせ力の使い方なんかわからないし、ナディアから奪った力だというなら、返せる可能性もある。
ヴィナ・ユナという邪魔な肩書きがとれるなら、こんなに有り難いことはない。
女神サマなんだから、悪意のない者を邪険にしたりはしない……よな?
「……なんとかなるか?」
そう一人ごちると、心配そうな大きな瞳と視線が合った。




