恋は焦らずと言いますが(4)
思ったよりもかなり早く、ファリスは帰ってきた。
次の移動のために体力を回復しなければならないから、交代の見張りを残して誰もが休息する時間らしい。
「随分残したな。お前の口には合わなかったか?」
「ファリスが一緒に食べてくれなかったからな」
クッションの上で横になったまま俺が言うと、ファリスの眉間に皺が増える。俺も少し、その表情に慣れてきた。
隣に来いと腕を伸ばしたが、かなり離れたところでファリスは横になった。
「お前の狙いはなんだ。何を企んでいる?」
「狙いはあんたで、あんたを手に入れることを企んでるよ。せっかく美人が添い寝してやろうってのに、つれないヤツだな」
にじり寄ってからファリスの体に半分乗り上がり、顔を覗き込む。強い視線をぶつけてもファリスは目を閉じたままで、ただ一つ、大きく息を吐いた。
「お前のどこが美しいと? 俺に言わせればお前は地上で最も忌むべき醜い生き物だ。俺はお前に落ちはしない」
「…………」
この世界での美醜の価値観を知らないからなんとも言えないが、俺を綺麗だと言ったのは子どものリドだけだ。
それも、顔じゃなくて瞳や肌の色の珍しさに感嘆していただけだった。
つまり、ファリスの判断こそが一般論になるわけで――。
(俺って、この世界じゃ不細工なのか?)
それが事実なら、非常にヤバい。
確かに、彫りが深くハッキリとしているファリス達の顔の造りと比べれば、東洋人である俺の顔は平坦に見えるだろう。それでも整っていれば美人に見えるものだが、この世界ではその差違が、俺が思っていた以上に重要なのかもしれない。
胸中に不安が滲み、動揺を煽るように鼓動が速まる。
ファリスが俺を見て嫌な顔をするのは、背約者に対する憎悪だとばかり思っていた。だからこそ、攻めまくればなんとかなるだろうと考えていたのだ。
だが実際は、そんなに簡単にはいかないらしい。
動揺のせいですっかり眠気が失せてしまい、時間をいたずらに持て余してしまう。
じっとしていても焦るばかりなので、俺は泉に体を洗いに行くことにした。俺が水浴びするのは、この静かな時間が最適だろうと思ったのもある。
真昼の陽射しは凄まじく、直接浴びると皮膚がチリチリと痛んだ。バスタオル代わりにと勝手に持ち出した布を頭から被り、足早に移動する。
人の気配がない方へと移動していき、岩場の陰を選んで泉に入った。
水は碧みがかっていて美しく、温度も水浴びにちょうどいい。泳ぎたい衝動に駆られたが、大きな水音を立てたら誰かに気づかれてしまうので、ぐっと我慢した。
髪や体に絡みついていた砂や汗を丁寧に洗い流す。シャンプーやボディソープが欲しいところだ。
「用意させりゃよかったな。似たようなものなら、絶対にあるだろうし」
高級品だったとしても、皇女がいるんだから、大抵のものは用意されてるはずだ。
戻ったらファリスに訊こう。
「しかし、綺麗なところだな」
美しいオアシスに、へこんでいた気持ちを癒される。
それなりに感じていた不安や動揺が、静まっていくようだった。
風呂に浸かるみたいに水面をたゆたいながら、景色を楽しむ。その合間に水を掬って遊んでいたら、不思議な色合いで光を反射する場所を見つけて興味が湧いた。
「なんだ……?」
碧と蒼が滲むように混ざり合い、揺れている。何かが水中で光を弾いているのかと思ったが、原因となる物体は見当たらなかった。
本当に、水の一部が色づいて発光している。なんとも言いがたい、奇妙な光景だった。
好奇心に負けて、変色部分に両手を伸ばす。そこ(丶丶)を掬うようにして、器にした両手のひらを持ち上げた。
多少の恐怖はあったので、すぐに指の隙間から水を落としたが、気がつくと、手のひらの上に小さな粒が残っていた。直径一ミリほどの、キューブ状の結晶体だ。イメージとしては塩の結晶が一番近いが、あきらかに別物だ。
「あっ」
観察しようとしてつまみ上げた一粒が指先から滑り落ち、水面に落ちる。するとそれは、水と接触した瞬間、変色した水に戻った。
掬うと、結晶に戻る。
「水と反応して液化してるのか、空気に反応して固形化してるのか……? どっちにしろなんだこれ。面白れぇ」
科学の実験でもしているような心持ちで、結晶を弄ぶ。
暫く夢中になって沈めたり掬いあげたりしていたが、不意に背後で物音がして、俺は文字通り飛び上がった。
慌てて振り返ると、兵士が一人、岩の上に座って俺を見ていた。
「だ、誰だお前」
「何が面白いんだい?」
数分前に言った俺の独り言を問いで返されて、ずいぶん前から俺を見ていたのだと知る。
男だし、覗き見ていたというにはあまりに目立つ場所に座っているからなんとも言えないが、あまり気分のいいもんじゃない。
俺は男を無視して水から上がり、手早く身支度を整えて天幕に戻った。
あいつの目が嫌いだ。顔も。
俺が大嫌いな蛇に似てるし、平然と話しかけてくるのも、ここでは不気味だった。
◇ ◇ ◇
視線を感じて瞼を開くと、俺を下から見ていた目がさっと逸らされた。
嫌がらせも兼ねてファリスの上に乗っかって寝顔を凝視していたんだが、いつの間にか俺も寝入っていたらしい。
「寝顔はマシか?」
「なに?」
問いかけた途端、ファリスの眉間にぎゅと皺が寄る。
俺を起こした視線に嫌悪はなかった気がしたが、思い違いだったらしい。
頑なに目を逸らしている顔を見つめながら、手のひらで胸板を撫でる。指先が首筋に触れると、手首を掴まれた。
「やめろ」
「俺をちゃんと見るなら考えてやるよ」
「断る」
「何もしないって言ってるのに」
「断る。ヴィナ・ユナの瞳は、それだけで毒だ」
「……そーいうこと言われちゃうと、体で迫るしかないんだけど?」
俺を見ないなら、せめて触れて欲しい。切っ掛けはなんでもいいから、俺が感じた運命に、ファリスにも早く気づいて欲しかった。
それを促せるのなら、最初のセックスくらい勢いで構わない。
拒絶される立場になってようやく、愛して欲しいと縋ってきた女の必死さや、想いがわかった気がした。もしかしたら、触れ合いを求めてきた数少ない彼女達にとって、金は関係なかったのかもしれない。拒まれる哀しみを知っていたなら、俺は彼女達にもう少し優しくしてやれただろうか。
ちらとそんな考えが頭を過ぎったが、過去は過去だ。どうしようもない。
(今更だ)
俺は乗り上げている逞しい体に頬を押しつけながら、さてどうしようかと悩んだ。
男同士なんて、高校時代に無謀にも俺を強姦しようとした男が、駆けつけてきた俺の取り巻きにさんざん輪姦されたところしか見たことがない。
もちろん、俺はシメとけと言っただけで、輪姦せなんて指示はしてない。破られた制服からジャージに着替え、様子を見に戻ったら、そうなっていただけだ。
目には目をと言ってしまえばその通りだし、確かに一番効果的だが、取り巻き連中の発想の単純さに呆れたことを覚えている。男が持っていたローションを使ってやったらしく、流血沙汰にはなっていなかったが、見て気持ちのいいものじゃなかった。
うっかり思いだした光景に、気持ちが萎えそうになって頭を振る。
緩く息を吸い込むとファリスの体臭が鼻腔を掠めて、少し気分が高揚した。
(男の匂いに興奮するのか、俺。なんか変な感じだな)
匂いに誘われるように鎖骨に唇を寄せたら、もの凄い勢いでファリスが起きあがった。
「わ、あ――!」
密着していた腹筋がぐっと締まり、乗っていた俺を掛け布みたいに押し退ける。
片方の手首を掴まれたままじゃなかったら、間違いなく仰向けにひっくり返っていただろう。
「やめろと言っている。それとも、結局は色仕掛けしかできないのか? あれだけ自信ありげに俺を落とすと言っておきながら?」
俺から智次の擁護と金を取ったら、容姿しか取り柄ないっつーの。この世界じゃそれが唯一の武器だったのに、それすらあんたに否定されたんだ。
なり振りなんか、構ってられるか!
「色仕掛けの何が悪いんだよ。容姿が気に入らないって言われたら、この若く瑞々しい肉体で迫るしかねぇだろうが」
「開き直るな。男のくせに、恥を知れ」
「うっせ! 俺は兵士でも戦士でもねーから、そういうプライドなんか持ってない。だから何度でも迫るし、仕掛けるに決まってんだろ」
「無意味だ」
手首を掴む指先にぐっと力が込められて、骨が軋む。痛かったが、どうでもよかった。
触れそうなほど近くで俺を睨みつけてくる琥珀に、見惚れる。
「俺にとってはそうでもないぜ? 俺だけが映るファリスの瞳なら、どんな感情が込められていようが愛しい」
とろけるような心地で告げると、凄まじい怒りを秘めた瞳を持つ獣が低く唸った。
何かを耐えるように表情が何度も形を変えて歪み、今にも爆発しそうな衝動を自制しようとしているのがわかる。
ファリスの瞳に映った俺が、笑う。
「……ぞくぞくする」
怒りに燃える琥珀色の瞳に囚われたまま、興奮に熱を持つ唇に吸いつく。
予想外の行動だったらしく、ファリスの表情から怒りがすとんと落ちた。吊り上がっていた眉目が驚きを表すように丸みを帯び、眉間の皺が消える。
だがそれは一瞬で、すぐに眉間の皺は戻った。
「……っ、貴様」
忌々しげに呻きながらファリスは俺を引き剥がしたが、左手は口元を覆っている。
嫌そうだが動揺も感じ取れたので、俺はそれなりに満足した。色仕掛けに流されるタイプではないだろうが、あしらうのが得意というわけでもないらしい。
「かっわいいとこあんじゃん」
俺がからかうとファリスは悔しそうに唇を歪め、天幕から出て行ってしまった。
残された俺はというと、リドが呼びに来るまで触れた唇への喜びに悶絶しつつ、余計に嫌悪されただろうという後悔にのたうち回っていた。




