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第一話「ココロとこころと心と心奈」(上)

1




 目玉焼き――愛らしくもどこかグロテスクな響きを含んだ名称を以って庶民に広く親しまれるその簡素(かんそ)料理の奥深さといったら、それはもう人類が作り上げた言語による表現可能領域を、絶対的に超越(ちょうえつ)してしまっているといってまったく過言でないように思えてならない。焼き加減から、黄身の硬さ、黄身を崩すタイミング、そして調味料まで――片面焼き、両面焼き、半熟、固焼き、醤油、ソース、塩、胡椒、マヨネーズと、挙げてみれば永久に終わりが見えることはなく、組み合わせは無限に、無数に、無窮(むきゅう)に存在する。

 目玉焼きを調理し、食べる――ただそれだけの過程を経るだけでも、僕らはその中で数え切れないほど多くの選択を強要されてしまうわけだ。それはなにも目玉焼きのみに限られたことではないが、凡そ(おおよそ)すべての行為(こうい)事象(じしょう)行動(こうどう)には、膨大な数の選択肢が必然的に付帯(ふたい)するもの。

 それ故、その選択の労を省くべく目玉焼きを半液体状のヘドロのような、原型をまるで留めていないくらいに(ゆが)めた形で完成させたとしても、僕が責められるいわれはまったくないのである。

「……何かな? これは」

「見て分かるだろう。目玉焼きだよ」

「……どうも私の知ってる目玉焼きとはまるで違うみたい。私の中では、少なくとも目玉焼きは固体の物質だよ」

 そんな皮肉たっぷりの台詞と共に、我が家の同居人にして血縁的にはまったくの他人である少女、幻中心奈(まぼなかここな)(まぼなかここな)――心奈は、流され忘れたまま便器に残る排泄物でも見るかのような容赦のない侮蔑の眼差しを、僕が愛情を込めに込めて作り上げた半液体状の物質に対して向けてきた。人様の作った料理に対して文句を向けるという圧倒的に失礼な心奈の態度を、しかし許容してやる親切な僕である。

「まぁ、食えよ。ただでさえ身体ちっこいんだから、食わないともたないぞ」 

「こんなの食べたら、逆に卒倒しちゃいそうだけどね……まずさ、どこが黄身でどこが白身なのかな? まぁ黄色も白もこの物体には見られないけど」

 「液体は箸じゃすくえないよ」などと悪態を吐きつつスプーンを要求してきた心奈は、それでも特に抵抗する素振りを見せることなくごく素直に、言われた通り目玉焼きを口にする。

「どう? そこまで悪くないだろ」

「うん。見た目よりはね。泥と砂の中間みたいな味。それより、あっくんは食べないの?」

「ははは。さすがの僕もそんなヘドロを食べる気にはなれないな」

「……掃除機でぶん殴ってもい?」

「断固拒否する」

 心奈は頬を膨らませながら精一杯の鋭い眼光を僕に向けてくるものの、正直言って迫力は皆無である。

 白い肌。艶のある唇。小さい、というよりはむしろ幼いという表現が当て嵌まるような、小柄な体躯。仄かにウェーブのかかった漆黒の長髪は、ロリータちっくに――男心を刺激して止まない要素を十二分に備えた彼女がそんなふうに睨んだところで、恐怖を感じさせるどころか逆に可愛く見せてしまうのが関の山だった。

「むー。相変わらず、あっくんてば失礼なやつだよー」

「げ……また読んだのか。禁止だって約束だろ?」

 おまけに。

 心奈には――“力”があった。

 おとぎ話に出てくるような、不思議で異常で現実離れした――“力”。

 馬鹿馬鹿しくも極めて厄介で、必然的に他者を遠ざけてしまう――“力”

 他人の“ココロ”の中身を、まるで書物を読むかのように自由に読むことができるという、常軌を逸した“力”。

 そんな“力”が――彼女にはあった。

「――あぅ。ごめん。……んー。まだ常時オフには慣れないみたい。自然に発動しちゃう」

 心奈、つまりはこの“力”の持ち主曰く――迷惑にして便利にして脅威にして、プライバシーという概念などまるで眼中に入れることなく無視したこの“力”は、彼女が心理学的知識を修得しているだとか、読心術に長けているだとか、そういった根拠に起因するものではないらしい。

 あくまでもどこまでも、特殊能力なのだそうだ。

 心理学など一度も学んだことはなく、必然、読心術を身に着けているわけもなく、物心ついたときには、既にこの“力”は自分に備わっていたと、彼女は言っていた。

 文字通り、人のココロを“読む”ことのできる“力”。

 読心術を“guess”とすると、心奈のこの“力”は“read”に当たると。

 つまるところ、他人の動作や言動、態度から“読む”、というものではなく、本棚から読みたい本を引っ張り出して“読む”、という感覚に近いと、そういうことなのだろう。

 言うまでもなく、僕とて最初から心奈の人間離れした特殊能力を信じていたわけではない。どんなに精巧(せいこう)緻密(ちみつ)不思議(ふしぎ)なマジック(手品師たちに言わせれば“イリュージョン”。さらに心奈に言わせれば、手品師たちも“マジシャン”)をTVで見かけたとしても、感嘆するよりもまずトリックを疑ってしまうような捻くれた性格をしている僕だから、むしろかなり懐疑的(かいぎてき)だった。しかし、8重のロックをかけ、その上で50字のパスワードを設けてまでパソコン内に隠していた数々の健全な欲求を、僕のパソコンに触れてもいない、ていうか初対面だった彼女にずばりと言い当てられては、もう信じるしかなかった。

「まぁ、それは仕方ないか。だんだんと慣れていけばいいよ」

「……そだね。――およ。もうこんな時間。そろそろ準備したほうがいいんじゃないの、あっくん」

 ちゃっかりと空になっていた食器を重ねながら――どこか話をはぐらかすかのように、心奈は告げる。

 よくもあの物体を完食できたものだと少しばかり感心しながら改めて自分の格好を見てみると、上下寝巻きにエプロン(防御用)、寝癖だらけの頭髪、そして左右で明らかに種類の違う靴下と、およそ登校にふさわしい格好であるとは言い難い。

「――ん。じゃ準備してくるから、リビングで待っててくれ」

「時間になったら、迷いもなく躊躇もなく容赦もなくあっくんを置いて家を出るけど、待ってるね」

 それを待っているとは言わない。

 ひとつ屋根の下に住む同居人のものとは思えないような、まるで情を感じ取ることができない発言だった。

「急げ急げ急げ」

 余談になってしまうけれど、慌てているときや急いでいるとき、僕はあえて焦燥感を煽る言葉を自発的に口にすることにしている。危機感を、頭だけでなく耳からも感じようという寸法だ。“急がば回れ”という言葉があるが、冗談ではない。急を要する事態に()いては、つまりは急を要するのである。

 しかし、慌てていればそれだけ集中力が散漫になってしまうというのも、また疑いようのない事実であるのは確かなわけで。

「ん……」

 何やらは磨き粉が苦い。いつものようなミントの爽快さはなく、ケミカルな、それでいてしつこいような不快な味が口の中に広がる。どうやら磨き粉を間違えてしまったらしかった。

 ていうか、洗顔フォームだった。

 顔を洗うための化学薬品だった。

「う、ぐ、ぐぇぇ……」

 吐き気。

 自分の口の中を満たしているのが洗顔フォームだと自覚すると同時に、凄まじい吐き気が僕を襲う。

 目の前の鏡に映っていたのは、顔を青白く変色させた、僕。

 そして、そんな僕に対し極めて怜悧な視線を向ける心奈。

「急がば回れ、だよ。あっくん。それじゃあね」




 私立(しりつ)(はく)(あい)学園(がくえん)高等部(こうとうぶ)、つまりは僕らの通う高校の名を一度たりとも耳に入れたことのないような人間は、おそらくこの県内においてはまるで存在しないものと思われるが、そんな高知名度の背景には、確かな理由が主に二つ、存在していた。

 まず第一に、学園規模の壮大さである。

 荘厳(そうごん)形容(けいよう)したところで、なんら矛盾(むじゅん)(はら)まぬまでに巨大(きょだい)。かつ豪華(ごうか)中世(ちゅうせい)ヨーロッパの城郭(じょうかく)髣髴(ほうふつ)とさせるバロック建築(けんちく)校舎(こうしゃ)は、一目には、いや、見慣れたところで、とても高等学校のものには見えなかった。

 と言いたいところではあるのだけれど、さすがにヨーロッパの絢爛なバロック建築というのは少しばかりオーバーで、建築様式自体はごく普通のもの。それでも、いわゆる一般的な高校よりは遥かに規模の大きな校舎である。外観も内装も設備も、城郭とまではいかないにせよ、高等学校としては十分すぎるほど、豪華にして広大にしてハイテクだった。

 次に、アホかというくらいに安い授業料。下手をすれば、標準的な公立高校の授業料よりも遥かに安い。その上、充実した奨学金制度をも用意しているという周到さ。学生支援もここまできてしまうともはや嫌味の領域である。

 こうも魅力的な要素を備えた学校に、人気が集中しない道理などはなかった。当然、毎年例外なく入学志願者が殺到し、倍率も偏差値もそれに伴って引き上げられた。高校受験時の僕の学力如きでは、仮に正面から堂々と、正攻法で挑んだとすれば、入学などは到底敵わなかっただろう。

 ここで、なぜ僕如きがこの学園に入学することができたのかという疑問が浮かぶのはあまりに必然であり、僕にはその疑問に対する答えを明らかにするという義務が歴然として付帯するわけだが、その解はあまりに単純にして難解、理解不能である。

 まず、入学試験がマークシートであったということ。そして、異様なまでに、本当に異常すぎるほどに“勘の冴え渡っていた”あの時の僕は、このテストでほぼ満点を取ってしまったということ。この二つに尽きる。本当に単純で、かつ理解不能だ。合格発表時に一番驚いたのは、間違いなく疑いもなく、他ならぬこの僕自身だろう。

 かくして僕は平穏な学生生活を営み(勉強に関してはまったく平穏ではなかったが)、現在はこの学園の二年四組に籍を置いている。置かせていただいている。

「げ、今日の三限って体育だっけ?まいったな。ズボン忘れた」

「じゃあ私の貸してあげようか?ブルマでいいなら」

「いいと言うとでも!?」

「うん。だって今チラっと思ってたもん」

「……オフにしときなさい」

 などとくだらないやり取り――習得単位数ギリギリの僕にとっては、存外くだらなくもなく、むしろ重要ですらある――を交わしながら、僕たちは教室へと続く廊下を歩く。下駄箱から教室までの距離も、少なくとも近くはないので、正直歩くのは面倒この上ない。

 そもそも。

 校舎が広大であるというこの学園の長所は、僕にとっては長所になり得ないものなのかもしれなかった。初めは誰しも、巨大で厳かな校舎に憧れるものである。入学して、しばらく経過してから気づくのだ。巨大さ故の欠点に。億劫さに。不都合さに。面倒さに。遅刻数分前(0≦x≦2)に登校してきた場合、まず間に合わない。荷物をすべて放棄し、かつ全速力で疾走したと仮定しても、チャイムが鳴り終える前に教室までたどり着ける可能性は限りなく0に近い。むしろ等しい。そんな経験を既に52回ほど味わっている僕だからこそ、断言に近いかたちで言えるのである。

「なに威張ってんだか……」

「く……」

 ちなみに心奈は、憎たらしくも見事に遅刻0回という記録を守り続けている。だが僕は褒めてやるということなど絶対にしないだろう。なぜならこの女、僕が間に合いそうになくても(二人分の朝食やら洗濯やらをこなしていたという理由であったとしても)、容赦なく先に登校してしまうからだ。一分たりとも待ってくれたことはない。心奈の分の弁当を作っていたのにも関わらず置いていかれたときは、さすがに死にたくなった。

「何よりも生に執着しているあっくんが、何を言ってるんだか」

「ほっとけ。……ってお前また人の心を読みやがって」

「あ、いつのまに! うむ〜。よし、オフにしたよ。これであっくんがどんなスケベなことを考えているかわかりません。正直怖いです」

「僕はそんなに変態に見えるかな!?」

「だってあのパソコンの中身は〜」

「僕は変態でした!」

 実に卑劣なやつである。心奈は。

 実に臆病なやつである。僕は。

 だが、それが心奈でそれが僕で、それが僕でそれが心奈で。

 それ以外の、なにものでもなかった。

 そして、そんな互いの関係を、

 心地よいと思ってしまっている僕がいた。

 他方で、憎悪している僕がいた。

 またまた他方では、崩れぬよう、ひと時も目を離せぬ僕がいた。

 僕しかいなかった。





 2


 鋭い針で力を込めて皮膚を突き刺せば、当然血が出る。

 強靭なナイフで全力をもって動脈を裂けば、必然鮮血が噴き出す。

 重厚な金属バットで完膚なきまでに頭部に撲撃を加えれば、断然頭蓋骨は粉砕する。

 では、針よりも鋭く、ナイフよりも凶暴で、バットよりも重い“言撃”を、すべてをかけて相手のココロにぶつけたら。

 心は出血するだろうか。

 鮮血を噴き出すだろうか。

 砕け散るだろうか。

 ココロとは曖昧なものだ。身体のように確固として存在しているわけでもなければ、しかし決して存在しないと断言できるものでもない。その概念、存在価値は各人によって多種多様、相対的であると同時に無限の捉え方が存在している。

 そうでなければ、個々の性格というものはすべて、例外なく同一となってしまうからだ。人類補完なんたら計画が成立でもしない限りは、ココロが万人にとって共通の代物であるなどという状態にはなり得ない。なってはならない。

 だから、究極的には受ける傷も当然、必然、断然、非常に曖昧で、相対的なものとなる。各人それぞれダメージの大きさは異なっていく。ときにはチェーンソーで両断された傷をも上回り、ときには虫に刺されたような、傷にも満たない微小なダメージを残す。

 少なくとも彼女が受けた心の傷は、針で突き刺されたときのそれを、ナイフで引き裂かれたときのそれを、バットで殴られたときのそれを、チェーンソーで引き裂かれたときのそれを、絶対的に、究極的に、天文学的に上回っていた。

 それほどに大きな傷と比較してしまえば、今まさに僕が味わっている心的衝撃など、まったくもって取るに足らない程度の矮小なものなのだろう。

「ドMで変態で、どうしようもないくらいにくだらない存在で、その上特に言及すべき長所もないどころか、短所の塊と言っても過言ではない、むしろ足りないほどに論外な人間……まぁ人間の、白河純史くん。お早う」

 こんな失礼な朝の挨拶をかましてくるような狂乱的ドS女によって僕の名前が初めて文面に登場してしまったという心的衝撃など、取るに足らない程度の矮小なものなのだろう。

 矮小なものなのだろう。

「あぁ、おはよう。今日も朝から毒舌をどうも、花蓮」

「眠気覚ましにはちょうどいいでしょ?」

「おかげで眠気どころかやる気も士気も勇気もなくなったよ」

「もともとそんなものないでしょ。あなたにあるのは、そうねぇ。……………………………………………………」

「三点リーダ二十個分って、現実時間に換算するといったいどれくらいなんだろうな……」

 華やかな名前とはまるで対照的な毒舌を浴びせつつ、天城花蓮はその極端なまでに均整の取れた顔に、にこやかな笑みを浮かべた。

 いったいどこをどう間違えて育てば、こうも残酷にして加虐的な人格が形成されるのだろうか。いまだかつて、僕は呼吸をするよりも遥かに自然に、それがごく当たり前のように他人を中傷する人間を見たことがない。言ってしまえば天然悪。しかし、こんなにも残酷な毒舌を毎朝毎昼毎晩浴びせられても尚、彼女をまったく嫌いになれないというのだから、案外僕は純粋なマゾヒストなのかもしれない。

「およ、花蓮ちゃん、おっはよ〜」

「あら、お早う心奈ちゃん。今日もすっごくかわいいわね」

 にこやかに挨拶を交わす美少女二人組。その純粋な笑顔の百億分の一くらいはわけてくれてもよさそうな気がするのだが。

「なんで僕だけいつも扱いがひどいのかな?」

「えーとうーん説明するのがまばたきの百億倍ほど面倒なのだけれどあーめんどくさいなまったく」

「せめて文章間に句読点くらいはつけようよ!」

 諦めて、自分の席に向かう僕。これは敵前逃亡ではない。無駄な争いを避けるための、いわば戦略的撤退だ。人間、流されるままに、受動的に存在している限り、そこには必然的に争いが生じる。戦いを避けることは、平和主義とは、むしろ積極的行動の成果であり、誇るべきことなのである。だから僕は臆病者などでは決してないし、まして敗北者などでは断じてない。などと言い訳を考えている時点で、僕は臆病者の敗北者に違いなかった。

「元気出してください、白河さん。あれ、花蓮ちゃんの愛情表現なんですよ。今流行の“つんでれ”ってやつじゃないですか」

 この少女にこそ花蓮――可憐という名が似合いそうなものを、どうしてあの凶暴にして残虐にして暴君の名をほしいままにしている花蓮が花蓮なのだろうか。花蓮が聞いたら、きっと精神崩壊を起こしかねないまでの暴言を返してくるに違いないような隠匿指定A級の危険思考を巡らせつつ、僕は声の主――二重羽音ふたえはねに言葉を返す。

「それは違うよ、羽音ちゃん。ツンデレっていうのはね、“デレ”の部分を見せなければ、それまでの“ツン”が効果を発揮することはないんだ。まぁ、逆に“ツン”がなくてもだめなんだけれどね。“デレ”のない“ツン”など、ただの嫌悪表現に過ぎないんじゃないかな。何より萌えることがない。ツンデレは萌えなければ意味がないんだ。萌えることが必要不可欠な要素なんだよ。僕はそれをツンデレとは呼ばないよ。いや、呼べないね。ううん、呼んではならない」

「ふうん、奥が深いのですねぇ……」

 いわゆる“そっち系”と呼ばれるような特殊な趣味も持たない人間(女性に限定される場合が多い)が聞けば新幹線と同等の速度で四十歩ほど引いてしまいそうな発言を真剣に受け止め、その上納得したような態度を示す羽音ちゃん。この優しさこそが彼女を彼女足らしめるゆえんなのかもしれなかった。

 しかし、それにしたって世の中には本当に様々な人間がいる。無論、人にはココロというものが曖昧ではあるにせよ存在しているわけで、内面が人それぞれであるのはまったく頷くべき、というより頷くしかないことであるのは明白なのだが、しかし僕の周囲の人間は(いささ)か個性が強すぎるのではないかと思うことが多々ある。外見も含めてだが、そこかしこ見渡せば一人や二人はいるだろうというようないわゆる地味な人間が、僕と交友関係を結んでいるという範囲に限定すれば、いないに等しいのだった。至って普通の外見と人格を兼ね備えているという微塵の自慢にもならない自負を抱いている僕にしてみれば、あまりに濃厚な人間たちとの交流の中で、もともとないに限りなく近い僕の存在感が完全に消滅してしまうのではないかというあながち冗談ではないような事態の発生を必然的に危惧してしまうのである。

自殺志願。自傷癖。多重人格。天才。超絶的変態。登場人物の個性を強調した漫画でも見ているのだろうか、僕は。

 僕は。

 こんなにも平凡な人間だというのに。

 生きることに執着した、ただの凡俗な人間に過ぎないというのに。

 だってそうじゃないか。

 生きたいなんて、誰にだって共通の欲望だろう。いや、欲望と呼んでしまうのもおこがましいほどに、それはあまりに“普通”の欲求。極限状態にでも陥らない限りは、意識することすらない“当たり前”の無意識ですらある。そう思っていた。死にたいと口にする人間はいるけれど、そういう人たちだって、心のどこかで“生きたい”と思っているに違いないと。

 だけど彼女は、僕の欲望を“異常”だと言った。

 醜悪なものを見るような目で、嫌悪を痛いくらいに表現したような動作で、長年蓄積された憎悪を凝縮したような声で。

 “異常”だと、僕に言った。

「あの……大丈夫ですか? 顔色があまり優れないようですけれど」

 羽音ちゃんの声で、僕ははっと我に帰った。

 いけないいけない。考え事をしていると、ついつい深いところまで思考が潜っていってしまう。極端にネガティブな僕の悪い癖だった。

 考えてみれば、ネガティブでマゾヒストの僕が平凡な人間だというのもおかしな話なのかも知れない。

「大丈夫だよ、街並みは条坊制に基づき区画整理され、都の東西に官営のいちを設置、そして中心には幅七十五mの朱雀大路が、さらにその奥には、天皇の住居や政治の中心である平城宮を置いていたといわれる平城京に、ちょっと住んでみたいなぁって思ってただけだから」

「そうですか。ならいいのですけれど……あの、私なんかでよければ、いつでも相談に乗りますから。お一人で思いつめないでください」

「……ありがとう、羽音ちゃん」

 優しい言葉が、傷ついた僕のココロに染み渡る。が、ツッコミがないというのは些か寂しいものがあった。どうやら羽音ちゃんとそういったやりとりを期待するのは諦めたほうがいいらしい。

 ホームルームの開始を告げるチャイムが響く。遅刻しまいと必死で教室に向かっている生徒は、この地獄の底から湧き上がるかのような音を聞いて、その歩みを止めるのである。落胆と悲痛が交じり合ったような表情を浮かべながら。まぁ、僕のことだけれど。

 チャイムの音に次いで、教室に金髪のロングヘアを揺らせた“少女”が入ってくる。150センチにも遠く満たない身長を胸を張って精一杯伸ばしてみせ、堂々とした態度で、少女は教壇の上に上がった。

「ほいほ〜い、それじゃ、ホームルームをはじめちゃうよん。日直さ〜ん、号令おねがーい」

 我らがクラス――二年四組が正担任、美好ぼたん。御年おんとし、十五歳である。


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