僕の辛い日々はここから始まるんだ。どれだけ辛いかって?お母さんと買い物をしてる途中に同級生に見つかった時くらい辛いね。
「さあ、最後は貴方だけですよ剣城さん!行ってください!」
「わかった、行く行く」
僕は一歩進んで扉に顔を突っ込んだ。ぷるんとしたゼリーに似た感触がして、凄く息苦しい。僕は扉にかけた手で突っ張って顔を引き抜いた。
「無理ですね」
「なんでなんですか!」
「僕はカナヅチなんです。水に顔を付けるのが嫌で嫌で。呼吸がしにくい場所には1秒たりと居たくないですね」
「皆旅立ったんですよ。その心に勇気と希望を持って踏み出したんですよ!なのに貴方は扉の感触が嫌だからと旅立たないのですか!?」
「そんな事言われても、勇気が出てから踏み出せと言ったのは女神様ですし…」
「キィー」
さっきから女神はずっとこの調子だ。旅に出ろ旅に出ろとうるさい。僕はここから出たくないんだ。女神の力なのか、ここに居ると腹が減らない。眠くもならない。つまりここに居座るのが僕にとっての最適解だ。
女神はさっきから頭を掻き毟ったり地団駄を踏んだりしているが、そもそも僕をこの世界に呼び出したのは女神の都合である。僕が意に沿わないことをしたからと言って高圧的に言われる筋合いはない。思春期真っ盛りの頑固さを舐めないでもらいたい。
女神はしばらくフーフーと荒い息遣いをしていたが、一つ深呼吸をしてニコリと笑顔を作った。
「つまり貴方は私とずっとここに居たいという事ですか?」
なるほど女神も戦法を変えてきた。これは思春期の羞恥心をくすぐるうまい言葉だ。今すぐ扉に飛び込んでその言葉を否定したくなるが、しかし僕だってなまなかな思春期を過ごしている訳ではない。
「ええ、女神様は美人ですし楽しい方デスカラ」
そう言って僕が笑みを返すと女神はため息をついた。流石に本気にはしないようだ。
女神は手を広げた。
「周りを見てください。この空間には何もありませんよ?女神たる私に退屈という概念はありませんが、貴方にとっては違うのでは?」
「別にいいですよ」
僕はスマホを弄ってメールアプリを開いた。山田にメールしてやろ。
「女神怒ってる。クソワロ、と……おぉっ!?」
送信ボタンを押そうとした瞬間、顔面に柔らかい衝撃が走った。
それが女神の足による一蹴だと気付いたのは、ゼリーのような空間に沈んでしばらくしてからだった。
自分がゆっくりと沈んでいくのが分かる。息ができない。口からクラゲのような気泡が溢れ出て、上空に上がっていく。四角に縁取られた光がどんどん小さくなっていく。待ってくれ。僕はまだ、異世界に旅立つ勇気が……。
足の方が、湿った空気に触れた。そして、僕は、弾き出されるように墜落した。
「ぐえーっ」
衝撃で肺から空気が押し出された。僕はしばらくもがいて、四つん這いになって呼吸をした。草と土の匂いがする冷たい空気だ。
とうとう異世界に来てしまった。まだ心の準備が出来ていないのに。
辺りは薄暗く、虫のような声がする。月明かりで照らされた森の真ん中で、僕は背中を酷く痛めている。
「いてぇーよっ!アホアホアホアホ」
苦しみながら空を切り取るように浮かぶ扉に向かって言った。すると扉から手がニュルリと出てきて中指が突き立てられた。
「キェー!!」
思わず叫んでしまった。あまりの怒りに背中の痛みも忘れ飛び上がって女神の手に掴みかかろうしたが届かない。そうこうしているうちに扉はスーッと薄くなっていく。
「くそう……」
快適で外敵が一人しかいない、安全な世界につながる道が消えていく。光る粒子が大気に散って、やがて……。
……また濃くなって、再び女神の手が出てきた。今度は両手で中指を突き立てリズムよく上下させている。
「ウキキー」
僕は勇ましく叫んでジャンプを繰り返した。こんなにも腹が立ったのは産まれて初めてかもしれない。石を投げたり草を投げたりしたが石は届かず、草はすぐに散って口の中に入ってきた。
そしてとうとう扉は消えた。女神は最後まで下品なジェスチャーをやめなかった。
最悪な気分だ。怒りが過ぎ去ると、再び背中の痛みと不安がやってきた。そもそも、ここはどこなんだ。この場所は月明かりに照らされ明るいが、周囲は木々が茂っており非常に見通しが悪い。誰かに電話して合流出来ないか試してみようか。
スマホを弄り、連絡帳を起動した、その時。
ウオオオォォォォオオオン……。
全身の毛が逆立った。今のは獣の声だ。
危険があるだろうという意識はしていた。だが、実感はしていなかった。
息を潜め、周囲の様子を伺った。ゆっくりとスマホを弄り、光る画面を手で隠しながら、懐中電灯と書かれたアプリに親指を合わせた。もし獣が来ても光を不意打ちで食らわせられれば、なんとか助かるかもしれない。こんなものしか武器にならないのか。ふと異能の事が頭によぎる。否定?出来る訳ないだろ。
森の中でガサガサと音がして反射的に身体を庇った。怖い。歯の根が合わず、ガチガチと鳴る。
音は次第に大きくなる。何かが、来る。手が震えて懐中電灯のアプリに何度も親指が触れてストロボのように光る。目の前の茂みが揺れて、そして……。
弓をつがえたフードの人物が、出てきた。全身を毛皮で囲みフードの中は深い闇に染まっている。恐怖が途端に安堵に変わり、再び恐怖に切り返した。フードの人物は僕に向けて弓をキリキリと引き絞っている。
「はっ……や、やめてください。アイムヒューマン!アイムヒューマン!アイ」
頬を空気が撫でて耳元に鋭い音を残した。
「ギェェェェ!!!」
叫んだのは僕ではない。背後で何かがどう、と倒れる音がした。
振り返ると小型の熊のような動物が眉間から矢を生やして倒れていた。
僕は熊に狙われていたんだ。腰が抜け、尻餅をついた。
「ひっ、ひぇ……」
手がヌルッとしたので見てみると熊から流れ出た血がベットリと付いていた。
「ヒェーッ」
「シーっ、静かに」
女性の声がした。フードの人物が僕の頬を片手で挟んでもう片方の手でフードを外した。
漆黒の中から、青い髪の少女が現れた。
「大丈夫よ。今の時期のペイルベアーは巣立ちたてだから、単独行動をするの。でも、血を流してしまったからすぐに他の動物が来る。急いでここを離れないと。わかった?」
「ははりはひた」
少女は僕の頬から手を離すと、またフードを被った。
「あ、ありがとうございます。助けて頂いて……」
少女は辺りを窺いながら、熊に近寄り、首にナイフを入れた。蛇口を捻ったように血が吹き出す。吐き気がするぞ。
「貴方、名前は?」
「い、逸刀です。剣城逸刀」
「私はレジーナ。イットー、この辺りに猿がいなかった?なんだか品のない声で叫んでいるのが聞こえたのだけれど」
「し、知らないです」
「そう……恥も外聞もないような声で叫ぶ猿の声がしたから狩ろうと思ったのだけれど、逃げられたみたいね」
レジーナと名乗った少女は自分の首に熊の手を回して持ち上げた。
「イットー、来なさい。ここから少し離れた所に私の小屋があるの。そこで変な格好の貴方がどうして武器も持たずにこんな森の中に居るのか聞いてみたいわ」
漆黒に彩られたフード越しにも彼女が不審に思っている事がわかる。
熊一頭を抱えて彼女はずんずんと森の中へと進んでいく。僕は、のこのこと彼女の後を追って歩くしかなかった。