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「猫が分身した」
あれから王宮へと帰還し、アリスの話を聞くために彼女に宛てがわれていた個室へと戻ってきていた。
アリスの後ろについてきていた白と黒の猫たちを見ると、アーネストは目を丸くした。
もちろん分身した訳ではないのだが、彼はしゃがみ込むと猫たちと目を合わせる。
「いきなりアリスを転送させるのは、よしなさい。心配するから」
「にゃう」
「にゃ」
絨毯の上で2匹ともお利口にお座りしている。
2匹揃って可愛らしく返事をしているのは微笑ましいが、確かに精霊王の化身である彼らは未知数である。
「調停者が私を連れて行ったということは、安全は保証されていたのではないですか?」
「……そうかもしれないけど、やっぱり不安だ」
立ち上がったアーネストは、やれやれと言わんばかりにかぶりを振った。
ふと彼の横顔を見つめる。
アリスを心配する憂い顔を横から眺めていれば、ふと彼がこちらを向き直り、ばちっと目が合わさった。
さりげなく逸らしたアリスだったが、アーネストは息だけで笑った。
「どうしたの?」
「……いえ、何でもありません……」
「……? そう?」
今更ながらに意識してしまうのは、彼がアリスに向ける優しくて甘い声。
彼がどうやら一途らしいということを理解してしまってからは、1つ1つの仕草や声音の全てに胸を高鳴らせてしまう。
好かれているのは知ってはいたけれど、自分が思っていたよりも深く溺愛されていたことに、擽ったさを感じたし、今回アリスは酷く驚いていた。
──恋なんて一過性に過ぎないと、ほとんど諦めていたけれど……。
好き、なんて感情は甘やかなだけでないし、冷めてしまうことだって、ないとは言えない。
1度、恋心なんていらないと思ってしまい、自らの想いを偽った経験のある自分。
元々は、想うことへの絶望と、これから訪れるかもしれない別れ、そして自らが醜く変わってしまうことへの恐怖が原因だった。
それに、もうあんな思いも懲り懲りだった。
──もし、純粋に殿下に好きと言えたなら。
告げることを止めた想い。そんな空想などする必要も感じないというのに、たまに考える。
──殿下は私のことをそこまで思っていたの?
きっとそれを問い掛けるのは、無理だろうけれど、今のアリスは少し熱に浮かされている。
──淑女が男性に触れたい……なんて。それは……恥ずべきこと……よね?
今求められたとしたら身を預けてしまいそうで怖かった。きっとアリスの中の何かが決壊してしまったのだ。何が蓄積されてそうなったのかなんて、たぶん考えてはいけない。
ようするに全部、アーネストのせいだと思う。
婚約者なのだし、触れ合うくらいは許容範囲なのだろうか?
今更、そんな素直に行動出来るかも疑問だけれど。
「ぼーっとしてるけど、色々あって疲れちゃった?」
今、アリスが何を考え悶々としているかなんて、アーネストは知らない。
顔色を窺う前にベッドに腰掛けて俯いていれば、すぐ隣に腰掛けてくるアーネスト。
びくりと身を固めつつも、どうしても気になってチラリと横を見る。
彼はこちらを見ている訳ではなく、じゃれ合っている猫たちを眺めている。
それにしても精霊王の化身という割には、完全に獣っぽい仕草をしていて微笑ましい。
アリスはさり気なく、身動ぎするフリをしつつアーネストの傍に少しだけ寄ってみた。左腕が僅かに当たるか当たらないかくらいの距離。
──駄目。気付かれてしまう。
そんなの分かっていたのに。その腕に触れたくて仕方ない。
手を伸ばしかけた瞬間、彼の目がこちらに向いて、ギクリと身を強ばらせる。
「やっぱり疲れてるみたいだね。いつもと様子が違う」
「……!」
アリスの異変を感じ取っているらしく、彼は目敏く指摘した。
「まあ、そうだよね。ルチアと真正面から話すのも疲れるだろうし、色々と明かされていった真実もある」
幸いにもそう勘違いしてくれて、肩を撫で下ろした。何事もなかったようにアリスも返答した。
「ええ。神殿の者とユリウス様たちの繋がりは見逃せない事実ですわね」
今回、アリスが見たのは、神殿の者と一部の騎士の関与だ。
ルチアを逃がす際に何かしら関わっていたのだろうか。
アーネストが思考の渦に飲まれているのをいいことに、ここでアリスは少しだけズルをした。
そっとアーネストに寄り添ってみたのだ。
疲れ切ったフリをして、彼に少しだけ寄りかかるというさり気ない方法で。
暖かな彼の温もりを肩越しに感じて、そっと目を閉じる。
触れたいのではなくて、疲れたから支えが欲しかっただけ。
自分の気持ちに蓋をしながら、彼女は婚約者の体に触れる。
さり気なさを装いながら、指先は彼の腕へ慎重に手を添えた。
しなだれ掛かる程ではないけれど、寄りかかる形になったアリスは、アーネストが一瞬息を飲んだ気配を感じ取った。
己の些細な行動が、彼の心を確かに動かしているという事実。それを今、目の当たりにした。
「殿下?」
あえて声をかけてみれば、苦笑した声が返ってくる。
「いや、なんでもないんだ」
年下のアリスに翻弄されているのは、やはり少しだけ可愛らしく見える。
アリスははっとして、いずまいを正した。
──今、とても失礼なことを……。
まるで弄ぶみたいな。
申し訳なくなって、そっと体を離そうとして。
「……あ」
小さな声が漏れてしまった。
体を離そうとしたのだが、こちらの動きが分かったらしく、アーネストはアリスの肩を軽く掴むと、自分の方へと少しだけ引き寄せた。
「殿下?」
「……あ、いや……つい」
どうやら無意識の行動らしく、気まずそうにしてはいたが、その手はアリスを離さない。
肩を掴む男性特有の節くれだった手の甲をチラリと見遣り、アリスは頬を染めた。
いつもならばここで「離してください!」と彼を拒否するところだけれど、今は恥ずかしいけれど、このまま触れられていたいと思った。
まるで指先の魔法のようだ。触れられているだけで熱いのだから。
拒否されないことに疑問を持ったのか、アーネストはアリスの顔をそっと覗いてきた。
「大丈夫?」
「……はい。問題はありません……ので」
明らかに問題ありそうなのに、どの口がそれを言うのかと自分自身で突っ込みを入れたくなった。
──今日の私はおかしいわ。
熱に浮かされている気がするくらいに。
「アリス?」
名前を呼ばれただけなのに、心臓が跳ねそうになるのも、やはり過剰反応すぎる。
戸惑ったからか、アリスはあえて話を変えた。何の気もなく、ただ話を変えたいばかりに。
「ルチア様を逃がしたのは、もしかしたらユリウス様たち騎士なのではないでしょうか?」
方法なんて思いつかないのに、焦ったアリスは頓珍漢なことを口にした。
──いくら何でも混乱しすぎだわ!私。
王族しか逃がすことが出来ない神秘の壁だというのに、どうやって抜け出せたのかとか、どんな秘術を使ったのかとか。突っ込みどころはたくさんあるはずなのに。普通に考えれば、ユリウスたちにルチアを逃がすことは出来ない。
変に思われる前に話題を転換しなければと思っていた折。
ふむ、とアーネストは何かを考え込んでいた。
──呆れられていないかしら?
アーネストの返答は思いも寄らぬものだった。
「どうやってルチアを逃がしたのか……よりも、何故ルチアを逃がしたのかという線で考えた方が良いかもね。この際、方法は置いておくとして、アリスはどう思う?ルチアを逃がしそうな人って思い当たる?」
「え? ええと……神殿の方やルチア様の騎士たちくらいしか思いつかないですが」
アーネストは「だよね」と軽やかに笑うと、内緒話をするようにアリスの耳元に唇を寄せた。
こんな時だというのに、彼の吐息に胸を高鳴らせる自分が居る。
──私って単純だわ。
少しだけ自分が嫌いになりそうだ。
自己嫌悪に苛まれるアリスを知ってか知らずか彼は一呼吸後に、静かに話し始めた。
アリスの耳元で声を潜めながら。
「神殿の奥深くにある秘宝。それは、全ての魔法を解いてしまうという祝福がかけられた、神殿の極秘事項らしい。禁書を漁っていてこれも見つけたんだ」
「それは……また。神殿側がルチア様に対してあまりにも無防備だったのは、この魔術具があったからタカをくくっていたのではないでしょうか」
「正直その線だと、僕も思っている。まさか聖女が真っ先にやることが洗脳なんて、誰も思わないだろうし」
おそらく神殿側の切り札だったのだろうが、実際のところは精神から汚染されてしまい、そういった魔術具を使う日なんて来なかった。
「でもそれは……」
「うん。彼らにも犯行が可能になるよね」
それはすなわち、王族以外にも容疑者が増えることを意味していた。




