80
「ああああああああああああぁぁぁ!!」
髪を振り乱し、狂ったように見えない壁を殴打するルチアをアリスは冷たい目で見ていた。
──もう可愛らしい聖女の面影など見えない……。
突きつけられた事実を受け入れることすらせず、ルチアは今もまだ叫んでいる。
もはや狂気の沙汰だった。
「私が聖女なのおおおおお!! 私以外に誰が居るっていうのおおおおお!!」
目から血でも流しているのではないかというくらい、凄惨な様だった。
「貴女はルチア。聖女ではなく、普通のルチアです」
少なくとも、聖女は人の命を軽々しく扱わない。
「違う違う違う違う違う違う違う違う違う!!」
ガンガンと頭を打ち付け、額には薄らと血が滲み出ているのを見て、アリスは息を飲んだ。
少しだけ冷静になれた気がした。
「壁を……解いてくれる?」
傍らに声をかけると、白猫は「本当に良いのか」と言わんばかりに首を傾げた後、しばらくして「にゃあ」と了承したように鳴いた。
ルチアがひたすら自分の頭で見えない壁を殴りつけていたが、それがぱっと消えたことにより、ルチアはそのまますっ転んだ。
と思いきや。
「貴女のせいでええええええええ!!」
足元に落ちていたフォークとナイフを掴むと、こちらに突進して来たのだ。
アリスは僅かに目を細めると、向かってきたルチアの凶器を持った手をすらりと避けると、すれ違いざまに、その両手首にそれぞれ一撃を加えた。
「あぁ!」
ナイフとフォークが地面に落ちたのを認めると、すぐにそれを拾って、ルチアの手が届かないくらい後方へと転がしておいた。
「ああああああああああぁぁぁ!!」
再び絶叫したルチアがアリスの頬を叩こうと手を振り上げた。
それを手で掴み、相手の力が入りにくいようにねじ曲げて、彼女の足元を引っ掛ける。
体勢を崩したルチアはその場に倒れ込んだ。
「あぅ!」
「ルチア様。手荒な真似をして申し訳ありませんが、どうか暴れないでください」
地面にねじ伏せ、拘束しながら静かに声をかけた。
──聖女であることの、何がそんなに魅力的だったの?
選ばれた存在であることの重みを感じて懊悩することはなかったのだろうか?
自らの力に怯えることも?
ぐっと彼女にのしかかり体重をかけながら拘束し、問うて見ようとした時だ。
何者かの気配を感じたアリスは先んじて声をかけた。
「ルチア様が壁に頭を叩きつけ始めましたので、このような形になっております。どなたか、私の代わりにこの方を押さえてくださいませんか?」
少なくとも味方ではないことは分かっていた。アリスにはルチアをどうにかするつもりなどないこと。すぐにそちらに引き渡す旨を伝えることで、彼女を捕縛するつもりではないことを言外に伝えた。
ルチアと対話し、多少は警戒心を解いてもらった状況に持ち込めれば穏便に済ませることも出来たはずだったが、そう上手く事は運ばない。
ルチアの発言に怒りを覚え、挑発してしまったのはアリスだ。
──迂闊だった。
こうして取り押さえる羽目になったのだから。
こうなった以上、相手に敵意を見せないようにすることで精一杯だ。
本当は糾弾しておきたいけれど、多勢に無勢。
穏便な話も無理そうだとなれば素直に引き下がり、次回は万全の状態で挑む他ない。
「おまかせを」
アリスの背後から聞いたことのある声がした。
暴れていたルチアをアリスの代わりに取り押さえると、さらに彼の後ろに居た人物に声をかけ、ルチアを両側から挟み、逃げられないように拘束した。口元は布で塞がれ縛られている。
──あら?
女性相手にしては、少々乱暴に取り押さえているような気がした。
恋焦がれている人で、今も尚惹かれている……のではなかったのか。
細かいことを気にしている場合ではない。声の主に向き直ると、彼はアリスに向かって微笑んでいた。
「アリス様、お久しぶりです」
「ええ。お久しぶりですわね、ユリウス様」
「面倒なことになってしまい、申し訳ございません。後は我々がどうにかしておきますので」
口元は笑っているが、これ以上は声をかけてくれるなという圧が凄まじく、アリスは内心冷や汗をかいた。
「ええ。ルチア様のお姿をお見かけして、つい追いかけてしまった私にも責任があります。飛び出して来てしまったので、私も帰りますわ」
これは素直に帰してもらえる流れではない気がしたが、とりあえず言ってみる。
素直に帰してもらえなければ、味方が来るまで時間稼ぎをするしかない。
覚悟を決めるアリスだったが、続いたのは予想外の言葉だった。
「はい。我々は失礼します」
「え」
ユリウスの後ろに続く者たちは、騎士や貴族だったり、その中には神官すらも混じっていた。
──そういえば……神官?何故、ユリウス様と一緒なの?
追求したいところだが、おそらくこのまま深入りしたら自分の身を危険に晒すことになる。
踏み出しかけた自らの足を止める。
悔しいながらもアリスは自らの立ち位置は理解していた。
自分は自分だけのものではない。
今回は調停者がアリスをこの場に連れて来たということで何かしら助けはあったが、本来アリスは身を守る術をほとんど持たない。護身術は習っていたが、それもまだまだ未熟だ。
思わずその場に崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。
──せめて、このことを殿下にお伝えしないと。
足が震えるのは今更だ。多勢に無勢の状況に置かれ、少なからず緊張はしていたらしい。
「アリス!」
立ち上がれなくなったアリスの名を呼ぶのは、聞き慣れた婚約者の声。
──心配、かけちゃったわ。
焦燥感が滲み出る声。駆け寄る気配。アリスが振り返る寸前に彼の腕の中に閉じ込められた。
後ろから回ってきた腕は少し力強い。
「良かった……! 急に居なくなったから……」
アーネストは事情を聞くまでもなく、ただそうしてアリスを抱き締め続ける。
髪同士が触れ合い、サラリと風に揺られた。
「殿下……」
申し訳ございません。ご迷惑をおかけしました。お伝えしたいことがあります。
頭に浮かんだ言の葉を口にすることも出来ず、沈黙するアリスの肩をぐっと掴むアーネストの手は少し震えていた。
──この方は、私を失うのをこんなにも恐れてくれているのかしら?
「調停者に連れられて行かれたなら、ある程度は大丈夫だとは思ったけど、やはり心配だった」
「随分と到着が早くてびっくりしました……」
「君が場所を伝えてくれたからすぐにここに来れたよ」
「……」
ふと、ルチアの言葉が脳裏に蘇る。
すぐ傍の温度に気配に、呼気にドキドキと胸を高鳴らせながら反芻した。
アリスだけを求めてくれていたという事実。
ルチアの洗脳下に置かれても、真の意味ではアリスの味方で居てくれようとした。
信じてもらえなかったことはとても悲しい記憶として刻み込まれては居るけれど。
──殿下は私を、随分と想ってくれていた。洗脳されても、おかしな魔法を使われても。
そして1番に駆けつけてくれた。
──どうしましょう。私、今とてもおかしい。
後ろを振り向くことは出来なかった。
顔が熱くて、見せられない顔をしているに違いないから。
──今、私は彼に触れたいと思っている。
肩を掴む手にそっと手を重ね合わせてしまってから、さらに望むのだ。
彼にも触れられたいと。
これは違う。今だけ。今だけの特別な感情なのだとアリスは己に言い聞かせた。




