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「ルチア様!? お止めください」
シュミーズ姿のまま、自らの身体をくねらせ、アーネストに擦り付ける女は、もう聖女ではなかった。
何より。
──やめて。彼に触らないで!
アリスの心の中に宿ったのは独占欲。自分以外の女性が彼に触れることへの嫌悪感。
──まるで嫉妬だわ。
……いや、まるでではなくて、嫉妬だった。
ルチアを引き離そうと、2人の間へ割り込もうとした時、アーネストが動いた。
ぱしっ、と軽く乾いた音が鳴ったと思ったら、彼は、自分に纏わりつく聖女をぞんざいに振り払ったのだ。
「勝手に触れないでくれないか?」
嫌悪感を滲ませた訳でも怒りの表情でもなく、アーネストはこれ以上ない程綺麗な完璧な笑みを浮かべていた。
彼は笑っていたというのに。
──なんだか怖い。
思わずぶるりと背筋が震えたことに、彼は気付いただろうか?
ルチアは呆気に取られた後、少しづつ顔が真っ赤になっていった。
「私のことを振り払うなんて……」
わなわなと震えている彼女の沸点は非常に低い。
「酷い……。私はただ……」
目を潤ませ、辺りを見渡す。自分の味方を探し求めていたのだろう。縋るような目付きを貴族や使用人に向けたが、彼女に向けられる周りの視線は冷たいものだった。
婚約者のいる男性に、下着姿で擦り寄るなんて下品な女だと、貴族の目が言っている。
当たり散らした後の猫撫で声がわざとらしいと使用人の目は語る。
何より我が物顔で城を闊歩し、好き勝手に騒ぎ立てる聖女へ皆、引いていた。
貴族や使用人の視線が好意的ではなく、それどころか呆れと嫌悪すら含むことに、ルチアはようやく気付き、目を瞬かせた。
何故、そのような目を向けるのか理解出来ないらしい。
その後に我に帰ったのか、眦を吊り上げる。
「私にそんな目を向けて良いと思ってるんですか? 私は聖女ですよ? とても失礼ではありませんか?こんな所業許されるはずがないです。私、アリス様に嫌がらせされようとしているのに」
──私がいつ嫌がらせをしたっていうの? 王宮を元に戻しただけなのに。
「私がせっかくこの王宮を素敵にしたのに。それなのにその努力をアリス様は全部ふいにしたんです。酷いです……」
「そんな……! ルチア様に嫌がらせをした訳ではありません! ルチア様は少々他の方とは違った趣味ですから……。私は……あの装飾が万人受けしないと思ったから元に戻そうとしただけで……」
何を言おうとしても角が立ちそうで、思わず口篭る。
「少々変わった趣味どころではないだろう……。どちらかと言えばあれは趣味が酷い──」
ルチアには聞こえないようだったが、アーネストは決定的な一言を放とうとしたので、アリスは咄嗟に目配せをする。
アーネストは素直に黙るが、その様子を見たルチアは激昂した。
「ほら! アリス様はそうやって殿下との仲を見せつけるんです。私が殿下のことをどう思ってるか知ってるくせに……。酷い……酷いわ!」
アリスは遠い目になった。
──彼女の怒りの琴線が分からないわ……。
そもそも2人は婚約者であり、仲を見せつけるも何もないのだが、その点をルチアは忘れているのだろうか。
呆れ顔の貴族や使用人は、アリスに同情の眼差しを向けている。こんな変な女に絡まれるなんてお可哀想に……とでも誰か言い出しそうだ。
「そもそも聖女の部屋に勝手に入るなんて大罪です! それに王宮から王太子を連れ出すという犯罪も彼女は犯しているんですよ? 許されることではないと思います」
いやいや、あの時はアーネスト殿下がアリス様を連れ出していただろう。
全員の気持ちが1つになった。
「罪を犯したのに、ここにのうのうと居座るなんて図々しいです」
ルチアは再びアリスに指を突き付けて、仁王立ちした。
この礼儀も何もなっていない仕草は、どうやら癖になっていて、生涯治らないのかもしれない。
「アリス様はたくさんの罪を犯しました」
特に何か罪を犯した覚えなどなかったが、ルチアは憂いを帯びた表情で語り始める。
「ですが、私が貴女を許します。アリス様。許しとは楽園の近道ですから!」
自分に酔ったように高らかに告げて、アリスへと自信満々の笑みを向ける彼女は、気取ったように「うふふ」と笑った。
どこから突っ込んで良いのか分からず、誰もが唖然としている中、先程からずっと黙っていたアーネストが口を開いた。
「言いたいのはそれだけかな?」
平坦な声が冷たく響く。綺麗な笑みを浮かべているが、それは口元だけで、アーネストの目は笑っていなかった。
軽蔑、諦念、嫌悪、怒り。
負の感情を無理矢理押し殺して失敗しているかのような。
「え?」
ルチアはアーネストの様子がおかしいことには気付いたらしく、戸惑いの声を漏らす。
「色々と言いたいことはあるが、1つ言わせてもらうけど、君は記憶障害なの? あの時、アリスを連れ出したのは僕だよ」
「え? でもアリス様がいなければ、殿下は王宮で……」
「寝言を言うのは勘弁してくれないかな?アリスを追い出したのは、君だろう? それも根拠のない預言をでっち上げて」
──ああ。殿下はとても怒っている。
静かに怒りを内包し、ちりちりと何かを焦がすようだった。
とにかく空気が重い。
「こ、根拠のない預言だなんて! それが嘘か本当かなんて私にしか分からないです! だって精霊と話せるのは私だけだもの!」
確かに、精霊と話せるのはルチアだけだ。それは間違っていないが、とりあえずルチアの言ったアリスが災厄そのもの発言は、嘘だとこちらはハッキリと分かっている。
──私は断罪者として選ばれたのですもの。もし私が災厄を呼ぶ存在だと預言されたとして。竜の片割れが、災厄を呼ぶと予言に出た者を選出するはずがないのよ。
ルチアは倒れる寸前の記憶を失っているのだろうか。
それともアリスの傍に居た黒猫が調停者だと知れないだけなのか。
──それは有り得るわね……。
アーネストはルチアの必死の抵抗を見れば見る程、嘆かわしいと言わんばかりに首を軽く振る。
「ルチア」
名前を呼ばれて、何を思ったのか、彼女はぱっと顔を輝かせる。
「君は聖女になって何を成し遂げた?」
「え? これから成し遂げるんです!」
「……今の段階では、君はただあらゆる贅沢を貪っただけだ」
ルチアは何を言われているか分からないのか首を傾げる。何故、贅沢をしてはいけないのか、聖女なのだから特別扱いは然るべきなのではないかと言いたげに。
「君は今まで周りを振り回しただけで、何もしていない」
「た、炊き出しに行きました!」
アーネストは、そんなことかと言いたげにふっと笑う。
「国庫を使い潰して……だろう? あんな無計画な炊き出しなんて非生産的で、何も産まないことくらい分からないのか?」
アーネストの口調は言葉を重ねる度に、きつくなっていく。
「市井の者に寄り添うこともなく、財を貪り消費していったことも自覚ないのか?」
「貴族の人たちは皆、贅沢をしています! 装飾品だってあんなにたくさん! どんなに良い貴族だってあんなにお金を使っているんだから、私だって!」
近くにいる貴族をまた指差した。
「上に立つものがそれなりの格好をするのには理由があるし、立派な貴族は正しいお金の使い方を心得ているものなんだよ。そんな彼らがただ贅沢をしているように見えるなら、君はまだ何も知らないんだろうね。貴族社会についても」
「何が違うんですか? 何も変わらないじゃないですか! アリス様だって宝石を持っているじゃないですか。私だって、聖女なんだから貴族と同じくらい偉──」
「貴族と同じぐらい偉い? ならば、貴族の義務すら果たさない者が、僕に意見するな」
ルチアは貴族がただ恵まれているものだと思い込んでいる。
義務を果たさずに、その富や財をただ享受出来ると本気で思っているのか。貴族として振る舞えるのは、義務を果たす何者かが存在するからこそ。
まあ、悲しいことに貴族にもそれを自覚していない者は一定数はいるのだが。
だが、とりあえずルチアは、貴族に何故、発言力があるのかその意味すら考えたこともないのかもしれない。
貴族たちが何に雁字搦めになっているのかも知らない。
──悪徳貴族たちは何故、落ちぶれるのか。それは、彼らが貴族として義務を果たしていないと判断されたからなのに。
自らの欲求に忠実になり、零落した貴族たちの成れの果て。
もちろん全ての貴族の毒を暴けている訳ではないだろうけれど。
「人の心を弄んだ君は、直接見ないと分からないようだね?」
アーネストの声はまるで深淵のように昏い色を帯びていた。
自分に言われた訳ではないのに、ぞくりと皮膚が粟立った気がした。




