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「失礼します、御二方。良いところで邪魔するのは不躾だとは存じますが、このまま外で立っているのはキツイ物がありまして。ああ……足場がグラグラ揺れる……」
「どういう構造にしたんですか」
どこから繋がっているのか分からない、空間があべこべの家だと分かっていたが、よもやグラグラの足場と部屋の入口が繋がっているとか、どういう了見なのか。設計者は何を考えているのか。本人を前にして思ってしまう。
──先程、私が入ってきた場所は普通でしたわね。何故なの……。
「入りますよ。入りますね」
その言葉にアリスを閉じ込めていたアーネストは体を離した。
あからさまにホッとした様子のアリスを見て、少し面白くなさそうな顔をしたのは気のせいであって欲しい。
今、アーネストにその件を蒸し返されたら、余計なことしか言わない気がするのだ。
──ただでさえ、余計なことばかり言っているのに。
嘆息していたアリスの目の前には突然、マティアスがすうっと現れた。
「いつか出かけると思って、身を隠せそうなものを用意しておきましたよ」
「マティアス……その顔は……」
明らかに猫に引っ掻かれたような傷跡に、何をやらかしたのだろうと疑問に思う。
「何もないですよ、何も」
明らかに何かあったに違いない。
マティアスが差し出していた旅人風のマントを手に取ったアーネストの反応は薄い。
恐らく彼にとって、マティアスの顔の傷のことはどうでも良いことなのだろう。
「ああ、こういうのを求めていたんだ。ありがとう」
手に取っては珍しそうに検分するアーネストはスルーを決め込んでいる。
「何度も申し上げていることなのだけれども、お2人は一刻も早く外の様子を見に行った方が良さそうです」
「何故ですか?」
純粋なる疑問。見たら早いとしかマティアスは言ってくれないのだ。
「その場の雰囲気というものは、伝聞では伝えきれないものです。直接見ることによって空気感を理解できますからねぇ」
納得したようなしないような?
アーネストは素直に頷いた。
「そうだね。見た方が早いだろうし。アリス、僕と久しぶりにデートしてくれない?」
「まあ。こんな時にデートだなんて浮ついている場合ではありませんわ。目的は偵察です」
「それは忘れていないけど。アリスと出かけること自体久しぶりだから、少しはしゃいでしまうかもしれないな」
マティアスは2人の様子を面白そうに眺めていたが、やがて話を纏めた。
「では、殿下の体の調子が良くなり次第、お2人で出かけてくるということで」
「僕の体はもう大丈夫。だからアリスが平気なら今からでも」
気になって仕方ないといったアリスの様子に何気に気付いていたらしい。
けれど。
「却下です」
アリスは断固拒否の姿勢だった。
今から出かけるなんてとんでもない。
倒れたばかりのアーネストを連れて外に出るなんてそんなこと出来る訳がなかった。
──殿下は自分のことを大切になさらないわ!
アリスにとって憤慨ものだった。
普段から自らの体調を気遣って欲しいと切に願っていたから尚更。マティアスだけでなく、エリオットにも。
マティアスを目の前にして、行くか行かないかの言い合いが始まり、結局のところ間を取る事にして、今日の夜に向かうという形で決着した。
だが、どっちにしろ夜に出かけるということには変わらなかったかもしれない。
2人が迷路のようなマティアスの家から出て、先程入ってきた木の道から伝って外に出た時には既に夜も更けている時刻だったからだ。
「さて、どうなっているのか」
「私たちのことはどのくらい話に出ているのかしら」
「アリス、手を」
「…………」
差し出された手を素直に取ればホッとしたような表情。
その安堵した彼の顔に、心臓はさらに高鳴る。
──殿下は……私のことが好きなのね。
何度も言われていたことだったけれど、何気ない反応からも、それが伝わってきて胸の奥が甘く疼く。
下を向きつつ、顔を赤らめていれば、アーネストは息だけで笑う。
ぎゅぅと目を閉じた瞬間だった。
「聖女があそこまで影響力を持つなんて、この国は終わりかしらね」
「あの聖女は政治というものを分かっていないんだよ」
風に乗って聞こえてくる話し声は、ルチアを批判するものだった。
思わずばっと顔を上げれば、アーネストも息を詰めていた。
「ゆっくり近付こう」
商店街の靴屋の前──外に置かれたたくさんの靴を前に、客同士が語らっている。
「炊き出しもアピールにはなるかもしれんが、結局一時しのぎだったしな」
「あの聖女、綺麗なドレスを着ていたわよね。貴族の知り合いに買ってもらったのかもしれないけど、それって庶民の税から出てるのよね。そう考えるとなんだか気に触るわね」
貴族たちによって甘やかされ、贅沢三昧らしいという噂が流れているらしい。その女性と男性がひとしきり聖女に文句を言い合った後、ふと男性の方が思い出したようにぽつりと呟いた。
「俺の娘の友人が王宮から追い出されたらしいぞ。その聖女に」
「追い出されたなんて、穏やかじゃないわね。どうせ些細な失敗で言いがかりを付けられたんでしょう? 可哀想に。聖女と言っても偉そうな貴族と変わりないじゃない」
「そこまで顔を合わせていた訳ではないらしいが、気に食わないとかでな」
あまり顔を合わせていない。そして、恐らくその侍女はもともとルチアに好印象を持っていなかったのだろう。
つまり洗脳されていないということ。
洗脳されなかった彼女をルチアは邪魔だというそれだけで追い出したことが分かる。
「噂だとそこまで性格が良い訳でもないらしいぞ。子どもを突き飛ばしたのを見た奴がいるんだ」
「どこからどこまで本当なのか分からないけど、それが本当なら貴族たちはそんな女を崇拝してるのね」
「良いところなんかあるのかね。助けてくれるっていうなら金をくれ、金を」
「あんた罰が当たるわよ」
男性は肩を竦めた。
「無尽蔵に金を出す奇跡でもあるんなら信仰するが、所詮は綺麗事だろ?」
身も蓋もない男性の意見に閉口するアリスだったが、それは嘘偽りのない市井の民たちの思いなのかもしれない。
──信仰で人は救われるかもしれないけど、必ずしも救われる訳ではないのね。当たり前のことだけど、耳触りの良い言葉だけではお腹は膨れないのだ。
この国では、祈りを捧げている民の言葉に精霊が応えてくれるという信仰があるが、それがどんな形の救いなのか誰にも分からない。
それこそ、聖女にしか分からないのだ。
劇的な奇跡かもしれないし、はたまた──ささやかすぎる奇跡かもしれない。
「結局のところ、奇跡なんて自分たちの想いによって変わるのよ」
アリスは思わず独り言を口にする。
精霊の祝福に気付くのか、気付かないのか、それは自分たちの捉え方次第だ。
ささやかなものですら感謝出来る者もいれば、奇跡らしい奇跡にすら感謝出来ない者もいる。
「アリスは信心深いね」
「何を仰っているの?今の発言は、奇跡の存在を信じないと言っているも同然ですのよ」
「いや、アリスはね、信仰の本質を突いている気がする。なんて説明したら良いか分からないけど」
「少し私には難解ですわ」
靴屋から少し離れたその場所でアリスとアーネストは間近で見つめ合いながら語り合う。
「もしかしたら、聖女はいらないのかもしれないよ?」
まさか、民の間でこんな事態になっているとは思っていなかった。
こんな……聖女の存在意義を揺るがすようなことになっているとは。
マティアスの言っていた「外を見てこい」という発言は、このことを意味していたのだ。




