5.5 sideアーネスト
いつも読んでくださってありがとうございます。
今回は、ルチアが突撃してから、アーネストsideです。
アリスとの甘い時間の中、アーネストを唐突に呼び出したルチアは、目の前でふわふわと笑っている。
テーブルの上には簡単な軽食とスイーツ。
アリスの実家であるシュトレインゼ公爵家まで押し掛けて来たかと思いきや、ルチアは腕に縋って「お茶にしましょう」と微笑んだ。
蔑ろにすることも出来ずに、こうして神殿の一室でティータイムと相成った。
たったこれだけのために。
「何か、用事でもあったのかな?」
「いいえ? 騎士さんたちがおいしいショートケーキを差し入れてくれたので、アーネスト様と一緒に食べれたら楽しいかなって」
溜息を押し殺しながら、表面だけで微笑む。
今のアーネストの頭の中には、先程まで共に居たアリスの官能的な肢体ばかりが映っていた。
泣く一歩手前の表情。潤んだ瞳でアーネストを見上げ、濡れた唇は僅かに開かれ、彼を誘っていた。
もう少しで食べてしまうところだった。
神秘的な濡れ羽色の髪や、一度見たら忘れられないアメジストの瞳の煌めき。
静謐とした彼女のパーツの1つ1つが、アーネストとの触れ合いによって淫靡に様変わりするのを目の前で見て、思わずごくりと喉を鳴らした。
髪は乱れ、その瞳は潤み、涙が零れ落ちそうな程。
──食べてしまいたい。
自分の中の獣が目覚め、それをアリスにぶつけてしまった。
もう少しで全てを手に入れることが出来たのに。
アリスの全てを知ることが出来たのに。
目の前の女が不躾にも突撃してきたせいで水の泡になってしまった。
何故、ルチアを優先したのか。
あの時はそうしなければならないと本能的に感じたから。
不本意だったけれど、しぶしぶアリスの部屋から出た。
アリスが何の未練もなく送り出したことにも、もやっとした。
何故、邪魔されるのだろうと不服ではあったが、聖女が呼んでいるなら仕方ないとあの時は思っていたけれど。
よく考えれば違和感だらけだ。
ずっと好きだった女の子のあられもない姿を目の前にしていたというのに。
アリスを優先したいはずだったのに、全てを塗り潰されて、気が付けばルチアの言う通りにしている自分にぞっとした。
アリスに向けるあの激情を、こうも簡単に塗り替える程の理由が見当たらなかったからこそ、彼は初めて何かがおかしいと気が付いた。
聖女というのは、人の思いさえも捻じ曲げるのだろうか?
身を以て体感したこの得体の知れない経験に内心恐怖した。この時初めて。
そういえば、聖女の周りに居る者たちは、もはや彼女のシンパのようになってはいないだろうか?
脳裏を過ぎるのは今まで考えたこともない疑念。
ルチアはいつだって正しくて、無垢な存在で、従うべき存在なのに。何しろ、精霊に愛されているのだから。
──彼らは正気なのか? なんて一瞬でも思ってしまった。
正気であって、そうは見えない歪な取り巻きたち。
今の自分のように自分の意志ではない、何かに支配されたということは?
「殿下もこっちにいらっしゃれば良いのに。世界が変わりますよ」
幸福に包まれたように笑みを浮かべる部下も居た。彼は仕事中毒の騎士だったというのに、どうして今は職務怠慢を繰り返しているのか。
ルチアに対峙すると、その陽だまりに身を任せてしまえという甘い囁きが忍び寄って来て、それを断固拒否する自分とがせめぎ合う。
──だが、ルチアはきっと何も悪くない。
臆面もなく断言したところで、アーネストは固まった。
この信頼は果たして本物なのだろうか?
ルチアに対していくらか抱いている、人としての好感は、どこからどこまでが真実なのか?
「アーネスト様?顔が怖いですよ?何か……もしかしてアリス様に何か文句を言われたとか」
「……い、いや。そういうことはないよ」
むしろあの瞬間は彼女を襲っている最中だった。
「アリス様。私、ちょっと怖いんです。許すって決めたのに、上手く話せるかは分かりません」
こんなにも真摯にアリスと向き合ってくれている。
アリスはルチアに飲み物をかけてしまったのだが、それを寛大にもこの聖女は許してくれている。
──そういえば、アリスは何か言いたげだったような。
彼女は最初、自分はやっていないと主張していたが、やはりかけてしまったのだろう。
ルチアが嘘を言うなんて有り得ないのだから。
どうしてここまで彼女を信用しているのか分からない。
いや、そもそもこの信用が偽物だったら全ての前提条件が変わる。
だが、それは有り得ないことだ。
脳内ぐるぐると回るのは、現実味のない思考だ。
──疑え。疑うんだ。有り得ないことでも。絶対に違うと分かっていても疑え。
自らに言い聞かせながら、ちらりとルチアに、目を向けると、彼女はにっこりと笑う。
「お茶、美味しいですね。これ、信者さんが持ってきてくれたんですけど、良かったらいりますか?色んな方が色々持ってきてくれるので」
「その髪飾りもそうなの?」
「はい。私の趣味じゃないですが、たくさんの宝石が使われてて。これをくれた男の人は、自分の家を売って借金までつくってまで、これを私に渡したかったんですって。なのでその思いを大切にしてあげようと思って」
薔薇の形を模して、その花びらは宝石で作られている豪奢な髪飾り。
これを作るのに自らを犠牲にする男が居ることに慄いた。
──そこまでする人もいるのか。……いや、そこまでする程、ルチアに心があったのだろうと思えば、ひとまず納得ではあるけれど。
何しろ、聖女なのだから、彼女は特別な人間だ。それは間違いない事実。
だが、まだ考えることを投げ捨ててはいけないと心の奥深くから何かが囁き続ける。
これも理由が分からなかった。
とりあえず、現状だけでは分からないということだけは分かった。