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「少しくらい弱音を吐いてくださっても良かったのに」
ぽそりと呟くアリスに、マティアスは微笑ましげに笑っている。
「いやいや、ですから簡単なことですよ。殿下はアリス嬢のことが好きで仕方ないんです。だから貴女の前では無理をすることがある」
「……」
好きなんてハッキリ他人に言われてしまっては、アリスの方は赤面するしかない。
「どうして……」
まるで見てきたみたいに。アーネストがアリスに告白していた事実はエリオット以外には伝えていないというのに。
「どうしても何も、最近の殿下の様子を見ていると、普通に分かりますよ。アリス嬢を好きで仕方ないっていう顔をされていますから」
そこまでダダ漏れだったのか。
顔色悪く意識を失っているアーネストの顔をじっと眺めて、そっと目を細める。
──私は、殿下の想いを無下にするばかりなのに。
熱の篭った目を向けられる度に、どうしようもなくなってすげなくしてしまっている自覚は大いにあった。
「ただご無事であれば……私はそれだけで良かったのに」
「目を覚まされたらご本人に伝えてみればいかがですか?きっとお喜びになるだろうに」
「そんなの告白の言葉と同義ですわ」
「お互い両思いだというのに、何を恐れるのです?」
「……」
何を恐れているのだろう? 一瞬頭の中が空白になったが、すぐに思い出す。
「恋をしたら……私の場合、弱くなりますから」
マティアスは分からないと言わんばかりに大げさに芝居かかった仕草で首を振った。
「恋をしたら人間弱くなるものですよ。私はしたことなど、ありませんが」
「あの……?」
説得力皆無の彼を思わずジト目で見つめていれば、彼は肩をすくめる。
「あの聖女相手に健闘した貴女がそこまで弱気になるとは……意外ですね」
「……そうです。自分の恋愛感情に向き合っている場合ではありません。ルチア様にしてやられたというのに……」
今回のアリスたちは敗走だ。あの場に居た貴族たちに味方は居らず、逃げることしか出来なかった。
今、王宮に戻ったら、ただ捕まるだけ。
肩を落としたアリスに、マティアスは目を丸くして言った。
「貴女は何を仰るのですか。聖女にしてやられた? そう見えるのは表向きだけで、実際のところ、勝利への鍵は我々が握ったも同然なのに」
「はい?」
どう考えても今回のアリスたちはルチアに負けた敗残兵だ。
たった2人きり孤立して、アーネストに多大な迷惑をかけただけだ。
「ここに居てもそれは実感出来ないと思いますが……。アーネスト殿下が目覚めたら外の様子を見に行っては? アリス嬢が決して負けた訳ではないことがよく分かるはずですから」
「外ですか? 街へと繰り出すということですか?」
ようするに貴族たち以外の国民の姿を見に行ってこいという意味なのだろう。
「私が昔から仕込んだ種が芽を出しているのですよ。そして、おそらくアーネスト殿下が蒔いて育てた芽も成長しているはずです」
「お2人とも何をされたのですか?」
つまりは貴族連中ではなく、市井の人々へと何か影響を与えたのだろう。
「直接その目で見て頂ければよく分かるでしょう。調停者と断罪者の仕事が始まるのはこれからです」
「調停者……。調停者は……半身である喪失竜の化身なのですよね。どこにいるのですか?」
「もう既に会っていますよ。竜の化身が貴女を見初めたのは、大分前のことです」
「見初めた?それはどういうことですか?」
調停者がアリスを見初めたとは……それはどういうことなのか。
──それより、もう既に会っているって。
記憶を辿り、遡ろうとしたところで頭の中を黒の猫が横切っていく。
傷だらけだった身体。時を止めた不思議な力。ここまで道案内をしてくれたその知性。
「もしかして、あの猫は、本当に貴方の使い魔ではなかったというのですか?」
「あまり言えなかったとはいえ、気付くのが遅かったですね。アリス嬢。まあ、竜の姿をしていないからでしょうかね。見た目は完全にただの可愛い黒猫。おまけにボロボロの姿の化身など思いも寄らないですからね。無理もないでしょう」
「ふしゃああああ!」
マティアスの足元まで来ていた黒猫は、彼の発言に苛立ちを覚えたのか、足に向かって猫パンチを繰り出した。
「おっと危ない」
それをマティアスはすらりと避ける。
「ああ。どうやら調停者は機嫌が悪いようだ。魔力の多い餌でも与えてこようか」
『魔力の多い』まで言ったところで猫の様子が一変した。
「にゃあああん!」
マティアスの足元に顔を擦り付け甘えた声を出し始めたのだ。
「なんて現金で可愛くない猫だろうか! ……アリス嬢。私たちは一旦席を外します」
「はい。アーネスト殿下の傍には私がついていますわ」
アーネストの横たわるベッドの横に、木で出来た小さな椅子を置いて、ちょこんと腰かけた。
「……彼と今から本当に話し合ってみたらいかがでしょうか?アリス嬢、貴女は何も怖がる必要などありませんよ」
それだけ言うと彼は黒猫の首根っこを掴み、出ていってしまった。
竜の化身である黒猫にあの扱いは果たして良いのだろうか。
確かに見た目は完全に猫ではあるが。
「……」
目を閉じ、先程よりも若干穏やかな呼吸のアーネストの頬に、アリスはおそるおそる指先で触れる。
瞳は閉じられているが、彼が静かに眠っている姿はどこか高貴さを感じさせた。
すっと通った鼻筋や、薄い唇を順番に眺めた後、アリスはそっと息をつく。
──まるでよく出来た彫刻のようだわ。
やはり顔色が普段よりも悪い気がするのだ。
「殿下……」
彼の冷たい手を温めるように握り、摩った。少しでも温まるように。
ピクリと動いたような気がして、少し手の力を緩める。
──起こさないようにしなくては。
少しでも寝かさなければ体力は回復しない。
いつもはアリスに愛を伝えてくれたその唇は、今は何も紡がない。
普段はアリスが心配される立場だったというのに、まさか逆の立場になるとは思っていなかった。
──心配くらいさせてと思っていたけれど、こんな思いはしたくなかった。
彼が目を開けないという事実がここまで怖いとは思っていなかった。
──殿下も人の子ですもの。身体を壊さない……なんてことあるはずがない。無理をして隠すことくらい、何故想像出来なかったのかしら。
自己嫌悪と少しの寂しさ。アーネストに頼って貰えなかったことが悔しくて、そして寂しい。
──男のプライドなんて言葉、大嫌いだわ。
アリスは椅子から立ち上がると、アーネストのベッドへと近付いた。
するりと彼の頬を両手で包む。若干温度の低い彼の肌を撫でて、今は解かれている金髪の長髪を梳いては弄ぶ。
そっとベッドに体重をかけて、顔を近付けて。
「……殿下?」
少しだけ呼びかけてみても反応はない。若干瞼が震えた気がしたが、気の所為だろう。
だって、目を開けないのだから。
「どうして貴方は肝心な時に何も仰らないのですか?」
問いかけても答えなどないと分かっているのに、問いかけずにはいられない。
彼の言葉に期待なんてしていないけれど、口をついて出るのは酷い言葉だ。
「殿下なんて大嫌いです……」
なんて弱々しい声。自分の声とは思えないくらいだ。
「アーネスト様……」
普段は名前を呼ぶことなんてないけれど。
意識して呼ばずにいたことに彼は気付いていただろうか。
「私、貴方のこと許せそうにありませんわ」
言葉とは裏腹に、アーネストの頬に寄せられる手つきは、アリス本人が思っているよりもずっと優しい。
涙腺が緩んだせいで目頭が少しだけ熱い。
アリスの目からこぼれ落ちた涙がアーネストの頬を伝い──。
アリスは彼に僅かに覆い被さり、やがては距離を零にした。
「ん……」
血の気のないアーネストの薄い唇に自らのそれを軽く重ねて触れ合わせて、その温度を確かめる。
──息してる……。
温かな呼気を感じて、やっと安心出来るなんて。
アリスの艶やかな黒髪が流れ落ち、それをアリスはすくい上げ、耳にかけて。
再び、彼の唇に己の唇を控えめに重ね合わせる。
少しの間、触れ合わせていたが、やがてアリスは顔をそっと離すと、ベッドからも身を離した。
「……お飲み物お持ちしないと……」
──私、何をやっているのかしら。
本人の許可もなく口付けをしているなんて。それも一方的に。
──そんな軽々しくすることでもないのに。
自らの行動に戸惑っていたアリスは、道が分からないことも忘れて、ドアの外へと思わず飛び出す。逃げる言い訳と一緒に。
だからアリスは知らなかった。
彼女が部屋から出ていった直後に、アーネストが目を開けていたことを。




