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いつものごとく甘いです。R15?
謹慎中で屋敷に閉じこもっていたアリスの元へと訪問してきたのは、予想外にも王太子であるアーネストだった。
簡素な部屋着を纏ったアリスの怯えた仕草に、アーネストがごくりと喉を鳴らしていることには気付かず、彼女はただ俯いていた。
──このままでは不敬だなんて分かっているのに、彼の顔を見ることが出来ないわ。
「何かと大変だったようだね、アリス」
その声に幾ばくかの嫌悪感が含まれていないことを確認してから、そっと表情を窺えば、そこには見慣れたいつもの紳士的な笑み。
──良かった。少なくとも国外追放はなさそうだわ。
「でも随分と顔色が悪いね」
そっと頬を撫でられ、目元のクマを指先で優しく壊れ物を扱うかのように触れる。
「騒ぎにはなったけど、ルチアがあまり大事にしないことを望んでくれたおかげで、大きな騒ぎにはなっていない。僕の信用出来る知り合いがね、偽の処方箋を偽造して、アリスは体調不良でずっとふらついていたということになっている」
──何方がそのようなことを? 私に味方してくれている人がいるの?
「だけどね、アリス」
ふいに真剣な瞳に射抜かれてしまい、いつもなら見惚れる程に美しい双眸が、今は居心地悪くて仕方ないものになってしまう。
「ルチアには素直に謝った方が良いよ?君はしてないって言っているようだけど」
──え?
ふいに漏れそうになった呆けた声は寸前で押し留められた。普段からの正妃教育が功を成したのだろう。
「彼女の証言によると、君はわざと飲み物をかけたんだよね?ルチアは随分と怯えていたみたいだった。嫉妬をしてくれるのは嬉しいけど。彼女がそう言っていたんだ。恐らく真実だろう」
──嘘。私の言い分なんて聞いてくれない癖に。その証左がこれだ。無意識にルチアの言っていることが真実だと、アリスの言っていることは言い逃れだと、彼は言っている。
ふと覚えた違和感に疑問を投げかけることも出来ずに俯いた。
頤に指をかけられ上向きにされると、彼は諭すように囁くのだ。
「きっと、あの子なら許してくれるよ。謝るのは誰しも勇気がいるけれども、アリスなら頑張れると思う」
そして甘く微笑む麗しい青年。整った造りをした彼の風貌はどこか優しく、慰めと労りの目をアリスに向けていた。
「……私、彼女にあったらお騒がせしたことを謝罪致しますわ……」
認めたくなくて、目が潤むのを自覚しながらも彼女は今こう答えることしか出来なかった。
婚約者に一欠片も信用されないなんて、あまつさえ他の女性の方が信用出来ると明言されることがどれだけ屈辱か、アーネストにはきっと理解出来ないだろう。
「泣かないで。アリスがしたのは悪いことだけど、まだ取り返せるんだから。僕も応援しているから、ね」
ついに決壊した涙腺からは、透明な雫がぽとりと落ちて、頬を熱く濡らした。
アリスが泣いたのはアーネストのせいなのに。プライドがズタズタにされたことによる屈辱と、現状への悲観と、虚無感。
顔を近付けられ、この期に及んで唇を奪われる。躊躇うように施された口付けは慰めているようにも思えたけれど、アリスが感じるのは安らぎでもなければときめきでもなかった。
──私のことを全く信じてもいない癖に、好きでもない癖に。どうしてキスだけは優しいの?
アリスは残酷な事実を知っている。
聖女は精霊を見ることが出来る上、癒しの魔力を持つという伝承が伝わっているが、精霊と意思を通じる能力を持つ条件として、純潔であることが求められるという。事実は確かめることも出来ない為、確実ではないが。
つまりは、アーネストはルチアと思いを交わすことが出来ないということだ。
女性と浮名を流さない真面目なアーネストが、唯一流したのがルチアとの清く美しい関係性。
ゆっくりと顔を離された瞬間に、アリスは顔を俯けた。彼がどんな表情を見せるのか、アリスを見るその視線に含まれるのが熱だけだったらと思うと悲しくて仕方ないのだ。
アリスに求められるのは快楽のみなんて、そんな真実は目にしたくなかった。
──早く吹っ切らなければ。恋なんて不毛なのだから。初恋なんて叶わないし、自分の好きな人が同じように好きになってくれるなんて奇跡にも等しいものなのよ。
「可愛い人だね」
アリスの濡れた唇を辿る親指は優しくて、勘違いしてしまいそうになる。声だけ聞くと勘違いしてしまいそうで、アリスは目を合わせることが出来ずにいた。運命の相手が自分でないことなんて重々承知の上なのに、愚かにも期待してしまう自分は、なんて滑稽な道化師なのだろうか。
「申し訳ありません、アーネスト様。どうかこれ以上は、もう……」
恥じらう振りをすれば、慌てたような彼の声。
「ああ、ご…ごめん。少し前から返してくれるようになった君の気持ちが嬉しかったんだ」
「気持ち……って」
「随分前は僕のことなんてどうでも良さそうだったのに」
以前はもっとこの厄介な恋心を隠すことが出来ていた。少なくとも、本人に伝わってしまう程に明け透けな態度はしていなかった。
ルチアが現れてから、アリスは自分らしくない振る舞いに頭を悩ませていた。
学んだ社交術や立ち居振る舞いは忘れてはいないし、しっかりと身についてはいて、貴族としての振る舞いには何も不都合を感じなかったが、どうやら気を抜いてしまえば丸わかりらしい。
これに関しては気を引きしめることしか出来ない。
「前と比べると、目が違うんだ」
「そう、ですか」
意識的に表情を硬くしながら、最近の自分は動揺していて、彼に上手く取り繕えてなかったことを自覚する。
──好きなんて知られるつもりなかったのに。
彼には、昔から余所余所しく対応されているというのに、そんな相手に好きだと伝えることの無謀さ、そして無意味さ。
「婚約者と言っても、むやみやたらに君に触れるのは御法度だったから。こういうのは気持ちが必要だからね。君から好きだと言われたことはなかったけど」
──酷い人。私とはほとんど関わりがない癖に。
確かに相手方も同意していれば、それは許されるのかもしれない。
──私のこと好きでもないのに、耳触りの良いことばかり仰るのね。と言っても、私も彼の上辺を好きになっただけのその程度の女だった訳だけれど。
余所余所しい態度は、アリスが公爵令嬢だったからで、女性相手だったからという理由ではなくて、単に距離を置かれていただけなのに。
ルチアに対する態度を見て思い知った。
上辺だけ優しくされて、それだけで意識するようになっていくなんて、なんて無知蒙昧。
「ずっと昔からお慕い申し上げておりましたわ、アーネスト様」
アリスが今出来る精一杯の完璧な笑み。潤んだ目で目元を紅潮させながら僅かに微笑めば、そっと伸ばされる手。
──あと、もう一度だけ。もう一度だけだから。思い出にするだけだから。
この数日間で繰り返したキスは何回だろうか?触れるのがただの欲の捌け口で、愛されておらずとも、それが刹那のことだったとしても、アーネストに対する恋心が純粋なものでなくなっていったとしても。
アーネストにただ失望していくだけでも。
その唇の感触を覚えていたいと思ってしまうのは、結局は長年の恋心故なのだろう。
もう一度交わした口付けに酔いしれながら、息継ぎの合間にはしたなくも強請った。
「んっ……はぁっ……もっと、もっと……してくれますか?」
アリスの細く途切れそうな切なげな吐息と、上目遣いになって濡れた瞳に、アーネストは息を飲んでいた。
噛み付くような激しい口付けと、腰に回っていた手からは余裕のなさが窺われる。
「随分と、積極的だね……?」
「ふふ……だって」
──いつ最後になるか分からないではないですか。
ちゅっ、と音を立てて唇が解かれても、彼の見つめる視線から熱はまだ冷めていない。
──好きでしたわ。
それはもうアリスにとっては過去として割り切ったもの。契約書を破るみたいに台無しにして、細切れにしてしまうに等しい。好きなのではない。好きだったのだ。
アーネストの長くて美しい指が、ゆっくりと胸の下を辿って擽っていく度に、背中を得体の知れない何かが駆け巡って行く。快楽の電流が走る度に甘く心臓が痛む。
「僕の心をここまで乱れさせるなんて、アリスは本当に悪い子だ」
身体を預けてしまえば、こんなに簡単なことはない。薄い部屋着はアリスを護る防波堤にすらならず、簡単に剥ぎ取られてしまって。
どこか性急で余裕のない仕草で、服を床にパサリと落とされて、肩を柔らかく押される。
「あっ…!」
とさっと背中にベッドの柔らかな感触。押し倒されたアリスの肢体がもがいている隙に、目の前の男はベッドに乗り上げ、彼女に覆い被さる。無骨だが綺麗な男の指は逃がさないと言わんばかりにアリスの腕を拘束している。
さすがに彼が何をしようとしているか、このままでいれば何が起こるのか察することが出来ない訳がなかった。
尋ねてきた早々、婚約者とはいえ、女性を襲う真似をするのはいかがなものかと思いつつも、アリスの心はグラグラと揺れる。
幼い頃から恋心を抱いていた相手がどんな形であれ、自分を求めているという状況だ。
それがただの欲望だろうが構わないとすら思ってしまう自分は相当歪み切った執着を順調に育ててきたのだ。その滑稽すぎる自らの一途さにただ苦笑いをして、アーネストの背中に手を回して、自らも身体を擦り寄せた。
貴族の令嬢が純潔を失う意味は承知の上だった。
一つに溶け合ってしまえたらと何度思ったことだろう。婚前交渉は認められてないので、無理な相談なのは百も承知の上だったが。
──どうせ、この人に嫁ぐことになるのなら。ルチア様に何もかも奪われるなら、いっそのこと……。
「アリス。逃げないで。怖いことはしないから」
どこか逃げ腰になっていたアリスの腰を引き寄せ、切なげに囁くこの青年の真意は未だ見えない。
──私のこと何とも、思ってない癖に、どうして触れる手は熱いの?男性は皆こうなのかしら?好きな人でなくても抱ける?
「アーネスト殿下はこちらですか?」
ベッドの上で口付けを交わして、お互いの指を絡ませている最中に、横槍が入った。
すぐ近くから聞こえてきた、あからさまな舌打ちの後、名残惜しそうに唇は離された。
熱の冷めないアーネストの表情は普段の彼とかけ離れすぎていた。
品行方正な青年の姿はどこにも見えず、ほんの少しだけ彼の一面に触れることが出来た気がした。
アリスは胸を撫で下ろす。彼の真意が見えないまま、身体だけ彼のものになるのは虚しい。残念な気もするし、これで良かった気もする。
「ルチア様がいらしています」
「え?」
困惑したアーネストの声からして、彼もまさかあの聖女がアリスの実家まで押しかけてくるとは思っていなかったのだろう。
「きっと何か御用があるのでしょう。私のことはお構いなく」
──言えた。
嫉妬の炎を焦がすこともなく、憎悪を滾らせるでもなく、自然に口を滑り落ちた言葉はどこか無機質に部屋の中に響いた。
「アリス?」
何を言っているのか分からないと言いたげな目を向けられ、彼の手が動揺からか微かに緩んでしまえば、こっちのものだった。
「おしまいですわ、アーネスト様」
下着姿のまま、組み敷かれていたアリスは男の身体の下からすり抜ける。
困惑しきった表情はどこか幼く見える。胸元が緩み、僅かに覗いた彼の生肌から目を逸らしながら落とされた服を拾って、部屋の奥のバスルームへと足を向ける。
「アーネスト殿下。淑女がお待ちなのですから。私とはまた明日話しましょう? お待ちしていますから」
「明日……。待っていてくれるのなら」
どうして彼は不服げなのだろう。こちらのことなど、ルチアと比べてしまえば興味なんてないはずなのに。
内心、首を傾げながら、彼の肩に上着を掛ける。
こうして手伝っていると親密な恋人のようにも思えてしまって、少しだけ胸が騒いだ。
「ごきげんよう。アーネスト様」
「こういうことは今後起こらないようにするからね?今日はごめんね………」
「分かっておりますわ。そちらの事情もあるでしょうし」
「……」
不機嫌そうに細められた瞳の意味は分からないけれど、アーネストは何も発言することなく、アリスの唇の横に軽く口付けて、一瞬だけ寂しげな顔を見せてくれた。
「彼を癒してくれるものがありますように」
小声で大精霊にお願いをして、顔を上げれば鳩が豆鉄砲を食らったように拍子抜けしたアーネストの姿。それでも美しさは翳りを見せることなどなく、魅力的で。
「それでは、ごきげんよう」
アリスが出来るのは、最上級の笑顔だけだ。




