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当然のことを言ったつもりだったのだ。
あまりにも無知な彼女に忠告するつもりだった。アーネストの隣にいる覚悟があるなら応援しようとすら思っていた。アリスの目の前で数人の男たちに庇われている令嬢。
手に持ったグラス。
ルチアの白いドレスはワイン色の飲み物で汚れていて、アリスの手からはポタリ、と同じような色の雫が落ちている。
「どうして……どうして、そんなに私が嫌いなのですか?」
目の前にいる少女は目に涙を浮かべ、こちらを悲しげに見つめている。
「違……」
言いかけたアリスを遮るように周りからはヒソヒソと責める声。
「アーネスト殿下の婚約者といっても愛されたかどうかは疑わしいわね」
「聖女様にあんな嫌がらせをするなんてね。恥知らずも良いところだな」
冷えた目が一斉にアリスを射抜いていく。断罪するように、その無数の目が責めている。
ルチアを守るように前に足を踏み出した令息たち。
「なんて性悪な女なんだ」
「王子の愛が欲しいからって、聖女様に飲み物をかけるなんて」
「な……」
──私は何もしていないのに。
──貴女、婚約者のいる男性に馴れ馴れしすぎではないですか? 貴女も貴族なら分かるはず。家名に泥を塗るのは本意ではないでしょう?
はっきり言いすぎたかもしれないが、男性に気軽に触れる彼女を見ていたら、すれ違いざまに諌める言葉が飛び出した。
その瞬間、近くには男性もおらず、その現場は誰にも見られていない。
グラスを持つ手が、ぐいっと力任せに引っ張られたのだ。
それも、ルチアの手によって。
「きゃっ……」
小さく声を上げたアリスとは裏腹に、ルチアは狂ったように絶叫したのだ。
「きゃああああああああ!! 私のドレスが!!」
周りの視線が集まった瞬間、悟った。
──悪役は私だわ!
気がつけば、周りを囲む者たちの目は厳しくなっていたのだ。
「大丈夫ですか? ルチア様。早くお召し換えを」
「あ、私は大丈夫です。ただ、ちょっとだけ怖かっただけで」
涙が零れそうなルチアの庇護欲を誘う可憐な姿に、周りの男性たちは、ほうっ……と見蕩れて溜息なんてついている。
一方、アリスに向けられているのは冷たい視線か、もしくは同情めいた視線。
僅かな声量だったが、耳に入った。
「可哀想に」
それは憐憫。分不相応にも聖女に嫉妬し、あまつさえ哀れな姿を晒してしまったアリスへの。
──何故? 私が。
そんなの問うまでもない。彼女に関わってしまったから。
──何故、皆、ルチア様の言葉をそんなに簡単に信じてしまうの?
聖女であり、彼女の纏う雰囲気が無垢であるから。
頭の中で自問自答した末に、アリスはアーネストを探した。
人が、人が犇めく中心に彼は居た。何やら険しそうな顔をしていることに気付いてしまえば、もうこんなところに居れる訳がなかった。
「あ、逃げ出した」
「放っておけ」
逃げ出す意味。それは罪を認めることと同義だ。傍目から見たら犯人が逃げ出したとしか思えない状況。
それでも逃げ出すことだけはしてはいけなかった。アーネスト殿下の婚約者という立場ならば。
アリスは耐えられなかったのだ。何もしていないのにも関わらず、一斉に向けてくる疑念の目そのものに。
逃げ出した先は庭園だった。無数の薔薇が迷路を作り出している幻想の空間。
重いドレスを引き摺りながら、自ら庭園の迷路へと迷い込む。
──こんな庭、王宮にも似たようなのがあったわね。アーネスト様と1度だけ隠れんぼをした場所。幼い頃、あまり交流を持たなかった私たちだけれど、小さな思い出はいくつかあった。
私は隠れるのが上手くて、殿下はなかなか見つけることが出来なくて……。
ひょっとしたら見つけて欲しかったのかもしれない。当時も今も。
「痛……」
薔薇の花に手を伸ばした手が触れたのは、棘だった。
アリスは思わずその場にしゃがみ込んだ。ハンカチで指を押さえていると、小さなか細い声が耳に届いた。
「猫?」
か細い猫の鳴き声が聞こえた先。迷路に阻まれていることを承知で辺りを伺う。
こんなところで指に怪我をして、猫を探しているなんて実におかしいと、苦笑しながらも耳を澄ませた。
ニャー……。
その今にも消えてしまいそうな猫の居場所を見つけ、目に飛び込んできたのは、傷だらけの黒い子猫の姿だった。
アリスは思わず手を伸ばす。
「大丈夫。怪我ならすぐに治るわ」
思わず泣きそうになった。誰も庇ってくれることのなかった自分と同じ目に合わせたくなかったのかもしれない。
この猫を放置したら助けてくれる人はいるのか?
否。今、こんな場所に姿を現すのはアリスのような行き場のない者だけだ。
それか、よっぽどの物好きか。
アリスは、子猫に声をかける姿を誰かに見られていることなんて気付かない。
その人物が興味津々に目を輝かせ、笑みを浮かべていたことも。
気付かないまま、誰にも気付かれずに自分の屋敷に帰るために馬車に乗ったのだ。
「お嬢様、もうお帰りですか?」
「今日は体調が悪いので、早めに帰ろうと思うの。お願い、馬車を出してください」
「大丈夫ですか? 顔色悪いですよ」
御者はアリスに疑念の目を浮かべない。あの場面を見ていないのだから当然なのだが。
それなのに、それだけで救われた気になるのはおかしいだろうか?
屋敷に帰ったアリスを待ち受けていたのは、公爵である父親からの叱責と、母親の悲嘆にくれた顔だった。
「お前は何をしてくれたんだ! 聖女様に危害を加えるなど、前代未聞だ。公爵家の家名に泥を塗ってくれるとはな。それが今まで世話になった私たちへの答えか?」
聖女になんて危害を加えていない。
「貴女はそこまで傲慢に育ってしまったの? 公爵家という爵位も、貴女の今の立場も貴女自身が手に入れたものではないと理解しているのだと……身の程を弁え、未来の国母たる責任を全うに果たすものだと期待していた私たちが愚かだったの?」
「恐れながら申し上げますが……此度の件は冤罪ですわ。誰も悪くなどないのです」
ルチアのせいにするでもなく、自らを被害者のように語るでもなく、自分の中の答えを告げるが、それがルチアの言っていることが間違っていると言っているも同然のことにアリスは気付かなかった。
ただ、子どものように言い募る。両親には信じてもらいたいというそれだけの願いだった。
「それは聖女様の仰っていることが嘘だと申しているのと同じこと。それがどれだけ不敬か分からんのか」
アリスに向けられる失望の眼差しが父と母の分、二人分に加え、周りの従者たちもどこか哀れみの視線を向けている。
分不相応にも聖女に嫉妬した心の狭い令嬢が、責任逃れのために己の両親にまで嘘をつく。それが今のアリスのこの家での評価だ。
「頭を冷やしなさい。お前は謹慎だ。聖女様にも近付くことは許さない」
「そう。許されない」
娘の話を信用出来ない程なのか。それ程までにこの国の聖女信仰は厚いものなのか。
アリスの目に透明な膜が張っていく。両親にも信用されることもないのだから、己の婚約者もアリスではなくルチアの発言を重視するに違いないだろう。
アリスには対抗手段がないのだ。あるのは偽りの状況証拠のみ。アリスがルチアのドレスに飲み物をかけたように見せたあの光景。
フラフラしながら庭先に出ると、闇夜に溶けるようにして立っていた黒猫が、にゃあと鳴いた。
「ごめんなさい。あなたをこの家に置くどころではなくなってしまったわ」
傷だらけだった黒猫は治りかけた傷を舐めながら、問題ないとでも言いたげに鳴く。
「もっと私にも魔法の才能があれば良かったのだけれど……」
アリスが黒猫に施したのは、簡易的な治癒魔法であり、黒猫の傷を全快させるには至らないものの致命傷だけは回復させることが出来た。
この魔法は精霊を通じて奇跡を起こすという、精霊信仰を元にした魔法体系で、個々の魔力を言の葉のごとく編み上げ、精霊へと交信を図るのだ。通常、精霊を見る者はおらず、高位な精霊魔法の使い手でも一時的に見えるに過ぎないと言われている。
──もっとも、他の大陸だと自らの魔力を編み上げて術式を組みたてて奇跡を起こす魔法使いも多いと聞くけれど。
アリスが独学で使えるようになった唯一の魔法はこの治癒魔法のみ。幼い頃、魔法使いに憧れていた頃があり、拙いながらも魔術の文献を見つけた折に、独学で身につけたのだ。
それが普通ではありえないということに気付いたのはすぐ後で、だからこそ使う機会はあまりなかった。王族と婚約を交わした立場であるアリスの治癒魔法に頼る機会などないに等しい。護衛はいるし、もし負傷したとしても頼るのは医務室だ。
そして、魔術に興味があることを周囲に悟られたら、それが弱みになる。この国で魔法の行使を許されているのは、国家魔術師として認定された者だけだから。
そもそも、この国では魔術という存在はあまり大っぴらにはされていない。それは一部の者が知る機密事項だったのだ。
つまり精霊信仰は盛んだというのに、精霊魔法は知られていないというおかしな状況になっている。
使える者があまりにも少ないせいだ。この国から出たことがない人は「そんなものはない」と信じ切っているくらいなのだから。
認定されてない者が使う魔術は非公式の魔術と言われている。口さがないない者は、アリスの使う奇跡を呪いと呼ぶだろう。
魔術について知識のないこの国で、周りと違う得体の知れないものを披露するのは、あまりにも危険だった。
少しでも醜聞に繋がることは避けるべきであるものの、聖女を害したという名目で、アリスは徹底的に調べられ、過去に閲覧した本など履歴も詳らかに明かされてしまうかもしれない。もちろん、魔術書に目を通したことも。何しろ屋敷にあるのだから。
「詰んだわ……」
聖女への反逆、非公式の魔女、王太子の元婚約者……アリスの身に伸し掛る不名誉な肩書き。
それが嘘であろうが真実であろうが、醜聞を広めてしまった時点で社交界への復帰は絶望的だった。
──あんなに人がいる前であんな騒ぎを起こしてしまったらもう無理よね。
アリスは黒猫を抱き抱えて、小さく嘆息した。
好きな人に想いを伝えて、幸せになるというキラキラとした夢物語は現実には存在していない。
彼女の目の前にあるのは、衆目の蔑みの視線と失望しきった両親の目だけ。
味方は誰もおらず、この場にいるのも、小さな黒猫だけだ。
大丈夫、と言わんばかりに小さな前足が顔にぽふぽふと当たる。
「ありがとう。黒猫さん。慰めてくれるのね」
思わずほっこりとして、アリスは小さく微笑んだ。それはささやかだけれども、膨らんだ蕾が徐々に綻んでいく様に似ている。
誰も見ていないはずだった。誰にも見られていないはずだった。だから彼女は気付かず、彼と出会わなかったかもしれない。
アリスにかけられたさり気ない声。
「君だけ、か。聖女に魅入られていないのは。それに何やら面白いものを連れているようだ」
思わずぱっと顔を上げたアリスの目線の先には、 フードを深く被った長身の青年がアリスを興味深そうに眺めている姿。
「どうやら君だけ、だ」
「え?わたくし、だけ?」
アリスの桃色の唇から細い声が漏れる。
言われた内容に心臓を掴まれるような感覚を覚えながらも、アリスは今までの教育の賜物なのか、大声を上げることはない。
それでも、その言葉の先が気になって仕方なかったが、彼が優美な仕草で去って行く様をそのまま眺めて見送ってしまった。
「一体、何だったのかしら?」