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ルチアに宣戦布告をされた日の夜、妙に目が冴えてしまって、なかなか寝付くことが出来なかった。
──とりあえず、殿下の仰ってた通り、ルチア様からの接触はあったわ。たぶん、ルチア様の目的は殿下だと思うのだけれど……。
どうもそれだけではない気がする。
というよりも、何かを見逃しているような違和感。もやもやと不明瞭で、ボタンを掛け間違えているような不自然さ。
──何かが、違うのよ。
昼間のルチアの言動が引っ掛かって仕方ない。
ルチアの歪な笑みがアリスの脳内に鮮明に刻み込まれてしまっている。
──明日、このことも殿下にお伝えしなければ。
早めに眠らなければ肌にも悪いともう1度目を閉じたところで、アリスはがばっと飛び起きた。
かち……かたん。
「え? 窓に何か……」
葉っぱでも触れたかのような微かな音だったが、何があるのかは暗闇で分からなかった。
今日は新月だった。
風でも吹いているにしては、変な音だと思って耳を澄ましてみることにして。
カタン、と窓が開閉するような音がして、違和感を覚えた瞬間のことだった。
刹那、アリスの上に何か重い生き物のようなものが乗ってきて──。
「アリス様。悪く思わないでくださいね」
それが人間の男だと気付いた時、アリスの肩は押さえ付けられていた。
「だ、誰!?」
「申し訳ありません。アリス様にお話があって」
「な、何のお話ですか?」
ジタバタと身体を振り解く前に、目の前の見知らぬ男は囁いた。
何が起こるのか様々な事態がアリスの頭の中をグルグルと回っていく。
それなのに身体は動かなくて、息が苦しくて仕方ない。
「話を聞いて欲しくてこんな真似をしました。アリス様に身の危険が迫っているのをお伝えしたくて」
「貴方はどこの誰なのかと聞いております! 何を……!」
──声が出ない!
アリスの口からはか細い声しか出なかった。
「私は、アリス様の味方です。だから、話を聞いて欲しくて……」
アリスはこの状況だというのに頭の中が澄み渡っていった。
──押さえ付けながら、貴女の味方ですって?
本能は目の前の男が胡散臭いと言っている。
「どうか声を出さないでください……」
彼の片方の手が、こちらの利き手を拘束しようと緩やかにベッドの上を移動してきているのを目にした瞬間、アリスは逡巡した。
──この男は敵? もしこの男を傷付けたとして、不都合なことが起こる可能性もゼロとは言えない……。
ただ操られている可能性もある。しかも誰だか分からない。
自分の身に起こるかもしれない恐怖。
一瞬でアリスの頭の中はパンクしそうな程に、高速回転していく。
ふと頭に過ぎったのは、昼間のルチアの歪な笑顔。
──まさか、そんな。こんな今日の今日で。
戸惑うアリスの頭にふいに過ぎったのはルチアだけではなかった。
『自分を最優先して欲しいんだ』
頭に残っていたアーネストの言葉。これが悪手だったとしても、アーネストが望んでいるのはアリスの無事。
拘束される前に、枕の下に右手を突っ込んで、それを取り出した。
「……っ!」
それ──アーネストのくれたお守りを、目の前の男に振りかざすと、ザシュッと肉を切る感触が伝わってきて、ポタポタと白いシーツの上に染みを零していく。
アーネストのくれたお守り──アリスでも扱いやすい短剣に血が滴る。
「う……っむぐっ」
声を出されては困ると、目の前にあった白い布を男の口に無理やり突っ込んだ。
唐突に与えられた痛みに悶絶した男の片足に力の限り突き刺して身動きが取れないように、もう片方の足にも突き刺して、アリスは廊下へと飛び出した。
「な、何事ですか、アリス様!」
どうやら部屋の外までは男の呻き声などは聞こえていないらしい。
「殿下のところに行ってきます!」
「ですが、今は夜中で! アリス様!?」
アリスは早足でアーネストの寝室へと向かい、その後を護衛の騎士たちが慌てて追尾している。
「アリス様、どうかされたのですか?」
「殿下!」
アーネストの部屋の前の騎士を無視して、部屋の前で叫んだ瞬間、中で椅子を思い切り倒したりと忙しない音が聞こえた後、ドアが慌てて開かれた。
「アリス? こんな夜中に何が……、っ?」
彼の胸の中に飛び込んで抱きつけば、困惑するアーネストと護衛の騎士たちの息を飲んだ音が聞こえた。
「殿下……。あの、私……」
目で合図すれば、何かを察したらしいアーネストは、アリスの後ろについてきていた騎士たちに声をかけた。
「アリスのことは任せてくれて良い。とりあえず部屋の前で待っていて欲しい。……アリス、部屋においで」
宥めるように背中を撫でられたアリスは、彼の腕にしがみつき、弱々しい令嬢を演じる。
だけど、アリスの声は僅かに震えていた。
「殿下……」
アリスの足が震えていたのは、演技でも何でもなかった。
部屋の奥まったところまで移動したところで、アーネストは声を潜めて問い掛けてきた。
「何があったの?」
その冷静なアーネストの声を耳にした途端、非日常から抜け出したような心地がして、先程までの高揚感は、やがて言いようもない恐怖へと変わっていった。
──さっき、もし私が抵抗していなかったら?
「ゆっくりで良いから」
優しく宥めるような声を聞いても、アリスの息はなかなか整わず、アーネストの服を掴むことしか出来ないまま。
──もし、抵抗していなかったとしたら?何が起こったの?だって、先程のアレは。
それは朧気な想像。それも、今となっては起こるはずもない未来の可能性。
それに思い至った瞬間、決壊した。
「殿下、私の身は潔白です! 何も……何もされていないですわ!!」
「え?」
口から出てきたのは頓珍漢な言葉だ。
それも冷静さなんてかなぐり捨てたと言わんばかりに彼女は混乱状態に陥っていた。
冷静に判断していたといっても、所詮は17の娘だったアリスは、この時点で実は半狂乱の状態だった。
それは可能性の事柄。助かった今となってはする必要もない想像なのに。
──もしこの身が穢れれば。私──私は! 無価値になってしまうところだった!
「私はまだ何もされてはいません。ですから……。でも、もしお疑いなら……」
「アリス、何があったの? 何を言っているのか分からない」
「殿下。私の身が綺麗だということを、確認してください」
「アリス? 何を」
アーネストの手を、自らの下肢へと導き、ナイトドレスの裾から捲りあげようとした途端、手をぐっと押さえられた。
「アリス。落ち着いて! 何をしようとして……!」
「私の身体はまだ純潔ですから!」
「アリス!」
アーネストに似合わない大きな声。
アリスはビクンと身体を震わせて硬直した後、ようやく気を取り直した。
「申し訳ございませんでした……。取り乱してしまって」
「紅茶でも入れようか。少し、気を休めた方が良いよ」
アーネストが身を離して、カップを取りに行こうとしたその時も、アリスは彼の腕を掴む。
「いいえ、まずはお話を先に……」
冷静ではないアリスと、冷静であるアリスが同時に存在していた。
もう1人の冷静なアリスは頭の中で突っ込みを入れているのだ。
『あの男、置き去りにしたままよ』、と。
なるべく簡潔に纏めて、この後の指示を仰ごう。まずは正しく報告しなければ。
アリスはアーネストの腕の温もりを感じながら、彼女は息を整えて──。
「まずは、私の部屋まで来て頂けませんか?」
ようやくアリスの瞳には理性の色が宿ったが、アーネストはただただ心配そうにこちらを見つめていた。




