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アリスとアーネストが熱い口付けを交わした後、すぐに親戚の叔母のところに手紙を出した。
アリスが神殿に向かう日は次の日。護衛を付けられ監視される前に、決行すれば最初で最後と言わずとも、二回目の訪問が叶うかもしれない。ようするにバレる前に行動するのである。
抜け出す口実は必要だ。この日、アリスが向かったのは親戚の叔母の家、という口実。
つまりは現場不在証明。口裏合わせに叔母を巻き込むのは心苦しいが、政治的なことに姪が興味を持つというのも別におかしいことではないと納得するだろう。
「アリス様。ご準備が出来ました」
「ありがとう。マリア。こんなことに付き合わせてしまってごめんなさい」
「いえいえ! アリス様のお立場でしたら、お気になさるのも無理はございません。私のことはお気になさらず!」
「ありがとう。ふふ、どうやら少しだけ行動的になっているみたい」
分からないことでも自分の足で調べることはなかなか出来ない貴族たちだが、やはり自分の目で見ることで得られるものは大きい。
父が忙しい合間を縫って視察に向かう意味も良く分かる。
神殿に向かう際、お忍びという形を取らせてもらった。神官の一人が不思議そうに問いかける。
「今日はアーネスト殿下とは一緒ではないのですか?」
この質問が出るということは彼はここによく赴いている。
「ええ。彼の仕事を邪魔するのは申し訳ないですから。今日は個人的な興味でこちらに伺った次第です。可愛らしい方とお聞きしていますわ」
殿下と仲が良いようだから、という部分は飲み込む。聖女に害意なんて持っていないように振る舞わなければならない。
駄目押しでもしておこうか。
「精霊の声をお聞きになるんでしょう? 私、この国の建国神話が大好きなのです」
無邪気を装い、口元を押さえて微かに微笑む。小首を傾げて、見つめる。
我ながらあざといとは思うが、好奇心旺盛な令嬢という印象を植え付けておけば後々便利である。
こういう時も自分自身に嫌悪感が募る。
──ルチア様の純粋さと比べれば天と地程の差だわ。
少なくとも印象操作なんて彼女はしないだろう。
神殿の中はゴシック建築のように尖った細工と共に、白を基調とした神聖な雰囲気を醸し出した空間だった。
スカートを軽く摘みながら、周りをさり気なく見渡せば、こちらの様子を窺っている神官や巫女たちの姿。
反射的に笑みを浮かべれば、何故だか慌てたように視線を逸らされる。
──何か、既に根回し済みで、私が来ることを歓迎していない……とか?
唇に指を当てて考え込む姿に見惚れている者が多数だったが、アリスだけは気付くことはなかった。
神殿の奥まったところへ移動して、ふとざわめきが耳に入ってくる。
「あれは……」
──ルチア様。
数人の男性に囲まれている姿。恭しく手を取られた彼女はさながらお姫様のようで。
薄い桃色を基調とした妖精の羽のような布地がヒラリと彼女の動きに合わせて舞う。
「私、外に出ることが出来ないので皆さんが傍に居てくれて嬉しいです」
ふんわりと笑うルチアは分かっているのだろうか。周りにいる男性たちには既に婚約者が居るということを。
「ルチア様が笑顔になって下さるのなら……俺は……」
「でもここまで来ていただいたら、婚約者の方が何か言ってくるのではありませんか? 私は皆さんが責められるのは嫌なんです」
「なんてお優しい。いえ。誰にも文句は言わせませんよ」
彼女を中心として、ほうっ……と溜息にも似た恍惚さえ含む吐息が男たちから漏れる。
「私は貴方たちを信じます。私に会いに来てくださる貴方たちを」
聖女のような包容力のある微笑み。それはさながら自らを愛する者たちへの肯定のようにも思えた。
──普通の令嬢なら。婚約者が他の女性へと目を向けていたら何か物申すはずだわ。
彼女は慈悲深い聖女のような言の葉を発しているが、男性たちの婚約者への気持ちに寄り添ったような言葉は一切なかった。
自らの傍に侍る男性たちへの肯定と、危惧。
あくまでも、中心にいるのはルチア。
自分に望みの言葉をかけてくれる存在しか認めていない……気がする。
アリスが感じた第一印象がこれだ。
──それにしてもあからさますぎないかしら?
もっと上手くやるだろうと思っていたのに。あんなに頭の中がお花畑だとは思ってもみなかった。
その純粋さがどれだけ人を傷付けているかなんてきっとルチアは永遠に理解しないに違いない。
アーネストは──いや、世の男性たちは気付かないのだろうか?
それともこれは考えすぎなのか、純粋さにその狡猾さすら覆い隠されているからなのか。
「あ、アリス様……」
ルチアはアリスを目に入れた瞬間、大袈裟ではないかと思われるくらいに、その細い肩をビクリと揺らした。アリスの視線から避けるように顔を俯かせ、上目遣いで隣の男性を見つめて、その袖を軽く掴む。
数人の男性たちの咎めるような視線がアリスを苛む。
純粋でか弱いルチアを虐めに来たのか、とその目は言っていた。
──いきなりこちらが悪役なんて、随分な態度だこと。
怒りを通り越して呆れてくる。アリスはルチアに対して、反発的な態度や批判的な態度は取ってはおらず、アーネストとの仲睦まじい姿を見てしまっても何も咎めていない。
怖がって怯えるということは、ルチアは自覚しているのだ。婚約者のいる男性に気安い振る舞いをしてしまっていると。その態度が明白に現している。
守りを固めるように男性たちがルチアの前に出て、こちらをただ睨みつけている。
「ルチア様。御機嫌よう。好奇心でこちらまで押し掛けてしまいましたわ」
機嫌良さそうなアリスに拍子抜けしたのは男性たちで、ルチアはまだ怯えるように隣の男性の袖を掴んでいた。
「驚かせてしまったようですわね。突然の訪問でしたわね。さすがにご無礼を働きました……」
「私に、何か用ですか?」
警戒心を抱き、毛を逆立てた猫のごとく問いかける少女は可憐だった。庇護欲を刺激され、思わず世話を焼きたくなるのは言わずもがな。
──アーネスト様はこういう女性に弱いのかしらね。そういえば私はここまで可愛い態度をしたことがなかったかもしれない。
「精霊の声が聞こえると耳にしたもので、やはりこの国の人間としては気になってしまいましたの。アーネスト様は詳しくお話にならないし、猪突猛進にもここまで来てしまったのは不躾でしたわね……。私は一度出直して参りますわ」
出直して来るという言い訳。様子だけ見てさっさと帰ってくる方法として不自然ではない対応はないかと考えた末に、このわざとらしい対応になってしまった。
公爵令嬢自らを失礼を詫び、引き下がってしまえば相手方は何も言えなくなるからだ。
「えっ、でも今聞きますよ。なんか悪い気がして……」
周囲の男性たちを見回しながら答える彼女。
なるほど。手出しは出来ないと。そういうことか。それは遠回しの牽制だ。
それにしても、彼女には貴族の一般的な反応を期待してはいけないらしい。
すごくやりにくい。すぐに帰る予定だったというのに。
気が付けば、彼女の自室へとお茶が運ばれ男性たちが後ろに控えながらのティータイムへと移行していた。
──何故、私はルチア様とお茶をする羽目になっているのかしら?
神殿だというのに、支給される茶葉は最高級。王室御用達でも遜色ないだろう。
しばらくティーカップを傾け、お皿の装飾をぼんやりと眺めていれば、幾分か緊張したルチアの声が響く。
「アリス様が来られたのって、その……アーネスト様のことですよね?」
唐突にぶっ込まれた内容に動揺しつつも、表面上は平静を装い、こう問い掛けてみる。
「何故?」
心底何のことだか分からないといった目を向けて小首を傾げれば、彼女が動揺するのが、分かった。
「何って……」
声が詰まっているルチア。それはそうだ。アリスは相手が答えにくいと分かっていて、この質問をした。
どう答えても角が立つ。アーネストと仲良くしているから、とここで答えられる令嬢は肝が座っているだろう。
「その何か言いたいことがあるのかと思って……」
あくまでもこちらから言わせる気なのか。きっと彼女は無意識なのかもしれないけれど。
溜息を一つ飲み下す。
そもそも、人の婚約者に馴れ馴れしくしておきながら、自重しようともしない時点で、この令嬢とは根本的に合わない。
「今、私から貴女にお伝えすることは特にありません」
「え?」
予想外と言わんばかりの呆けた表情に苦笑した。貴族たちの間では色々と噂が立っていたに違いないのだ。だから、彼女もアリスを無意識に警戒する。
「噂なんていつの間にやら消えていることでしょう。私がここまで来たのは寄り道みたいなもの。ほんの少しの好奇心と気まぐれが重なっただけですわ」
悪戯めいた笑みをそっと浮かべれば、目をぱちぱちと何度も瞬きさせているルチア。
貴族の駆け引きも何も知らない彼女だけれども、なんとかやって行けそうな図太さがある。
「ですが、どうやらお邪魔のようですので、私は失礼いたしますわ。またお会いしましょう」
二度と会いたくはなかったけれど。
アーネストがアリスとルチアを会わせることを渋っていた理由が少し分かったような気がする。
将来の王妃になる婚約者が、よりによって聖女と揉めるなんて醜聞も良いところだ。アーネストがなんとも言えない表情をしていたのも頷ける。
アーネストは、アリスとルチアの仲が悪化しないように気を張っていたのだろう。
そういえば貴族の間では、三角関係だのなんだのと噂する者も居た。
そしてアーネストの懸念通り。
──彼女と私は徹底的に合わないわ。
というアリスの個人的な事情とは裏腹に、貴族同士の交流は持たなければならないため、当然定期的に夜会は行われる。
いささか気分は落ち込み気味だが、そんなアリスとは裏腹に婚約者はとても上機嫌のようだった。
エスコートのために差し出していた彼の腕に、アリスがそっと手を添えれば、何やら彼は嬉しそうに頬を緩めた。
こんなの期待しそうになってしまうのに、なんて残酷な方なんだろう。
捨てることが出来たと思っていた彼への恋心。それは、ふとした瞬間に蘇りそうになってしまう。
──あれだけズタズタに引き裂かれたじゃない。あれだけ痛い思いをしたじゃない。私は迂闊で懲りない女だわ。
「アリス。その……」
アーネストは何かを告げようとしてこちらを伺っている。どこか緊張した面持ちで。
「そのドレス……似合」
「……? 似合いませんか?でしたら次回はもっと控えめなものにさせていただきますね」
「いや、そうじゃな……っ、いや、なんでも」
最近、彼の様子がどこかおかしい気がした。前々から婚約者にしては距離がある方だとは思っていたけれど。
「後で、時間をくれるかな」
「はい? 構いませんが……」
「アリス、君に伝えたいことが……」
真剣な瞳で見つめられて、思わず逸らしそうになった瞬間のことだった。
慌てて走ってきた執事の強ばった表情。
「殿下。その、ルチア様が……」
「今はアリスをエスコートしているところだよ」
「それはお伝えしました。アリス様というご婚約者様がいることも。ですが、どうしても不安だからと引かないのです」
聖女という立場上、あまり強く拒むことが出来なかったと見える。
「……はぁ。かの令嬢は何をお望みだって?」
「ダンスを踊って頂きたいと申しております」
盛大な溜息がアーネストの口から漏れた。
困り果てて、天井を仰いでいる彼を見て、ふいにアリスの中に諦念の思いが湧き上がってくる。
──煩わしいことになるのはごめんだわ。
「アーネスト殿下。どうぞ、行ってくださいまし。私は適当に時間を潰しておりますから」
アーネストの返事も聞かずにサッと身を翻す。無礼な作法だとは分かっていたが、彼の安堵したような表情なんか見たくなかっただけなのだ。
結果、その日のアーネストのファーストダンスは彼女のものとなった。
アーネストは拒否することもせずに、彼女のダンスの要求に唯唯諾諾と従った。二回目のダンスも三回目のダンスも。
まさかダンスの回数に頓着しないなんてことありえないと思っていたが、そのまさかで。
彼らは周囲のざわめきを気にしていないのか?
釈然としないままも、彼らを見守ることしか今のアリスには出来ない。
なるべく彼らに関わらないうちに安全にフェードアウトするのが当面の目的だった。
この結婚は白紙にはならない。だが、ルチアの存在は未知数だったからこそ、アリスは正妃から外されるのも甘んじて受ける覚悟が出来ていた。
だからまさかアリスはこんな失敗を犯すつもりなんてなかったし、こんな展開も予想していなかった。
「嫉妬で聖女様を虐めるなんて、程度が知れてるわね」
「アーネスト殿下との婚約も分不相応よ」