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仲の良い婚約者とは何だろう? 今まであまりお互いに干渉して来なかったからよく分からないけれど、とりあえず二人でルールを決めることにしたその日の夜。
「仲の良い婚約者の振りをすることは了解しましたが、協力するに当たり決め事をいくつかよろしいですか」
ベッドに座ったアリスは傍に立っているアーネストを強い視線で見上げる。
若干彼はたじろいだが、すぐに答えた。
「うん。協力して欲しいと頼んだのは僕だからね」
「男に二言はないですわね?」
言質は取らせてもらった。
文句は言わせやしない。
「まず一つ目。お互いに嘘は吐かないこと」
「当然だね。何かおかしなことがあったら報告するようにしよう」
これは当たり前の条件。問題はもう一つの条件だった。
「殿下は私に触れないこと」
「は?」
アーネストは一瞬惚けた顔になるが、すぐに気を取り直し、恐る恐る問いかけてきた。
「つまり、お触り禁止ということ?」
「肩に触るのも、腰に触るのも、手を触るのも、頬に触るのも、髪に触るのも禁止です。そういう接触をする際は私から触れますので、殿下は何もしないでください」
触れられるよりも、自分から触れる方がまだマシというものだ。
「逆に不自然になるような気がするんだけど」
「殿下は目で語ってください」
「無茶ぶりすぎる……」
確かに無茶な要求をしてしまったことは自覚しているが、あまり触れられるのは遠慮したかった。それに。
「私の許可を得ずに策を始めた殿下も悪いですわ。こちらは殿下の策に協力する立場なのですから、配慮をしてもバチは当たらないのではないかしら?」
「……分かった」
それを言われてしまえば、弱いのだろう。
何やら言いたげにしながらも、彼は唯唯諾諾と従った。
「まさかそう来るとは思わなかった……」
「当然の権利ですわ。許可なく触れたら承知致しませんわよ」
立ち上がって、彼の耳元で呟けば困惑したような気配。
「ええとアリス……」
アーネストが声をかけてきた瞬間のことだった。
コンコンコン、と二人が居る部屋のドアをノックする音が聞こえた。
「あら、お客様ですわね」
「ご歓談のところ申し訳ございません。殿下にお手紙が届いております。今、お持ちしておりますが」
「うん。入ってきて良いよ。……っ!」
部屋の外からの声にアーネストが答えた瞬間、アリスは彼をベッドの方向へ突然押した。
受け身を取ったアーネストはひっくり返ることはなかったが、ベッドに腰掛けた状態になった。
「アリス? 何を……」
「しっかり合わせてくださいね」
──思い切りすれば平気よ。
執事が入ってくる前に、アリスはアーネストの膝の上に自ら乗り上がって、彼の肩に顔を埋める。充満する彼の香りと、膝の上の適度な柔らかさに身体全体が感覚器官になったような気がした。
──やっ。こんな体勢……。
服越しに触れたお互いの身体が熱を持っているような気すらした。危うく立ち上がろうとする前に自らを叱咤する。
戸惑ったアーネストが身動ぎした瞬間、アリスも全身をビクリと揺らせば、アリスの髪がふわりと広がって、彼女の細い肩に再びかかった。
──思い切り、良く。
その手をそっと青年の腰に添えて、あえてにっこりと笑ってみる。
もちろんアーネストは、突然のアリスの行動に目を白黒させていたが、
「失礼致します。殿下に手紙……が!?」
やがて入ってきた若い執事の驚く声と共に、動かなくなってしまったので、アリスが代わりに答えた。膝の上に居たまま振り返れば、ベッドのスプリングが僅かに鳴った。
「ありがとうございます。そちらの机に置いて頂ける?」
「は、はい! ……ええと」
慌てている若い執事に、この僅かな時間に気を取り直したらしいアーネストは、鷹揚に見える態度でもって声をかけた。
「ご苦労様。後で目を通しておくよ」
アリス越しに艶然とした笑みを浮かべたアーネストに、執事はさらに赤面して「失礼しましたあ!」と慌てて頭を下げている。
アーネストは、約束通りアリスに一度も触れることなく更に演技を続けていく。
アリスの手がたまたまアーネストの腰に回っていることを確認すると。
「ふふ……アリス、擽ったいよ。そんなところに触れるなんて、いけない子だね。……ああ。ごめん。僕らのことは気にしなくて良いから」
蕩けそうな甘い声でアリスを愛おしそうに見つめている彼は、さながら恋をした普通の青年にも見える程だ。これが演技には見えないくらいだった。
とって付けたような執事への言葉はアリスからしたら胡散臭いが、完成度としてはなかなかだったようで、若い執事はこくこくと何度も頷くと全身を真っ赤にして出て行った。
「アリス。……突然すぎだよ」
目の下と耳を赤く染めたアーネストは、困惑しながらも窘めてきた。
「その言葉そのままそっくりお返ししますわ」
「ああ。うん、ごめん……」
反省はしているらしく、それ以上彼からの文句は出なかった。
「これで後戻りは出来ませんわね」
アーネストから身体を離し、距離を取りながら、アリスは不貞腐れていた。
──気を取り直すのが早すぎだわ。もっと困れば良かったのに。
我ながら性格が悪いと自覚しているが、今日アーネストが仕出かした数々の行いの仕返しをしてやりたかったのだ。
もう少し戸惑ってくれれば、アリスも溜飲を下げたのが、生憎アーネストは困惑していても冷静だった。
「何故、君はそんなに不機嫌なのかな?」
「殿下の反応が面白くないからですわ」
「理不尽すぎる……。まさかアリスに押し倒されるとは思わなかった」
どこか恥ずかしそうに言うアーネストに若干イラッとした。
「演技はこのようなものでよろしいですか?」
「うん。十分すぎる程だよ。……ただ、少し刺激が強い……」
「口の中で話すのは止めてください。何を仰っているのか全くと言って良い程分からないので」
「いや、大したことではないというか……」
先程までは余裕な大人の雰囲気を出していたというのに、人の目がなくなった途端これだ。
演技力があること自体はすごいが、ソツなくこなすアーネストを見ていると、アリスの負けず嫌いに火がついた。
──私に触れずにあそこまで恋人っぽく接することが出来るなんて。
まるで本当にアリスのことを好きなように見えたくらいで。
「女性の敵ですわね、殿下。思わせぶりな態度で女性を惑わす……。最低ですわね」
「何故、その結論になったのか大体予想つくけど、酷い風評被害だと思う」
真顔で、どこか目が虚ろにも見えなくもない。
数秒目を伏せた後、アーネストはアリスに真剣に向き直った。
「アリスが相手だから僕は上手く出来たんだと思う」
真摯な眼差しと一緒に、目の奥に火傷しそうなくらい熱が篭っているのが分かる。
──何かに熱意を燃やしている?
最近見慣れた彼の視線の意味は今日も分からない。前にどこかで見たことがあるような気もするが……。
「お世辞はけっこうですわ」
アーネストに触れるのに躊躇いかけたアリスと違い、完璧な振る舞いだった彼に褒められても微妙な気分になるだけだった。
──私の方が上手く対応出来なかったというのに。
ただ自分自身の大人気なさを露呈させてしまっただけ。
「そういう意味じゃなかったんだけどなあ」
アーネストがポツリと、今度は部屋中に聞こえる声で呟いた。




