26
木になっていた実が落ちる。そんな単純なことすら出来ずに、木の実は空中で静止している。
アーネストと少年は固まっていて、ピクリとも動きやしない。
──まるで時が止まったよう……。
いや、止まっているのだろう。
こんな魔法みたいなこと。
黒猫は何故動けているのか、それも気になった。
「にゃあ!」
黒猫はアリスの足に、前足でちょいちょいとちょっかいを出している。
動かないアリスを焦らすように。
「あ……」
動いているのは黒猫とアリスだけだ。
「にゃーん……」
「分かったわ」
そのまま留まっていても何も分からないままだ。
せめて確認しなければならないだろう。
音も立てずに黒猫が優雅に歩いていく後を、恐る恐るついて行った。
途中すれ違う人々も皆固まっていて、先程アリスたちが居た炊き出しの場も、皆石像のように固まったまま。
「にゃ!」
尻尾でぺしりと叩かれて、黒猫の方を向けば、ルチアが民衆に手を振ったまま固まっているのが目に入った。
「ルチア様も固まっているということは……。これは彼女の仕業ではないのね」
ルチアの満面の笑み。先程、いたいけな少年を傷付けてしまったことは何とも思っていないのだろうか。
──人は知らない間に誰かを傷付けるのね。ルチア様は男の子の事情を知らなかったとはいえ……。
自分も知らない間に誰かを傷付けているかもしれない。それはとても恐ろしいことと同時に、人間社会ではままあることなのだ。
「にゃー!」
考え込んだアリスに痺れを切らしたのか、「早く来い」と言わんばかりに、黒猫は尻尾をぺしたんぺしたんと地面に叩きつけている。
慌てて後を追えば、貧民街の中へと足を踏み入れていた。
「これは……」
アリスが見たことのない光景。地面に座り込み、ゴミを集めている少女や少年。
がりがりに痩せ細ってうつろな目をしている大人。
ルチアが居たあの場所に居た人々はほんの一部だったということが分かる。
思わず息を飲んだアリスに声をかける青年が居た。
黒いフードを被った魔術師。アリスにとってはおなじみの存在。
「アリス嬢。お久しぶりですね」
「マティアス? どうしてこんなところに……」
アリスの協力者である魔術師であるマティアスが現れたことで納得した。
「この現象は貴方の魔法だったのですね」
本物の魔術師はこんなことも出来るのかと羨望の目を向ければ、彼はゆるゆるとかぶりを振った。
「いいえ、それが違うんですよ。さすがに私一人じゃ、ここまで事象を改変出来る訳がありません。魔術師っていうのは意外と不便で、制約もあるので」
「そうなのですか? 私はてっきり、この黒猫さんは貴方の使い魔で、魔法を使ったのだとばかり」
そう解釈するとしっくり来たのだが、違っていたのか。
「うーん。状況的にそう見えるかもしれませんが使い魔でもありませんよ。……それに私が連れている訳でもない」
ならば、今の状況は何なのだろうか?
「この現象はもっと高位の存在が干渉したのだろうと解釈することにしましょう。……私とアリス嬢だけが動けるのは、魔力を持っているからではないですか?おそらくは」
「マティアスにも分からない現象ですか……」
「……うーん。えーと……」
何やら要領を得ないような曖昧な反応。
これ以上は何も求める答えは得られないような気がした。
──少しはぐらかされた気もしたけれど、気の所為かしら?
少し気になったことがあったが、相手が言うつもりのないことを聞き出そうとするのは、どうかと思ったので、とりあえず置いておく。
──私に必要なことなら、仰ってくれるはずよ。そういう約束なんだから。それに、しつこくしすぎて信頼を失うのは元も子もないわ。
「庶民から貧民層まで調べ回って居た時に、炊き出しの話が耳に入ったので、来た次第ですよ、アリス嬢」
「私も少し気になったので出向いたのです」
「面白いことになっていますね。庶民たちの間では、似非聖女の悪評が出回っているとかで。今回の炊き出しで粗が見つかるかと期待していましたが、思惑通りと言いますか。こちらとしては任務達成しました」
アーネストもそうだが、アリスの周りの男たちはルチアによっぽど恨みがあるのだろう。
──策を弄しすぎる気がするわ。まあ、今までのルチア様を見ていたらそうなるのも当然だけど。
「何をされたのですか?」
「似非聖女が子どもを突き飛ばしたでしょう。あの光景を私の知り合いに見せるだけの簡単なお仕事です」
──マティアスの知り合い。
察するに普通の知り合いではないことが分かる。その知り合いに見せるだけで、お仕事完了という手軽さが、逆にその人物の異常さを表している。
その人物に見せるだけで、何かしら周りに影響を及ぼせるということなのだ。
──たぶん……あまり関わらない方が良いのかもしれないけれど、場合によっては大きな力になるかもしれないわね。
アリスとしては知らないままで居たいが、いずれ何かしらの効果として現れてくるのだろうと思う。
「そういえば、似非聖女の悪評を広めてくださってありがとうございます。殿下共々、ご協力頂けるとは!」
「あれは成り行き上、仕方なかったのですわ」
「とても助かりましたよ。私の策との相乗効果を狙えるので。……そうそう。アリス嬢に調べて頂きたいことがあるのですが」
マティアスの依頼内容を聞いて、アリスは絶句した。
「それはさすがにないのでは? それは、もう国として終わってますわよ」
「似非聖女はそういうことだけは得意ですから、その可能性は……なきにしもあらず。まあ、杞憂ならそれで良いのです」
「他の方にも相談してみますわ」
さすがにそれは杞憂であって欲しいと願いつつ、マティアスと別れた時には、周りの異常も治まっていた。
貧民街の入口に立ったまま、黒猫を探すが、またもや姿を消していた。
「さすが、猫……。自由きままね」
独り言を呟いたところで、ふとマズイことに気付く。
──私、殿下と護衛の人を撒いてしまったわ!
先程まで居た場所は、ここから少し離れた小さないきどまりの広場。
早足で戻りたくとも、ルチアに見つかる訳にもいかない。
貧民街の人々はアリスを興味深く観察していて、ようするに物凄く目立ってしまっている。
周囲には酒に溺れて酔い潰れ、一人で怒っている者も居て、少しだけ青ざめた。
──護衛もなしなのはまずいわ。
心配をかけてしまうし、無謀すぎる。まさか、先程の時間停止が早々に解けてしまうとは思っていなかった。
ルチアが炊き出しをしている姿が遠目から確認出来た時には、思わず安堵の溜息を吐いた。
──ルチア様から少し距離を取って先程の場所へ向かわなければ。
裏道へまず入り込もうとした瞬間、ぐっと腕を思い切り掴まれた。
「きゃっ!」
思わず小さな悲鳴を上げてから一瞬の後、アリスは誰かに抱き締められていた。
──だ、誰?
頭の中がパニックになりかけるが、ふわりと香ったのは馴染みのある香りで。
「で、殿下?」
「どこに行っていたんだ!」
大きな声にビクンと身を縮めれば、アリスの身体が軋むくらいに拘束されていた。
「本当に、心配して……っ」
「殿下……その…」
肩を掴む彼の手は震えていて、その声は掠れていた。
アリスが戻るまでどのくらいの時間が経過したのか。おそらくアリスが思っているより長い時間、行方不明になっていたのかもしれない。
抱き締めたまま、アーネストは何も言わずに、荒い息を整えているだけだった。
「今日は、もう帰ろう。これ以上は無理だ。後は、影に任せる。僕も少しは状況を把握出来たから問題はないだろう」
焦燥を滲ませた余裕のない声から、随分と心配させてしまったことが分かった。
「殿下。ご迷惑をおかけしてしまい……」
「謝る必要はない。……街へ出て、馬車を拾う」
素っ気ない言葉とは裏腹に、肩を抱く彼の手はアリスを決して離そうとはしなかった。
アリスから何も聞こうとしないまま。




