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「殿下?」
慌てて空き家のドアを開けば、殿下は子どもが走っていった先を確認しているところだった。
「いなくなったかと思いましたわ」
「アリスを一人置いていく訳がないだろう」
笑いかけられて、そっと帽子越しに頭を撫でられる。宥めるような物言い。
──気安いのね。……なんとなく不愉快だわ。
気安く触れられることがあまり好きではないアリスは、アーネストの手を払う。
「知っておられますか、殿下。女性が頭を撫でられるのを許すのは、好きな男性だけですのよ。殿下は今まで拒否された経験がないから実感が湧かないかもしれませんが」
触れられることに躊躇いがあるというよりも、なんとなく不愉快だっただけだ。
自分なら触れることを許すだろうという、アーネストが無意識に抱いている小さな傲慢さだろうか。
アリス自身、自らを安売りするつもりは毛頭なかったから、気安い態度は腹が立つ。
──こういうところは本当に可愛げがないとは我ながら思うけれど。
それが些細なことだとしても、アーネストに対しては反発心を抱きやすいことも自覚している。
それと子ども扱いされているように感じてなんとなく嫌だった。
──いい加減にしないと。
まるで駄々をこねる子どものような自分も気に食わない。気に食わないことだらけというのも自己嫌悪だ。
「ごめん」
些細な接触すら拒むのかと怒られることも覚悟で言ったが、アーネストは寂しそうに笑って、謝るだけだった。
「……今はこんなことをしている場合ではないですわね。殿下、先程の男の子の後を追うんでしょう?」
「うん。そのつもりだ。一緒に来てくれる?」
「異論はないですわ」
アリスも彼の後ろ姿を見て妙に気になってしまった。
今までのエスコート習慣か、やはり腕を差し出すアーネストにアリスは素直に応える。
腕に手をそっと添えると、ほっと安心したようにする彼は、本当に繊細だと思う。
「使用人とお嬢様のお芝居はもうよろしいのかしら?」
リードする時点で違和感しかないが、彼は苦笑するだけ。
ようするに、なかなか習慣は抜けなかったのだろう。
先程、男の子が駆けて行った道をアーネストは迷いなく進む。
「なるほど。人気のない通りに通じる道はそこだけですものね」
「アリス、この辺りの土地に詳しいの?」
「抜け道、裏道まで予習してくるのは当然ですわ、殿下」
「さすがはアリス。本当に真面目だ」
「殿下も分かっていらっしゃる癖に白々しいですわ」
つんっと顔を背けて見せれば、彼はおどけて言った。
「前から言おうと思っていたけど、君がそうやってツンケンしたところで可愛いだけだよ」
「……私の神経を逆撫でして楽しまれているのかしら? 悪趣味だこと」
軽く言い合いをしている間も、アーネストの腕に手は添えたまま。
奥の道までゆっくり歩いていれば、やがて行き止まりの小さな広場のような開けた空間に出る。
空き地か何かのようで人気は全くない。
そこに男の子はしゃがんで蹲っていた。
「殿下」
アリスが手を離して一歩下がると、アーネストは少年の方へと向かっていく。
「君は何も悪くない」
突然かけた言葉に少年は勢いよく顔をあげる。
まさか誰かがここに居るとは思ってもみなかったようだ。
「お兄ちゃん、誰?」
ぼんやりとした声は涙声で、その痛々しさにアリスは唇を噛む。
「僕はそちらに居るお嬢様のお手伝いをしているしがない使用人だよ」
──その設定、まだ続けるのね。
まだ止めていなかったのかと呆れ果てる中、アーネストは少年の目線に合わせてしゃがんだ。
「どうしたの?」
「僕は汚いんだって」
ぽつりと呟く声には覇気がなかった。
涙がとめどなく流れる男の子。歳はまだ一0にもならないくらいだろう。
──彼にとって汚いは禁句だったのね。
普通はそんな泣き方はしない。しゃくりあげることもなく、静かに涙する姿は子どもらしくない泣き方で。
「そんなことはない」
「本当のお母さんにもそう言われて、気付いたらここに居たから嘘じゃないよ」
「……そうか。お母さんはそう言ったんだね」
「うん、だから」
少年は俯きながら、自らを貶めるような言葉を口にしようとしたが。
「汚いなんて誰が決めるの?」
アーネストはそう一言だけ告げると、子どもの頭を撫でる。
虚をつかれた様子の少年は恐る恐る答えた。
「……偉い人とか?」
「綺麗か汚いかなんて、それは人に決められることではないよ。むしろ偉い人なんか真っ黒だ」
アーネストの言っていることは真実だと思う。他人の評価や価値を付けられる資格のある人間なんて、この世には存在しないのだから。
「でも聖女様にも言われたし。僕は汚いから他の人と仲良くなれないのかもしれない」
「むしろ、……汚い、なんて人に向かって言って、追い払おうとする人とは仲良しにならない方が良い」
男の子が顔を上げる。
「それは、汚い人を見分ける一つの方法だ。むしろそれを言って追い払おうとした人を可哀想に思うくらいで良い。だから聖女様も綺麗な人ではないんだよ」
「聖女様のことそういう風に言うなんて、お兄さん、精霊様に怒られるよ?」
「別にどうでも良いかと思って」
あっけらかんとして言うアーネストに、子どもは小さく笑う。
「お兄さん、変な人 」
「うん、否定はしない」
ぽそりと言われた毒舌にアリスは小さく吹き出した。自分で認めてしまうなんて。
──やはり殿下は少し変わった方よね。
「このお嬢様を笑わせてくれたのだから君はすごい子だよ。僕は怒らせてばかりだよ」
「お兄さん、うだつの上がらない人?」
「……」
その一言でアーネストは撃沈したようだ。
アリスは撃沈したアーネストに代わり、そっと近付く。
「聖女様も結局のところ人間だから、彼女に言われたことは絶対ではないのよ」
「本当に?」
「ええ。だから、皆から逃げなくても大丈夫。何事もなかったように帰れば良いわ」
あの一件は、ルチアの評価を下げることになっただろうが、ルチアの能力でそれは全てなかったことになっているだろうと思う。
──あ、でも……。ルチア様の言うことは絶対!みたいな空気になっていたりはしないわよね?
そうなると男の子が悪い訳でもないのに何か言われる可能性も?
確認して来た方が良いだろう。
幸いにもアーネストだけではなく、アリスも見えないところから護衛されているだろうから、今少しだけ様子を見に行っても良いかもしれない。
ちらりとアーネストを見やる。
──この子の前で理由はあまり言いたくないけど、確認してくるなんて言ったら二人とも付いてきてしまうわよね。
もし、事態が酷かったらなんて考えたくもない。
「にゃあ」
アーネストが少年と話している間、足下に見覚えのある黒猫が擦り寄っていた。
「え? 何故ここにいるの?」
連れてきた覚えもない黒猫。この黒猫は時々見る、アリスが知っている猫だろう。
鳴き方も仕草も寸分違わない。
音を立てずに猫が走っていく。時折、こちらを振り向いている仕草は、まるで。
「ついて来てということ?」
アーネストと少年の方をチラリと見遣る。
「え?」
何故か二人は石像のように固まっていた。
アーネストが子どもを撫でようとしたその瞬間のまま切り取られたようだった。
「どういうことなの?」
「にゃあ」
音もない空間に猫の声だけが響き渡った。




