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 一番端の目立たない席、入口から最も遠い奥まった場所で、とりあえず飲み物とサンドイッチを二人分頼んだアーネストはアリスに耳打ちした。

「さり気なく噂を聞いていてごらん」

「噂ですか?」

「面白いことになっていると思う」

 何のことを言っているのか分からず、訝しげに見返せば悪戯めいた笑みを零すアーネスト。

 ──まるで子どもみたい。楽しそうね。

 しぶしぶ耳を澄ませば人々の噂話が聞こえてくる。

 下世話な話から、商売の話まで様々な話題の中、アリスの耳にある人物の名前が届く。


「そういえば、今日って聖女様の炊き出しの日だったんじゃないか?」


 その言葉を切っ掛けにして、周りの人々がざわめき始める。

 さぞかし好意的な意見が多いのだろうと思っていたら。


「聖女ねえ……。どんなにすごい力を持っているか知らないけど、聖女様も人間だろう? 最近出回っている噂を聞いているとあまり関わりたいとは思えんなあ」

 ──噂?

「とても可愛らしい人だとは聞いたけど、だからって寝取るのは駄目でしょうに」

 ──寝取る?

「そういう噂がある時点でなんだかなあ」

「それに王子殿下と刃傷沙汰を起こしたとか、なんとか」

「ああ! 私知ってるわよ! 私の娘が貴族様に仕えていてね。どうやら聖女様が一方的に王子に惚れてて、それが上手く行かなかったかららしいわよ」

 ──そんな噂が広まっていたの?

「物騒だな。それが本当か嘘かはともかく厄介そうだしあまり関わりたくないな」

「そうそう。狂女と専らの噂よ!」

 ヒートアップしていく会話にアーネストの方をチラリと見れば、彼はぷるぷると震えていた。


 笑いを堪えているせいで。


「噂だろう? それでも聖女様を慕う人は多いんじゃないの?何しろ、精霊様の加護を受けているし」

「寝取るって噂あるじゃない。媚薬みたいなものを使って」

 ある女性はルチアの行動が気に食わないのか、非難を込めて言った。

 ──彼女特有の魅了のようなものが媚薬として伝わっているのね。

 あながち嘘でもないところが怖い。

「奪った男の元婚約者のお嬢様たちは聖女様を敬っているとか聞くけどな」

「バッカ、何言ってんだよ。庶民が貴族を恐れるのと同じだって」

「そういえばそうか。バチ当たったら笑えないしな」



 はははははは!と他人事のように笑う店の客たち。

 実際、貴族の間のことなんて、他人事なのだろう。


「おい、嬢ちゃん。嬢ちゃんは聞いてないのか。聖女様の噂とか」

 ふいにお酒で顔を赤くした男性が話しかけて来て、アリスは目を瞬かせる。

 ──まさに渦中だと言ったら大騒ぎになるわね。ここは穏便に……。

 アリスが「知りませんわ」と口にする前に、アーネストが口を開いた。


「この方の婚約者は、聖女に洗脳されたみたいになって、おかしくなってしまったんですよ」

「……!?」

 ──何を仰るの!?

 あまりにもあっけらかんと答えるものだから、とっさに反応することもなく瞠目することしか出来なかった。


 案の定。近くにいた常連らしき男性やその奥方らしき人々は驚愕してこちらに詰め寄った。

「お嬢ちゃん、聖女様に酷い目に合わせられたんだね!?」

「噂にしては大袈裟だと思ってたが、真実だったとは!! そこの兄ちゃんは、婚約者に裏切られた嬢ちゃんを望まない結婚から連れ出したという訳か!」

「泣かせる話だねー!」

 周りからがやがやと人が集まってきて、二人を取り囲む。

 興味津々といった様子で好奇の目が一斉に向けられて目眩がしそうになった。

「僕はいずれ彼女と式を挙げる予定です」

 動じることもなくアーネストは次から次へと新たな物語を紡いでいく。

 ──なんで、そんな嘘ばかり!

「っかー! まるで舞台か何かを見てるようだ!」

「二人はどこまで進んでるんだい?」

 ──どこまで進んで!?

 こういった質問に免疫のないアリスはすぐに真っ赤になって俯いてしまう。

 恥ずかしくて顔から火が出てしまいそうで。

「兄ちゃん、ちゃんと避妊はしろよ」

 ──ひ、ひに……!

 酔っているからかあまりにもあからさまなことまで口にしてくる男性。

 その後ろで「お幸せにー」と囃し立てる女性。

 ──皆さん、悪気がないのは分かってはいるけれど。

 顔だけでなく全身真っ赤になっているのではないかと勘違いする程、体温が高くなってしまって。

 ──無理。無理だわ!

「アリス? 大丈夫?」

 ここでアーネストがアリスの異変に気付いた。

 彼の声は周りの歓声にかき消されてしまってあまり聞こえない。

「……っ」

 アリスは目に涙をたくさん溜めて、今にも零れ落ちそうになっていた。

 ──だって、そんなはっきりと夫婦の話をするなんて思わなかったんだもの。

 これは羞恥の涙だった。

 涙がぽろぽろとこぼれ落ち、反射的にまずいとは思ったけれど、案の定、人々はアリスの涙に気付いてしまう。


「え!? お嬢さん? どうしたの?」

「おお?! ……おお……」

 目の前に居る人々が困惑しているのを涙の雫ごしに見て、アリスの冷静な部分が瞬時に判断した。


「……ごめんなさい。悔しかったことや、嬉しかったことを思い出してしまって……感極まってしまいましたわ」


 アリスは泣き笑いの表情で答えた。それは幸せに見える花嫁のように。

 世界一幸せな女の子に見えるように。


「お嬢さん、これからは幸せにしてもらいなよ」

「そうだよ!これからは二人で生きていくんだからさ!」

 二人を祝福する空気に包まれたところで、上手く誤魔化すことが出来たことを確信した。


 ──せっかく殿下が自ら潜入しているのに、危うく台無しにするところだったわ……。


 涙を拭っていれば、申し訳なさそうな表情のアーネストと目が合った。


 しばらくは口を聞きたくないし、許せそうになかったが、今の状況を考えてぐっと堪える。



「それにしても、このお嬢様の様子からして、どうやら噂は本当っぽいよね」

 部屋の隅っこにいた若い女の子がぽつりと呟いた。

「しかも、どうやら泣き寝入りするしかないみたいだしな。聖女様が相手では諦めるしかないよなあ」

 男性の言葉を聞いて、女の子は納得がいかないと言いたげに言い募る。

「でもさ、その聖女様も性悪だよね。この国では散々清廉っぽい印象で売っときながら、実質それだよ」

「お前、前から聖女様嫌いだったよな」

「だって、今日の聖女様のお言葉って配られてくるけど、どれも良い子ちゃんの言葉で気に入らないんだもん」

 神殿は、聖女のありがたい言葉を冊子にして配ったりしていると聞いていたが、支持者はあまり居ないのだろうか?

 貴族社会だとあんなにも崇拝されていたのに、この落差。

 ──やはり、実際にルチア様を見ていないからかしらね。

「まあ、結局のところ、俺たち平民には関係ない話だしな。俺たちは食い扶持稼いでくだけだ。上のことは知らないしな」

「聖女様のことは、普通にすごい人なのかと思ってたけど、精霊様の加護を受けるには値しないよなあ」

 平民たちは聖女をあまり信仰していないとしても、富裕層である貴族たちが国を回している。──その貴族たちが悪影響を受けてしまっているから、問題なのよね。


 だが、町民たちの持つ聖女への悪感情も高まっていけばあるいは……。


 隣のアーネストをちらりと見遣れば、彼は満足げに頷いていた。

 少し得意げにも見えるが、ありていに言ってしまえば悪い笑みとでも言おうか。

 悪役か何かにしか見えない。

 ふとアリスの頭の中に閃いたこと。

 ──まさか、ルチア様の風評被害はもしかして?


 

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