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 彼がアリスを『お嬢様』と呼んだのには訳がある。

「お嬢様はお忍びなんて普段されないから、どうやら不慣れなご様子」

「……」

 アーネストは使用人の格好をしていた。髪は黒のウイッグを被り、その派手な色を隠しており、高貴な雰囲気を隠さないまでも、どこか名門の有能な使用人に見えるのだ。

「え? 私の変装のどこが不慣れだと」

 アーネストはアリスの耳元へと口を寄せる。

「全てだよ。僕の婚約者だとは思わないだろうけど、深窓の令嬢が珍しくお転婆しているようにしか見えない」

「なっ……。だって、こんなにシンプルなデザインのドレスで……」

「そんな格好で居たら、悪い狼に食べられてしまうよ?」

 顔を寄せられ、注意喚起をするアーネストはどうやら抜け出すのに慣れているらしい。

「っ……! 近いですわ! 離れてくださいませ!」

 ぐいっと押しやろうとしても、彼の身体はビクともしない。

 彼はくすりと笑うとアリスの肩を引き寄せる。

「さあ、参りましょう。お嬢様」

「何の真似ですか。貴方にそんな真似はさせられな──んっ…」

 手袋越しの指がアリスの唇を軽く押さえる。

「静かに。どうか僕のことは内緒にしてくださいね?」

 自分より歳も身分も上のアーネストにこんな風に扱われるのは慣れなくて、身体中がむずむずした。

「今日の貴女は聖女の様子を見たくて屋敷から抜け出した困ったお嬢様で、僕は貴女に忠誠を誓う者です」

「や、やめてください! そんな恐れ多いこと!」

 何やら楽しげに微笑む彼は、この状況を大いに楽しんでいるようだった。別にお嬢様でも終始敬語の者も多いのに。

「さあ、表通りに出ますから、危険な発言はお慎みください?」

「そんなヘマはしません」

「何かお話したいことがありましたら、僕の耳に口を寄せてください。内容が内容ですから」

 この男、こんな大勢の前で何をさせる気だ。

「そんな恥ずかしいこと……」

「成程。それは僕のことを意識してくださってると受け取っても?」

 ぷちん。アリスの中で何かが切れる音がした。

「貴方なんかにそんなこと思う訳ないでしょ!調子に乗らないでください!」

 王太子相手に不敬を働いてしまったが、ムキになったアリスを見た彼は、小さく「可愛い」と呟いた。

「……」

 これは何を言っても無駄だと悟ったアリスは肩に回された手を乱暴に振り払って、じとりと睨み付け、ぷいっとそっぽを向いた。

「貴方にエスコートしてもらう必要はありません!」

 彼に背を向けて人の海へと潜り込もうとした。

 ──このまま人の中に紛れて撒いてしまいたいけど。

 なんとなく無理だろうなと思う。

 上手く通り抜けられる気がしないからだ。

 人の波に押されて前のめりになったアリスを、アーネストは守るように掻き抱く。

「こんな体勢で居たら、私たちが仲良しみたいではないですか」

「そう見せてるんですよ。貴女のボディーガードたちに。それにそろそろ僕の送った者たちが貴女の使用人たちに話をする頃でしょう」

 ──気付いてる。

「何を、するつもりですか?」

 思わず固くなる声。彼はアリスの耳に唇を寄せ、軽くキスをすると。


「後は僕たちがどうにかすると、ね」


 掠れた低い声にぞくりと皮膚が粟立った。その声音には、勝手をしたアリスを叱る響きがあって。

 その威圧感に気圧されたアリスの様子を見て、アーネストは申し訳なさそうに謝罪した。

「怖がらせて申し訳ありません。……ですが、お嬢様がお転婆なのがいけないんです」

「……」

 何も言えずに俯いていれば優しく肩を叩かれ、そっと歩きやすい方向へと誘導されていく。

 慣れない商店街を歩きながら、アリスは傍らにいる青年にしか頼ることが出来なかった。

 足が縺れたアリスをアーネストは気遣って、歩幅を合わせてくれる。

 時折、羽休みと言わんばかりに分かれ道などで止まってくれている。

 ──こんなにも商店街が大変なんて思わなかった。

 もしアーネストがいなければ周囲に迷惑をかけていただろう。

 散々いきがっておいて、この始末だ。

 なんとなく羞恥心を覚えて、頬を真っ赤に染めていれば、声をかけられる。

「普段よりも混んでいるのは聖女効果でしょうね」

「普段はもっと人が少ないのですか?」

「そうですね。普段はここまでではないです」

「そ、そうですか……」

 正妃教育をしていたとしても、この場所で役立つことはなかった。

 人混みの歩き方なんて普通は習わない。

 それなのにアーネストが慣れている様子なのは。

「あの、普段から抜け出されているのですか?」

 アーネストはすっと目を逸らした。

「抜け出しているんですね……」

 エリオットがたまに、『殿下が懲りない』と愚痴っていたが、こういうことの積み重ねなのかもしれない。エリオットは既に諦めていた節がある。

「この後の予定ですが」

「はい? 向かう場所が?」

「民衆の反応を見るのに良い場所があるのですよ。情報も集められますし。本来ならご令嬢をお連れする場所ではないのですが、貴女を一人にしたくはないですし、きっとお帰りにはならないだろうし」

 はあっ……と仕方なさそうに溜息を吐かれ、無性に癇に障ったため、思わず胸をどんっと押せば、「可愛い反撃ですね」と彼は余裕そうに微笑んでいた。

 ──決めたわ。これが終わったら殿下とはしばらく関わらないわ。

 不満そうなアリスを連れ、アーネストはある建物の中へと入った。


「いらっしゃいー!」

「好きな席へどうぞー」

 建物の中は賑わっていて、ウェイトレスと思われる人が二人を迎えてくれた。

「あの、ここは?」

「一般的な料理屋です」


「おっ。貴族のお嬢様か?」

「なんだって、こんなところに?」

 不可解だと言わんばかりの視線に、気まずくて身体を竦めた。

 アーネスト一人だったら使用人だと誤魔化すことが出来ただろうに、アリスが居るばっかりに目立ってしまっている。


 頭の中が真っ白になったアリスとは裏腹に、アーネストは流れるように言った。



「僕たち、駆け落ちするんです」



 ──何言ってるの!?



 あまりにも自然に吐かれた嘘に反応出来ないでいれば、周りから囃し立てるような声が聞こえる。


「おお! 兄ちゃんやるなあ! まさかお嬢様を連れていくなんて!」

「恋は身分差をも超えるってやつか!」

「お幸せにー」


 投げ付けられる言葉に真っ赤になっていれば、近くに居た四十代くらいの男性に背中をぽんっと押された。


「きゃっ!」

 倒れ込んだ先はアーネストの元で。


 ──前にもこんなことがあったような!?


 室内がさらに熱狂的な声に包まれ、アリスは顔が熱くて上げられなくなった。

 ──なんということなの……?


 思わずアーネストの胸元に顔を押し付けていれば、背中を優しく撫でられ、どさくさに紛れて抱き締められる。


「やっ……ちょ…!」

 離して欲しいなんて大きな声で言えなくて、小さな声でもごもごとしていれば。


「二人はもう結ばれたのかい?」

「そりゃあもう、アレだろう。大人の女になったんじゃねえの?」

 酒に酔ったであろう男性たちが思わぬことを聞いてきたのだ。


 顔から火が出そうになっていたアリスはアーネストを見上げる。


 彼も僅かに頬を紅潮させていたが、アリスにしか分からない変化だろう。声音は平然としたままで彼はこう答えた。


「それは彼女と僕だけの秘密ですよ」



「熱いねー!!」

「頑張れよー!」

 どっと、歓声が上がった。


 彼は情報を集めると言っていたが、この後どうするつもりなのだろう?


「心配しないで。大丈夫だから」

 耳元で再び囁かれる。

  ──殿下のせいでしょう!

 文句を千回言っても足りない。羞恥から涙目になっていたアリスはきっと下から睨み付ける。

 確かにアリスはアーネストに対して怒ってはいたけれど。

 演技ではない素の彼の声を聞いて、何故だか無性に安心してしまったのは絶対に言いたくない。


 とても屈辱だから。

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