19
後ろへ倒れそうになったアリスを支えていたアーネストはやがて、申し訳なさそうに手を離した。
「勝手に触れてしまってごめんね」
「いえ、殿下が謝罪される必要など……」
こちらは助けてもらったというのに文句を言う筋合いはない。お互いにとって不可抗力で、アーネストにとっては倒れそうになった女を助けただけなのだ。
「その……ありがとうございました。それと、失礼なことを申し上げました」
「それを謝るくらいなら、エリオットに伝える予定の話がどんなものか聞かせて欲しいなあ?」
アーネストは抜かりなく提案する。こちらが悪いのだから文句は言えるはずもなく。
だが、聖女の影響を受けているか受けていないのか分からないアーネストに話すのもどうなのか。
──この間は冷静だったようだけど、今日がそうとも限らないわよね。どっちにしろ、エリオット様を通せばハッキリするのだけど。
「大した内容ではありませんので、殿下にお伝えする程では」
「大した内容ではないのなら僕に言ってごらん」
「お伝えしたら、殿下の気分を害される可能性がありますし、必要性を感じません」
「僕が不快になる内容ならむしろ、大した内容だよね? その判断は僕がする」
「……」
聖女に心酔していなければ、特に不快になる内容でもない。単に民衆たちの様子を話すだけなのだから。
──今の殿下なら大丈夫な気がするわ。
押し黙っていれば殿下は複雑そうに視線を落とした。
「アリスが僕に何も話さないのは、僕がアリスに何も言ってこなかったからだと自覚している」
唐突に話題転換をされて唖然とする。
何やら真剣味を帯びた顔つきに、内心どきりとした。
「どちらか一方だけが真剣に向き合おうとしても、結局のところ一人だけじゃ意味がないんだ。昔、アリスは真剣に向かい合おうとしてくれていたのに、それを無下にしたのは僕だった」
アーネストと会話をあまりしなくなった……というよりも避けられるようになったのは、八年前か九年前くらいだった。その頃のアリスは確かに悲しみを感じていたのだ。
けれど。
昔の、お互いに国を良くしようというありふれていた、拙い約束。それを得てしまったアリスはアーネストに何も望まなくなった。
いや、違う。満たされたから、それ以上は望まなくなった。
約束をしたことに満足仕切っていた。
「アリス。実は少し前から君に聞きたいことがあったんだ」
「聞きたい、ことですか?」
思い当たることがなく戸惑っているアリスへと、アーネストは一歩踏み出して距離を縮めた。
思わず警戒して体を固くすれば、彼は切なげに微笑んだ。
「その反応は傷付くけれど、僕がそれを言う資格はないからね」
「何を仰っているのです? 聞きたいことはどういった……」
「僕がルチアの傍に居ると、思考がおかしくなるっていうことは知っていると思うけど」
「そ、そうですわね? 殿下だけではないのでお気になさらず」
「それでも僕が言ったことは消えない」
アーネストは何か言いたげな落ち着かない様子だったが、やがて決心したようにこちらを見据えた。
「前に、アリスがルチアに飲み物をかけたっていう話。本当は冤罪で、アリスは何もしなかったんだよね?」
──あの時は全く信じてくれなかったのに。
あまりにも今更な話に呆れそうになったが、それは彼の認識が改善したということ。それは喜ぶべきことだ。
「あの時は、ルチアが嘘を言っていないと理由なく信じていたけれど、今考えると明らかにおかしかった」
「そうですわね。あの時のルチア様は自作自演の悲劇の聖女でしたわ」
「最近は頭がすっきりとしているような気がする。アリスに僕があの時言ったことは、侮辱だったと今なら分かるよ。冤罪をかけられた相手に謝れって言っているようなものだ」
あの一件はアリスにとってショックの大きい事件だった。誰も彼も信じてくれる者はおらず、針のむしろ状態だったのだから。
だが、殿下にとっては不可抗力で、本人からすれば親切心のつもりで、アリスにアドバイスしたのだろう。──早めに謝っておいた方が良いと純粋に思ったから。それがアリスのためになると思ったから。
だが、それはアリスを追い詰める結果になり、二人の間に深い溝が出来た。
──確かに、あの時の騒ぎを治めるにはそれしかなかったわ。
結果的にはアーネストの言う通りになった訳だが、当時は絶望したものだ。
「許してくれ、なんて言わない。だけど、もし困っていることがあるのなら協力させて欲しいんだ。僕はアリスの婚約者として恥じない自分でいたい。今からでも」
「そこまで気負うことはないですわよ。今は全く気にしておりませんわ」
「そっか。でも悪いのは僕だから」
本当に気にしていないのに。
「今の私はあの時の私とは違いますわ」
悲嘆にくれていたアリスではない。アリスの恋心は既にここにはないのだから。
──過去の私が聞いたら泣いて喜ぶのかしら?
アーネストに謝られていても、今謝るくらいなら最初から何も言わなければ良かったのだと物申したくなるだけなのだ。
──私ってとても理不尽ね。殿下は……ルチア様と一緒に居たせいでおかしくなっていただけなのに、何故私は怒っているの?
驚愕、苛立ちなどの感情を笑顔の仮面で覆い隠しながら、アリスは向き直る。
「どうやら殿下は冷静そうですので、エリオット様がいらしたら、この話を再開ということでよろしいかしら?」
「構わないよ。……ありがとう。アリス」
「…………」
礼を言われる程のことでもないのに、アーネストは嬉しそうにそう言うのだ。
──本当に調子が狂ってしまうわ。
それに彼の様子から分かってしまった。彼の目に宿る後悔。自らを責めていることも彼の悔しげな表情から察してしまった。
だから少し動揺してしまった。
「殿下は、気にしていらしたのね。本当に私にはもうどうでも良いことなのに」
本当に。もう終わったことだ。
「……。最近、冷静になってから、あの時のことばかり思い出してしまうんだ。あの時はそれを正しいと思い込んでいたんだから、本当に戦慄するよ。それに冤罪なら、今からでも弁明することだって出来る。僕には、それが出来る」
「事を荒立てたくないですわ。せっかく穏便に済んだのですから」
それをアーネストも分かっているはずなのに。どうやら今の彼は自らの感情を優先させてしまっているらしい。
「大事なことだよ、アリス。君が疑われていたのだから。……僕が言える話でもないのは百も承知だけどね」
「アーネスト様はどうしてそこまで……」
何故そこまでするのか? なんて聞くのは、なんとなく躊躇われた。
聞いたら何かが変わってしまう気がした。
脳内にマティアスが言っていた警告が過ぎる。
『深く考えてはいけないよ』
そうだ。魔法の効果がなくなってしまう。
──私。また、こんなこと……。何を考えようとしたの? だって……私が感情を消した意味がなくなってしまう。だって殿下はルチア様のことを警戒していて、それに分かってしまったわ。殿下は私のことを。
××××にしていない訳ではなかった。
今まで疑問にも思っていなかったことが表層へと浮き上がって来て、何かを主張している。
アリスは再び、これ以上考えてはいけないことを考えようとしている。
──いや……あの時みたいに苦しい思いをしたくない! せっかく、消えたのに!
恋は苦いもの。今の方が何倍も楽なのだから。
頭の中に断末魔の声が聞こえるようだった。暴れ回っているのはもう一人のアリスで。
過去のアリスが何かを喚いて、今のアリスが何かを喚く。
「アリス?」
思わずアーネストをじっと見つめてしまっていたことに気付き、慌てて逸らしたその瞬間。
「何をいちゃついているんですか?」
内心パニックになりかけたアリスを救ったのは、幼なじみの存在だった。




