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「ルチア様、どうかされました?」
手元にあった古語で書かれた書物にアーネストのメモを挟み、後ろ手で隠す。
「あれ? アリス様じゃないですか。なんでここに居るんですか?」
「借りた本を返しに来ましたの」
何故ここに居るも何も、図書室は本を借りたり読んだりする施設であり、それ以外に理由があるだろうか。
図書室と言ってもほぼ書斎に近く、司書は居ないのだが。基本、この図書室は王族と重役の者しか利用していない施設だ。
一応、施設の前には見張り番が常駐しているのだが、聖女であるルチアは、騎士の見張りを普通に通過したらしい。
「ここにアーネスト様は居ますか?」
──殿下なら先程……。
『何があっても知らないと言って欲しい』
ふと脳内に再生された声。
──成程。どういう状況か分からないけれど、殿下はルチア様に追われていたのね。
女性一人に追われ、逃げ出して隠れるというのも王太子として威厳がないのではないかという呆れもあるが、こと今回に限っては正解だろう。
もしかしたらルチアの側にいることで自分がおかしくなってしまうことを自覚したのかもしれなかった。
だとすれば答える言葉は、これしかない。
「ごめんなさい。私は知りませんわ」
「嘘! だってこっちに来たもん!」
敬語が外れてしまっていることにも目を瞑り、アリスはにこやかな笑みを作る。
「私は本を読んでおりましたから……」
「確かにこっちの方に来たのを見たんです。本当なんです」
彼女は、言い募る。
「ルチア様が嘘をつくなんて考えてもみませんわ」
「そうですよね? 私のこと信じてくれますよね!」
「ですが、私はよく分からないのです。もしかしたらすれ違ったのかもしれません」
「嘘! だって絶対にこっちに来たもの」
「……」
堂々巡りだ。にこやかに笑みを保ちながらも、内心ではイラつきが募っている。
そこまで彼が好きなら離さなければ良いことで、逃げられるということはそれ相応のことをルチアがしたということ。
その八つ当たりにアリスが付き合う義務などない。
眉を下げ、困ったように首を傾げているアリスが後ろ手に隠した書物にルチアは手を伸ばす。
「何を持っているんですか?」
「何……とは」
「隠したように見えました!」
パシッと、本を掴み、ルチアはアリスから奪い取った。
「あっ……」
「この本……難しくて読めないわ。……酷い! 私にこの本を読めないからって見せつけようとしたんでしょう?」
アリスは笑顔のままピキリと固まった。
なんて被害妄想が激しいのだろう。自分が劣等感を覚えたら、それが全て周りの陰謀だとでも言うのか?
──従順にしているのに、まだ突っかかって来ますわね。
「アリス様の意地悪っ!」
「……っ」
バシンと鈍い音を立て、本はアリスの胸元に叩きつけられた。
アリスはメモが挟んであることを確認し、本を抱え直すとすぐに謝罪の形を取った。
「申し訳ございません。聖女様にご不快な思いをさせてしまって……。私はそのような意図はなかったのですが……ってこれはただの言い訳ですわよね」
悲しげな顔。これっぽっちも何も感じていないにも関わらず、僅かに思い悩んだような表情をルチアに向ける。
「仕方ないです。私は貴女を許します!」
なんというしたり顔。この女はこれをやりたいだけなのではないだろうか。
内心の呆れを押し隠し、アリスは心から喜んでいるように大袈裟に喜んだ。
「ありがとうございます! ルチア様」
「アーネスト様はここにはいないので、私別の方を探してきます」
たたたっと駆ける音と、バタンと盛大な開閉音と共にルチアはこの部屋から去って行った。
「はあ……」
頭痛が酷くなったような気がして頭を抑えていれば、
「アレが例の女ですか。やはり俺はあの女が気に入りませんね」
「きゃっ!」
すぐ後ろからぬっと姿を現したのは、エリオットで、思わず声を出してその場にへたり込んだ。
「大丈夫ですか、アリス様。……お手を」
「え、ええ。ありがとうございます」
咄嗟に手を取って立ち上がらせてもらい、まじまじと彼を見つめた。
理知的な瞳と冷静そうな顔つきはいつもと変わらず、ルチアの影響は全く見られない。
「エリオット様……。その、ルチア様を見ても何も感じられませんの?」
「……感じる? 何をですか? ……ああ、不愉快には感じましたが。いちいち仕草があざとすぎて」
「そ、そうですか」
安定のエリオット。普段と変わらず、ばっさりと切り捨てる彼に、逆に尊敬の念を覚えてしまう。
「どんな傾国の美女と思いきや、平凡な女じゃないですか。スタイルもそこまで良い訳ではないし」
「エリオット様? どこを確認しているのですか?!」
「……おっと失礼。……ですが、アリス様の方が性格も容姿も美しい。それに礼儀作法も一つ一つの物腰も綺麗だ」
「エリオット様……」
彼が褒めるなんて滅多になく、思わず目を瞬かせた。
そう言われたことが嬉しかったのは、彼は嘘を吐かず、本当のことしか言わないから。
「ありがとうございます」
ほわりと表情を緩めていたら、
「エリオット。僕の婚約者を口説くのは止めてくれないか」
いつの間にやら殿下が戻ってきていた。
がしっとエリオットの腕を掴んでいる。
「おや。たかが令嬢一人に追いかけられたくらいで、必死で逃げていた殿下じゃないですか。」
「もう隠れていなくてよろしいのですか?」
「エリオット。君はいちいち僕に毒を吐かないと生きて行けない病でもかかっているのか?」
アリスの目の前で……とか何とかゴニョゴニョ言っていたが、二人は黙殺した。
「それにしても、あれが例の聖女ですか。多くの者が彼女に惚れているとかいうから、どんなのかと思っていましたが」
「惚れている……者も多いとは思うけど、実際には逆らえないというのが正しい」
「好きだと逆らえないという人の心理ですか?」
恋は人を成長させるが、人を駄目にする力も持っている。それと同じ類だとは思っていたが、アーネストは首を振った。
「妻や好きな者が居る場合は、恋はしない。ただ、信仰してしまうんだ」
「信仰? ほとんど洗脳では?」
エリオットはハッキリとそれを口にする。
「彼女の傍に居ると、頭の中が霞んだようになって……」
「洗脳じゃないですか」
──真顔で二回も繰り返さなくても……。
「ちなみに彼女を支持、または信仰する者の統計を取ったところ、彼女と接触した者のみということが分かったのと。本気で彼女に入れ込んでいる者は皆、初恋だと宣っていることが分かった」
「執務の合間に何やってんですか、殿下」
──まさか殿下が本格的に調べているとは思っていなかったわ。
「私、殿下はルチア様のことがお好きだとばっかり……」
それを口にした瞬間、ぎゅいんと二人の顔がこちらに向き直った。
──どうして驚いているのかしら?
エリオットがアーネストに哀れみの目を向ける意味が全く分からない。
「殿下……」
「言いたいことは大体分かるが、その目は止めろ」
二人にしか通じない男同士の会話。アリスは気になりながらもそれを追求はしない。
それが淑女の嗜み……というより、アーネストの望みのような気がしたから。
──あら? 私この人のこといけ好かないのに、どうして気を使っているのかしら。何故、彼の意を汲もうとしてしまうのか。
これもまた深く考えてはいけないことだ。
「まあ、殿下の可哀想な事情は置いといて。あの聖女。何かまた問題を起こしそうですよ」
「そうだ。エリオット。何故か財務大臣から申請があった。ルチアがボランティアをするらしいと。彼は協力者だそうだ」
「財務大臣とはまた……」
彼も魅了されてしまったのか、この段階ではあまり判断出来ないが、ルチアが行動することにより何か不穏な気配が忍び寄っている気がした。




