回想1
八年前、アリスが九歳だった頃の話だ。
王妃教育も進み、課題が厳しくなって来た時期であり、この頃から彼女は笑顔を曇らすことが増えた。
──結婚。殿下と結婚。そればかりね。
幼なじみであるエリオットと話をしている際も気を抜くことはなくなってきた。
「ごきげんよう。エリオットさま」
「アリスか。久しぶりだな」
この頃から、エリオットを気安く呼ぶことを止めた。小さな頃からの知り合いに対してこれでは寂しすぎやしないかと思ったが、いらぬ混乱を避けるためだと周囲は言う。
「少し、痩せたか?」
「そう見えますか?」
「やはり、王妃教育は大変だろう。過酷な中、よくやっていると宮中では話題だ」
果たしてこの教育に意味があるのだろうかとアリスは思うことがあった。
何故なら。
「エリオット様。もしも……ですが、アーネスト殿下が結婚を不本意に思っていたら、この結婚がなくなることもあるのですか?」
そっと不安げにエリオットを見上げるアリスに、彼は納得したように頷く。
「なるほど。お前の言いたいことはよく分かる。殿下のああいう態度を見ていると不安にもなるだろう」
「いえ、殿下に対して不満なんてものは……」
王妃教育によって、アリスは直截にものを言うことが出来なくなった。
「殿下も……その、思春期なんだ。上手く接することが出来ないというか」
「私以外には普通ですわよね? 婚約者はもっと交流があるものではないのですか? 陛下も王妃様も昔から仲が良かったと……」
「それは、あれだ……。そういうアレだからだ」
「……?」
この件になると皆、口を濁す。殿下が思春期だという答えは何回も聞いたから、他の答えを知りたかったのに。
今回、幼なじみであるエリオットに思い切って聞いてみたというのに家庭教師たちと同じ答えが返ってきて、アリスは不満げに首を傾げた。
「エリオット様なら何か聞いていらっしゃると思っていたのに……」
「あれでも殿下は努力されていて、その……取り繕っていらっしゃるのだ」
「私以外にお好きな方がいらっしゃって、それで……彼は婚約者の私を愛そうと努力されているとか?」
「それはない」
それまでのあやふやな物言いはどこに行ったのか、やけにはっきりと言い切った。
「いつか、殿下が仰ってくれるだろう。俺たちが言うべきことではないからな。それこそ無粋だ」
──よく分からない。
「無粋って、皆様そればかり仰るんですもの。アーネスト殿下の弟君もそう仰っておいででしたわ」
しかも皆、気まずそうに目を逸らす。
確固とした絆がなければ王妃教育に耐えるのも限界がやってくる。プレッシャーと緊張感に苛まれながら、将来夫となる方に無下にされていたら、アリスでなくても後ろ向きになっただろう。
割かしポジティブな性質を持つアリスですら、少しだけ弱音を吐き出してしまいそうなくらい、過酷な教育なのだから。何しろ、国母になるために学んでいるのだ。
「殿下と少しでも話せたら良いのだけど、無理強いするものではないですから」
もう半分くらいは諦めていた。
会える日は公式の行事など、王妃主催のお茶会で、子どもたちが集まった時、母である王妃の様子を見に、アーネストが訪ねて来ることがあった。
「あら、アーネスト殿下よ」
「近くで見るとやっぱりお美しいわ!アリス様が羨ましいわ」
「本当に」
羨望と共に僅かな嫉妬や悪意を感じ取り、それに気付かない振りをしながらいつものように答える。
「私には勿体ない方だと思います。お家の事情による婚約とはいえ、過ぎたる幸運だったと思いますの。だから、私は過酷な王妃教育を乗り切るために努力するのみですわ」
政略結婚をする相手であり、皆が嫉妬する程のことではない。
婚約者に選ばれたとはいえ、アリスが優れている訳ではなく、身分や政治の関係もあった。
偶然と運命の悪戯による結果である。
だから嫉妬をしたところで何も変わりません。
もしも私という立ち位置に憧れるならば貴女が王妃教育をこなして見せてくれ。
大体そういった意味を込めながら彼女は笑顔で応対する。
十にも満たないアリスを守る砦は結局のところは、そういったあやふやなものでしかなかったのだ。
──笑顔作れているか不安だわ。自分の顔なんて見えないもの。
この日のアリスはお茶会に参加する前に行われていた王妃教育でこてんぱんにされたばかりだったため、いつも以上に周囲の言葉が突き刺さる。
「努力しても、たった一回でも失敗しちゃったら全てが台無しだよね。アリス様可哀想!」
「そうしたら他の子にもチャンスが巡って来るかもね?」
「婚約者なのに二人はそこまで仲良くないから、それもありそうよねー!」
子どもながらのある意味では無邪気な会話。素直すぎたその言葉がグサグサと突き刺さっていく。
たった一回の失敗で全てが水の泡。それは幾度も考え、プレッシャーに苛まれ続けた彼女には大きなダメージを与える言葉だ。
──結婚自体よく分からないのに。何故、私が選ばれたの?
アーネストには避けられている。婚約者として上手くやっていける自信はなかった。
嫌味を躱すことだって、本当はもっと上手く出来ただろうに、今の彼女は余裕がなく、全てをモロに受け止めてしまっていた。
「席を外させて頂きますわ」
邸内にある薔薇の迷宮に足を踏み入れても誰にもお咎めがない。今、他の令嬢たちはアリスの婚約者に夢中なのだから、アリスがいなくなったことに気を留めるものはあまりいないはずだ。
子どもの身長を軽く越すくらいの生け垣が、まるで迷路のように敷き詰められて、緑色の壁があちこちに道を作っていた。広大な庭に作られたから迷路自体の面積は広く、下手をしなくても迷う。
製作者は遊び心があったのか、子ども心を刺激する天才なのか。
──隠れるのにはもってこいなのよね。
今日は涙は出なかった。腹立たしくて、あの場から一刻も早く離れたくなっただけで、悲しいことは何一つなかったのだ。
仲の良い令嬢だと思っていた子が顔を歪めて笑っていたなんてことも特に傷付いている訳ではなかった。
絶対怒られると分かっていたが、彼女はそのまま地面に座り込んだ。
こんなの誰かに見られたらおしまいだ。
だけど世は無情で。
「え?」
耳に届いた小さな足音に顔を上げれば、そこに居たのは。
「アーネスト殿下?」
アリスにとっては予想外の人物だった。




