13
アーネストの手から血の香りがすることに気付き、まだ意識が覚醒しないまま、その手を取って手袋を外した。
「……」
手のひらに刻まれた深い切り傷に思わず目を背けそうになりながらも患部を診る。
「この傷はどうなさったのですか?」
「心配してくれるの?」
「そういうことを聞いているのではありません。答えて欲しいの」
「酔ったアリスは手厳しいな。ただの切り傷だよ。大したことはない」
──大したことはないって。
明らかに切り傷であるし、自然治癒ならば随分と時間がかかる傷だ。深く刃物が突き刺さったのか、血は流れ続けているというのに。
「これは、良いんだ。利き手ではないし、構わない」
「執務ならばそれで良いかもしれませんが、これではもう剣を握れない可能性もあります」
「アリスが心配してくれているだけでもそれでお釣りが出るよ」
「失礼します」
アーネストの戯言を無視して、その右手をそっと取って意識を集中させた。
アリスが使える精霊魔法は簡単な治癒魔法だけだが、止血をして置くだけでもかなり違う。
「森羅万象に揺蕩う精霊たちよ、数多の縁を辿り小さき者の調べをお聴き届けください。大いなる者たちに感謝を。小さき者は忠誠を誓い、この誓約を守らん。血管収縮、患部氷結。神聖なる光をここに手向け、彼の者に祝福を……」
精霊に詩を捧げながら、彼らに通じるように意識を集中させていく。目の前の男が驚いたようにこちらを凝視しているが、関係ない。
──そういえば内緒にしていたのだったわ。
誰にも言わない秘密。家族にも幼なじみにも好きだった人にも言わなかったアリスだけの秘密。
精霊魔法の中でも傷を癒す魔法は、神聖魔法として伝えられている。精霊信仰のない国は、治癒魔法を自分の魔力だけで編み上げるというから驚きだ。
傷口が少しずつ塞がっていくのを眺めながら息を吐き出した。
聖女に逆らう存在であるのに、精霊たちは味方をしてくれるらしい。
もちろん完全な治癒に至ることはなく、傷口が塞がったのみで、痛々しい傷は残っている。
「アリス」
「他言無用よ。私と貴方だけの秘密。文句を言いたくても私は貴方の言葉なんて聞かないんだから。大嫌いだもの」
「そんなつもりじゃなくて……。ただ、僕には君こそが聖女に見えたよ。アリス」
──何故、微笑むの? ただ、目の前で血を流していたから少し治しただけなのに。
聖女とは違って、不完全な魔法なのに。ルチアに頼めばもっと上手く治してくれることは明白なのに、何故なのかと訝しむ。
「君は魔法を使えるのか。純粋にすごいと感じたし、治してくれてありがとう」
アーネストの瞳は甘ったるい。アリスを見つめる瞳は幸せそうで、理解が出来なかった。
「嫌いって言ったのに……」
意味が分からないまま涙が溢れるアリスを宥めるように頭の上にそっと手を置かれて優しく撫でられる。
「アリスは嫌いな人でも助けてあげる優しい人なんだって、尊敬するし誇らしい」
「だって血が出てたんだもの」
「良いんだ。それで十分だから、ね」
そっと頬に口付けられそうになって、唇が頬に触れそうになった瞬間、アーネストはピタリと動きを止めた。
「ごめんね。変なことはしないって決めていたんだ」
頬に触れる寸前の場所で囁かれてこそばゆい。
「また、今度ね」
「今度も何もするはずないでしょう?」
「そっか。そうだね……」
目がとろんとして重くなってくる。
ふらつく身体をアーネストに支えられ、横たえられる。
髪を梳く優しい手つきはアリスにとっては慣れないもので、不快感を覚えつつも動くことが出来なかった。
「いや、触らないで! 私に……触っちゃいや……」
再び溢れ出す涙は一体何を意味しているのだろう? こんなにも触れられたくないと思っているから、だから自分は泣いているのだろうか?
──涙の種類が分からないの。私は悲しんでいるの? 悲しいことなんてないのに。
「ごめんね」
「何を謝っているのか分からないわ」
「アリスは僕のことが嫌いで、触れられたくもないと思っている。それは十分すぎる程に分かったけれど」
横たわったアリスに身を屈めて、そっと抱き締める青年は、今までに見たことのないくらい完璧に美しく笑みを浮かべた。
アリスが思わずその目を逸らしてしまうくらいには真摯で一途で、真剣な眼差しだったと思う。
「君から愛されなかったとしても、僕は君を決して離さない。……だから謝った。アリスにとってはきっと不本意なはずだからね」
アリスは身体をずらして起き上がると、彼の胸元を力いっぱい押し返した。
ベッドに腰掛けながらアーネストは切なげにこちらを窺っていた。
ドンと彼の胸元を押して、彼の上着をぐいっと掴む。
──駄目。感情を上手く制御出来ないって分かってるのに。
とんでもないことを言って後々行動しにくくなるのはアリスなのだ。何事もなかったように謝ってさっさとここから逃げた方が良いと知っていたにも関わらず、だ。
「全部、貴方のせいだわ! 私がルチア様に目を付けられたのも!」
「うん」
「誰も味方が居なくなってしまったのも! 自分がよく分からなくなってしまったのも!」
「……うん」
切なげな吐息を零す彼の頬を思い切り叩いてしまいたかった。いっそのこと婚約破棄でもして二度と会いたくなかった。
「ルチア様と結ばれればそれで良かったのよ」
それで皆幸せになれる気がした。
率直すぎるアリスの言葉にアーネストは息を飲んだ後、酷く歪に笑うと、その長い指先がアリスの顎を攫う。
「趣味の悪い冗談だね。君からそれを言われるとは思わなかった。……うん。けっこう堪えるけれど。アリスには予め言って置いた方が良いね」
顎を掴まれ、強制的に視線を捉えられる。
「僕の結婚相手は僕が決める。誰が何と言おうとね。……これは君に対する宣戦布告だ」
「アーネスト殿下。何を企んでいらっしゃるの?」
「君も何か企んでいるからお相子だよ。何をするつもりか分からないけれど、君の目が何かをしようとやる気に満ち溢れていることは分かるよ」
その慧眼に思い切り、顔を顰めてしまう。
「用が他に何もないなら出ていって」
我ながら酷く冷たい声が唇から飛び出した。
「……ああ。そういえば。色々あって忘れていたけれど。君に対して言いたいことがあったんだ」
優しげに微笑む婚約者。声も表情も確かに紳士的で丁寧なのに、アリスは彼が酷く不機嫌になったのを感じ取った。
怒られる筋合いなんてなかった……と思う。ごめんと謝って置きながら、何やらこちらの感情を慮るように見せておきながら、結局この男は怒っていたのだろうか?
「そのドレス。君の胸元が顕になっているせいで、会場の男共の視線が釘付けだよ。さすがに気分が悪かったから、次からは止めて欲しい。君の身の安全のためにも、ね」
「知らないわ」
「アリス。君はもう立派な淑女なのだから」
ふいっと顔を背ければその低い声が耳元を擽った。顎を離され、今度は手首を掴まれた。
真剣な目に何故か酷く苛立つ。
「君は男の劣情を知らない。それが酷く醜いものだということも実感していないだろう? むやみやたらにそんな格好をしたら、好きでもない者に触れられる羽目になる」
「もう既に貴方に触れられているわ!!」
振り解こうとした手は呆気なく外れる。
「そうだったね」
ふっと彼は自嘲したように口元を緩める。
「嫌われているのはもう十分に分かったけど、君が嫌がっても僕と結婚する運命は変わらないよ。ごめん、離してあげることは出来ない」
「婚約の意味くらい知っているわ」
「そうだね。君はもうとっくの昔に覚悟を決めていたのだったね」
──私たちの仲など瑣末事に過ぎない。全ては王国のためよ。
「アリス。約束は変わらない。僕たちはこの国を守ると」
「当たり前だわ」
それこそ、物心ついた頃から知っていた。
貴族──いいえ、王族に嫁ぐ者の義務を。
酷く当たり散らした今日でも、無様な姿を見せてしまったとした最悪な日だとしても、アリスの中では変わらない事実だった。




