12.5 sideアーネスト
アーネスト=フォン=リブル=アルカディクト。この国、アルカディクトを背負う者を表す名だ。
何も言えずに婚約者であるアリスを見送り、目の前にいる別の女性のダンスの相手に指名された情けない男の名前でもある。
──彼女の様子がおかしいことには気付いていたのに。
婚約者であるアリスを優先したいと心が叫ぶのに、その身体はアリスに手を差し伸べずに、ルチアをエスコートしている。
抗えない引力に引き寄せられるような、自分の意思とは違う何かが侵食していく気味の悪い感触。
「殿下、よろしくお願いします!」
「ああ……」
笑みを浮かべながらも、脳裏を過ぎるのは己の婚約者のことだ。
アリスとは、ろくに会話も出来なかった。ドレスの型をいつもと違うものにした結果、彼女の身体が扇情的に際立っていたのを見て、アーネストは胸中がざわめくと同時に案じた。
──あんな目立つ格好で、僕は何故彼女を一人にした?
心配で仕方なくて自分の側から離すものかと思っていたのに、ルチアが現れてから身体が止まってしまった。
本人は気付いていなかったが、アリスが会場に現れた途端、空気が変わった。
白く肌理の細かい肌、柔らかそうな女性特有の身体。その華奢な身体を包むのに、その薄いドレスは心もとなかった。
露出された胸元は、彼女の身体の中でも発育が良いのか、程良く膨らんでいる。
たとえば彼女をダンスに誘った者がいるとして。それは、男たちは上からアリスの胸元を遠慮なく覗き込めるという事実を意味している。
幸い、アリスは誰とも踊ろうとしないけれど。
あんなにも胸元を強調していたら誰に目を付けられるか分からない。他の男がアリスを見ることが許せなくて。
危ないから、やめて欲しいと、アリスに注意を促そうとした瞬間に現れたのがルチアだった。
パチリと自分の中のスイッチが切り替えられる感覚に恐怖を覚える。
聖女である彼女に尽くさなければならないという強迫観念に侵されそうになるのを自覚して、やはりおかしいと気付いた。
──やはり、ルチアは何かが変だ。
疑ってはいけない。彼女は正しいのだから。
──違う。僕はアリスを。
「アーネスト様とのダンス楽しいです」
「それは良かった」
いつも通りの笑みを浮かべながら、気の利いた一言も告げることすら出来なかった。
──アリスが心配で仕方ないというのに、足がこの場所に縫い付けられたように動かない。
ただ、ダンスの相手をするだけの機械になったようだ。
「アーネスト様はお疲れですか? 何かいつもと違う気がして」
「そんなことはないよ」
──ルチアは悪くない。それは知っているけれど。
彼女が酷く煩わしい存在に思えた。
「もう一度踊りませんか?」
一度目のダンスが終わった後、またしてもダンスを申し込まれ、突進するような勢いで迫って来るルチアに片手で制し、
「婚約者の様子を見てきたいんだ」
何故か強まる罪悪感に抗ってはっきりと断れば、泣きそうに歪む娘の顔。
「アリス様は一人でも大丈夫です! ……でも私は、ここに取り残されたら……」
「……!」
どうか行かないで欲しいと全身で訴えている彼女から目を逸らしても、ルチアの声が脳内を犯していく。
どうか行かないで。私を取り残さないで。どうして置いて行くの?
まだ言われていない言葉すらも脳髄を焼くように鮮烈に刻み込まれて行く。
ルチアは不敵に笑った。
「私のお願いを、聞いてくれないのですか?」
たった一人の少女から発せられる威圧感。
飲み込まれる。彼女の命じるままに動きたくなってしまう。それが己の意思とは関係なしに。
アリスが心配で仕方ないのに、何故?
周りを見渡して一歩、後ろに下がった。柱の後ろに回って人目を避ける。
二回目のダンスが始まり、人の目がなくなった時を見計らう。
「アーネスト様……私から離れるんですか?」
酷く弱々しい声の割には強制力すら感じてしまう声が、空恐ろしかった。
「一回踊ったよ? 本来ならば、一番初めに踊るのは婚約者だと決まっていたけれど、アリスは君に譲ってくれたんだ」
聖女二、オマエハ何ヲ言ッテイル?
不自然な自分の声が再び脳内で響く。これ以上はまずいと警報を鳴らしている自分がいるのに、それに抗いたいと思う自分も居て。
「アリス様より私のことが好きなんじゃないんですか? だって殿下は私と居る時の方が……」
「そう見えたのなら、謝る。……だけど、僕はアリス一人だと決めているんだ」
「私とダンスを踊ってくれたのに? アリス様は私みたいに守ってくれなくても強いから、アーネスト様が行く必要なんてないです!」
アリスが強い? 守る必要なんてない?
それを耳にして感じる怒りと焦燥とは裏腹に、己を縛るルチアの気配が強くなった気がした。
──やはり、彼女には何かある。
決定的だったのは、感情が二つに分かれ、相反してしまっていることに気付いたから。
「ここに居てください! アーネスト様! アリス様のところに行っちゃうのは嫌です!」
悲痛な叫びが鼓膜を通して、脳内に直接響いて来る気がした。
「アリスはただ一人の女の子だ。誰が何と言おうと」
「私の方がアーネスト様を大切にします! だから傍に居てください。だってアリス様はアーネスト様のこと大切にしてないじゃないですか!」
ぐさり、と胸に何かが突き刺さるような気がした。それ程までにその言葉に傷付く自分が居て、それでもアリスの元に駆け付けたかった。
様子がおかしい今はともかくとして、アーネストの知る限り、アリスはこちらを尊重して大切にしてくれた。
何も知らない者に余計な口出しをされる筋合いはない。
「君じゃないんだ」
「アーネスト様!」
まとわりつく彼女を振り払い、さらに一歩下がって、頭を軽く振ると、懐からナイフを出した。
ぼんやりと意識が霞みがかっていく。このまま身を任せたら、今度は本当にアリスを失ってしまう予感がした。
手袋を外した右手にナイフの刃を直接握って、思い切り力を込めた。
「っ…」
火傷したような衝撃が走ると同時に脳内を犯していたものが霧散した気がした。
血がぽたぽたと落ちていくのを無表情で眺めながら、ルチアが叫び声をあげる前に再び手袋をはめ直した。
状況について行けずに放心するルチアを一瞥した。
「ごめんね。アリスを探さないといけないから」
カシャン、と床に血塗れのナイフが落ちる。
人の間を縫ってさっさと歩き、ホールの外へ出た途端、ホール内からは少女の叫びが木霊した。
彼女から離れた途端、少しだけ身体の自由を取り戻した気がした。
「殿下。如何様に?」
「アリスはどこに?」
すぐ外に控えていた影に問いかければ、どうやら彼女は騒ぎから離れた位置にあるバルコニーへと移動していたらしい。今の場所から反時計回りにぐるりと移動すれば、入り込めた気がする。
「それと、この騒ぎに乗じて一つ、火種を投下しようと思う。ある噂を出来るだけ広めて欲しい。他の重臣たちへのパイプも利用して良い」
「かしこまりました」
スラム街から死にそうになっていた者を連れ帰り、己の影として教育を施した。そんな存在が幾人か居る。
影たちはアーネストに忠誠を誓ってはいるが、彼らは神や精霊に対して信仰心の欠片も持ち合わせていない。
彼らの信仰心の希薄さを利用した策は、どこまで影響し、通用するのか、未知数ではあったが何もやらないよりはマシだった。
聖女に明確に敵対することが愚かだと知っていたけれど。
「アリス……」
聖女と比べる必要のないくらい大切な存在の元へ。
手のひらがズキズキと痛むのを隠しながら、彼は廊下を歩いていった。
「こんなに簡単なことだった」
何故気付かなかったのだろう。まだ間に合うはずだ。手遅れになる前に。
願わくばあの頃の笑顔をもう一度。




