12
「アリス。寒くない?」
「ありがとうございます」
背にかけられた上着はアリスのよりももちろん大きくて、彼女の腰もすっぽり覆った。
「飲みすぎたようだね。さっきよりも回っていないか? 頬は紅潮しているし。……アルコールなんてアリスには早い」
遠回しに子どもなのだからと言われている気がして内心ムッとしつつ、見上げれば笑顔が向けられている。
ただし、目の奥では笑っていない仮初の笑顔で。
──どうして怒るの? 心配してくれているの? でも、アーネスト様がここにいらっしゃる意味はないわ。ルチア様のお側に居たはずよ。
あんなにも目立たない場所に都合良く来れるはずがないのだ。ずっとアリスを気にかけていない限りは。
──では、ここに居る本当の方は誰?
目の前にいるのが誰か分からなくなってきた。
──あ。これはまずいわ。本格的に……。
ふわふわとした酩酊感がアリスを気持ち良くしてくれる。
瞼が少しずつ落ちてくる。
──だけど怒られるのは怖いわ。
ほんの少し怯えを見せたアリスを休憩室に押し込むと、ベッドまで連れて行かれてしまう。
少し横になるために、ドレスを整えてくれたのは誰なのか。
「ん……くすぐった…」
ふふ……と漏れるアリスの声に、アーネストは息を飲むが、もちろん当の本人は気付く由もなかった。
ベッドに腰掛けてぼんやりしていたアリスに彼は厳しい視線を向ける。
「あのまま、僕が来なかったら君はどうなっていたと思う?」
「……申し訳ございません。軽率でした。違うことに気を取られていて、自らの酒量限界すら把握していませんでした……」
「……まだぼんやりしてるね。目が合わないし、」
背中を撫でられている。こうやってアリスを心配してくれる異性にはあまり心当たりがなく、働かない頭の中では、エリオットの姿が思い浮かんでいた。
──少し声が違う気がするけれども。
他に誰かいるだろうか?
「エリオットさま……」
きっと彼は文句を言いながらも介抱してくれそうだと、とりとめのないことを考え、ふと口をついて出たのは彼の名前だ。
背中を撫でていた手が不自然に止まり、それに首を傾げていれば、低い声がすぐ近くから聞こえる。
「君は、エリオットが良いのか?」
──エリオット様? 何が良いというのが正解なのかしら?
誰と何の会話をしているのか、それすらも不透明になってきて、もはや会話すら危うい。
真剣そうな声には是非とも答えたいと思いつつ、アリスは素直に返事をする。
「彼は、こわくないひとよ」
「君は僕が怖いの?」
「……?」
目の前の人物が何かを言っていることは分かるが、頭の中で質問と状況が一致しなかった。
「僕が誰か分かってないんじゃ。今更だけど」
「ん……。どちら様なの?」
口から出るのは拙い言の葉ばかり。
「僕は、アーネスト。君の婚約者だ」
「……殿下?」
目の前の人物を穴が空く程、見つめているうちに輪郭が形を徐々に取り戻していく。
見慣れた瞳は宝石のように輝いてはいたけれど、感情的な色が見え隠れしている。
──とても綺麗だとは思うけど……。
「殿下? どうしてここにいるの?」
「君がこんなに酒に弱いなんて……。誰が何を言ってもついてあげるべきだった」
綺麗な指が近付いてきて、額にかかる髪を優しく払う。
──だけど、その指は殿下の指だ。優しく触れようが何をしようが、殿下の指。
「何故、貴方が私の隣にいるの?」
「アリス? 何を言って」
「うそよ。貴方がここにいるはずない」
最初はアーネストが来てしまったのだと思ったが、それはありえないと根本的に思っていたアリスには夢と現が上手く処理出来なかった。
「気のせいよ」
敬語なんて取り払ってしまう程、頭の中がぐちゃぐちゃになって、ふわふわと夢心地になっている。
「そうは言っても事実は変わらない。君は有り得ないと言ったけど、僕はここに居る」
優しい声だ。手袋越しに温もりを感じて、間近で視線が合わさった。
「だとしたら酷い悪夢だわ」
今更、側に居られても迷惑なだけだった。ただ、煩わしくて仕方なくて物言いに気を付けることすら出来なくなってしまう。
ベッドの中に潜ろうとシーツを掴んだところで、その手はアーネストに掴まれた。
「こういう時に聞くのはどうかと思うけど、何故なんだ? アリス。僕の何が駄目なのか、教えて欲しい」
「おかしなことを仰るのね。アーネスト様は早くルチア様のところに戻れば良いのに」
早く出ていって欲しいという思いを隠さないで居たからだろうか。
「君は僕が他の女に取られても何も思わないのか」
悲痛な声で問いかけられたが、酒で頭の中が鮮明ではない彼女は、取り繕うでもなく冷たく笑う。
「……逆に何か思うとでも?」
「アリス」
──どうして泣きそうな声なのかしら? そんな声で呼ばれるなんて。
「君は僕のことを何とも思っていないどころか、そこまで嫌っているんだね。だけど」
目を合わせるようにしてその整った双眸が、すっと近付いて来て覗き込む。まるでその奥を見透かすみたいに。
そして決定的な言葉を口にした。
「僕は君のことを愛しているんだ」
その言葉はアリスが最も聞きたくなかった台詞だ!
その言葉は、アリスが最も信じることの出来ない台詞だ!
ああ! 貴方には見えていないのか。アリスの憎悪に塗れたドス黒い色を纏った紫の瞳の色が。
酒に酔ったアリスを止める理性はない。変換され以前と違った心持ちになっていた彼女を突き動かすのは、ただの強い感情のみだった。
嫌悪。憎悪。不快感。そうした全てが一瞬にしてアリスの内面を埋め尽くす。
掛け布団から顔を出し、目の前に居る婚約者を睨みつけた。
「それを今言うの? 不快だわ」
「アリス?」
どうしてアーネストが傷付いた表情でこちらを見つめているのか理解が追いつかない。
「嫌いよ。貴方のことなんて」
口に出してしまったらもう元には戻らない。
「……あの時、好かれていたと感じたのは気の所為だったのかな」
乾いた笑いには悲哀が詰まっていた。
「嫌い、大嫌い。目障りなの。貴方なんて、さっさと他の女のところに行けば良かったのに。どうしてここに居るの?」
「さて、どうしてだろうね?」
横たわるアリスの側に腰を下ろしたアーネストは、彼女の手を優しく握る。
「酷いことを言われているのに、そうやって笑う貴方が嫌いよ」
「そっか……」
何故か、視界が少しずつ歪んでいくのは、私が泣いているからだろうか?
「どうしてなの? 私は貴方のことが大嫌いなのに! どうして居るの?」
「はは、酷いな。酔ったアリスはいつにも増して辛辣だ。……いや、抑圧してたのかな……」
アーネストはアリスの横に添い寝するように転がると、布団ごとアリスを抱き締める。
「頭が痛いだろう? 今からでもゆっくり休んで、アリス」
「きらい。だいきらい」
子どものように舌足らずになるのが酷く悔しかった。拒絶してやりたくて、仕方なかったのにこんな形になるなんて。
「でも僕は愛しているよ」
「いやよ……。きらいなの。貴方のことが大嫌い。アーネスト様のそれは意味がないのよ」
愛を囁くことに意味はない。それをしたところでアリスも手に入らなければ、ルチアを手にすることもない。
「意味はある。婚約者を好きでいることに意味がないはずがないよ」
「私は貴方を好きなアリスではないの。きらいなの! 貴方のことが……きらい! だいきらい!」
「ねえ、ならどうして泣いているの?」
アリスの瞳から流れる透明な雫をそっとアーネストは拭った。
「アリスはどうして泣いている?」
そっと伸ばされて来る腕。触れようとする男の手に、アリスは身体を震わせた。
「……え?」
視界に彼の手袋が入って、その滲んだ赤に気付いて。
刹那、血の香りがアリスの鼻を刺激した。




