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この国で長いこと行っていた事業が国と国との境目にある川を通す橋の修繕だ。
一昔前の戦争で破壊行為が行われてから少しずつ、修繕されてきたのだ。川の流れは早く、作業は滞り、おまけに国の境目であるため、近隣国との連携もあり思うように進まなかったという理由がある。
橋の修繕が無事に終わり、他国との交易が以前よりもやりやすくなったことは、この国にとっては大きな意味を成す。
宝石などを使った装飾品や織物、この国独自の名産品を運ぶには、やはり各手続きが簡易的になることは有難かった。
食料自給率に問題はなく、豊かな資源と肥沃な土地に恵まれてはいたが、やはり他国との取引により国を潤すことが出来れば、より平民が豊かになる。
そういった意味合いもあり、橋の修繕を祝したパーティーはまた改めて行われるが、今回の夜会では実質祝いの席のようなものだった。
アリスが馬車から降りる際に差し出された手は、もちろん婚約者であるアーネストだった。
久しぶりのエスコートでもあり、アリスにとっては彼とは久しぶりの再会だった。
「君をエスコートするのは久しぶりな気がするよ」
「そうですわね。あれからお会いしていなかったので」
「君が僕を避けていたからだろう」
必要以上に素っ気なくならないように気をつけてはいたが、アリスの声に僅かに冷たさがあることに気付いているのか、彼はその綺麗な眉を軽く顰めた。
──今日の殿下は不機嫌そうね。
思い当たることはある。彼からの接触をことごとく無視したあげくに、今日までこちらから一切連絡をしなかった。
──と言っても悪いのは殿下なのだから、何故彼の方が怒るのか理解出来ないけれど。
「あら。しばらく距離を置きたいとあの時、お伝えしましたわ」
「アリス。僕も悪かったと思っている。せめて、話くらいは聞いてくれなければ、何も始まらないだろう?」
腰に回していたアーネストの腕が、アリスの細い腰をぐっと引き寄せる。少々強引な仕草。
「今日はさすがに逃げることは致しませんから、普通にエスコートしてくださいませ」
「……普通だろう」
嘘だ。通常よりも密着している癖に、どの口がそれを言うのだと、思わずジトリとした目で見上げれば、彼はアリスの頬に軽く口付けた。
「……っ! 突然、何をなさいますの?」
「僕らは婚約者同士だ。不仲な様子を見せる訳にはいかない」
「他に方法がありますでしょう? 気安く触れないでくださいますか?」
「……アリス。せめて、会場では取り繕って欲しい」
「分かっております。当然のことでしょう?」
アリスはこれ見よがしにアーネストの腕に自らの胸を押し付ける。
僅かに目元を赤くした彼を見て、これだから男性は……と男性嫌いが加速しそうになる。
ルチアのことが気になっていても、彼はアリスにも反応してしまうらしかった。
会場に足を踏み入れた瞬間、アリスは幸せの絶頂とでも言わんばかりの微笑みを浮かべ、アーネストはアリスを愛おしそうに見つめる。
変わり身の速さに感心しつつ、こういう切り替えの速さと良い意味でも悪い意味でも冷徹なところはお互いそっくりだと思う。
皆こちらを微笑ましげに眺めている姿が見える。
──こんな感じで良かったの。
「上出来だよ、アリス」
耳元で囁く婚約者の声。
「わざわざそうやって声をかけるのは止めてくださいな」
アリスはにべもなく返すが、周りには睦言を囁きあうように見えたらしい。
「アーネスト殿下とアリス様、仲違いをしていたらしいという噂があったが、どうやら仲直りをしたらしい」
「喧嘩する程何とやら、と言うからなぁ」
「それにしても、今日のアリス様は特段に美しいですな」
ルチアに忠誠を誓ってからというものの、アリスの貴族社会での評判はうなぎ登りだ。
──簡単すぎてまるで詐欺に引っかかったみたい。
記念になる夜会ということで、国王と王妃も参加しており、彼らと王太子であるアーネストからの言葉を頂いた後は、会場にオーケストラを招いてのダンスパーティーが始まった。
その直前、アーネストが酷く不機嫌そうに話しかけてきた。
相変わらず面倒で鬱陶しい。
「アリス。君に一言物申したいことがあったんだけど」
「まだ何かありますの?」
うんざりとした様を隠すこともないアリスを目の前にして、彼は僅かに声を跳ね上げた。
「何か、だって? 君は本当に自覚していない」
「……何を」
仰るつもりなの?とアリスが言葉を返そうとした時だ。
能天気──少なくともアリスにはそう聞こえた──な声が2人の間に割って入った。
「アーネスト様! ダンスをお願いします!」
「……。ルチア様……」
彼女ももちろん参加していた。ヒラヒラとしたリボンやフリルがたくさん付いた白のドレスは彼女の可憐さを強調している。
聖女である彼女は様々な夜会に現れては、様々な令息たちを虜にしていくと専らの噂だ。
「ごめんね。まずは婚約者であるアリスと」
「アーネスト殿下。せっかくだからルチア様と踊っていらしたら?」
アーネストが断りを入れる前に勧めた。
──以前はそういったことを気にしなかったように見えたけど、どういうつもりなの?
以前との差異に警戒しながらも、アリスはにこやかに応える。
「私は後で良いですわ。それと会場を見廻りたいですし」
「アーネスト様! アリスさんもそう言ってますし!」
馴れ馴れしい娘だ。アーネストの腕をぐいぐいと引っ張りながら大きな声で騒いでいる。
周りの貴族たちは微笑ましそうに見ているし、アリスの申し出にも疑問を抱かない。
──通常、ファーストダンスは婚約者か夫婦やパートナーと決まっているのに。どこまでおかしくなってしまったのかしらね。
「ごきげんよう。ルチア様。殿下をよろしくお願い致しますわ」
せめてこちらは礼儀作法に則っておかなければ、夜会の秩序が失われていきそうで嫌だった。
「今日のアリスさん、すごいですね! とても気合いが入っているというか!」
彼女には何も通用しない。
「そうでございますか?」
「はい! その! 胸とかも目立ってますし! もしかして悩殺したい人とかいるんですか?」
頭を抱えたくなった。
アーネストという婚約者がいる前でしてはいけない発言を声高々にしているのは、何故だろう。
──逆に悪意しか感じないというか。この子、わざとやっているの?
案の定、一瞬だけアーネストの目が不機嫌そうな色を帯びたのをアリスは見逃さなかった。
周りの貴族たちは耳をそばだてている。
だからアリスは否定も肯定もせずに答えた。
「これは、友人が少しだけ悪ふざけをしましたの。普段と違う私を見たいとか仰って。私には大人っぽすぎますわね」
今回のアリスのドレスは胸元が大きく開いたドレスで胸の谷間がしっかりと強調されている青を基調としたドレスだ。
恥ずかしそうに苦笑すれば、ほぅ……と溜息を漏らす方々も居た。
少々性格が悪いとは自覚しているが、少々小ぶりの──ハッキリと言ってしまえば胸のないルチアに対する当てつけのようなものだった。
──こういうところが私の子どもっぽいところだわ。
内心苦笑しつつも、周囲の反応が想定通りだったことに安堵する。
予め用意していた言葉を口にしたお陰で、周囲の者たちは誰も怪しまない。
ルチアの言葉に即答したのだから、疚しいことも何もないのだ。
「そろそろ音楽が始まりますわ。お二人とも、いってらっしゃいませ」
ふわりと笑みを浮かべれば、ルチアは「じゃあ、行ってきますね!」とアーネストの腕を掴んで中心へと突き進もうとしている。
「ルチア。あまり走るのは……」
アーネストはこちらをチラリと一瞥して不安げな瞳を浮かべていった。
騒ぎの元や精神的疲労の元でもあった2人が去っていった後、アリスは踵を返して、中心から遠ざかる。
「グラスを頂けないかしら?」
「え、あ、はい」
新人なのだろう。アリスの年齢を知らない使用人に声をかけてワインの入ったグラスを手に取った。
アリスは十七歳であり、実は酒の飲めない歳ではあったが、なんとなく疲れてしまった彼女は酒に頼ろうとしていた。
──少しくらいなら良いわよね。
酒を飲むのは初めてだった。よく酒を飲み醜態を晒す者もいると聞いてはいたが、口を付けるくらいなら変わらないはずだ。
一口だけグラスに口を付けた瞬間、「アリス様」と声をかけられた。
振り返ると予想外の人物がこちらを真剣な眼差しで見つめていた。
「貴方は……」
アリスは貴族の名前と顔を一致させているから、彼が誰なのか一目で分かった。
それは以前、エリオットの家で耳にした、騎士団の仕事を放棄したというユリウスだった。
何故、声をかけてきたのか見当がつかないまま、彼女はチラリとルチアを振り返る。
「私に何か御用がおありなのですか?」
「はい。大切なお話があります」
マティアスに何か報告するためにも、彼について何か探る必要があったから、渡りに船の状況だ。
「ええ。私でよろしければ、あちらでお話しましょうか」
「ありがとうございます」
背中をそっと押され、彼が怪しげにこちらを見つめるのをアリスは気味悪そうに眺めていた。




