和解
「それで? こんなことしてまで、何を誤魔化そうとしているのかな? アリスは」
アーネストは笑顔のまま、少し怒っていた。
「殿下の方がお怒りでいらっしゃいますわ」
「そりゃあ、怒るよ。誤魔化すためだけにキスをされてもね。アリスとそんなことをしたい訳じゃない。キスが出来ればそれで良いなんて思っていないし。以前アリスもこのことで怒っていたのにね。自分がされて嫌なことを人にするの?」
これは相当怒っている。
どうやら刺激してはいけない何かを刺激してしまったらしい。
普段はアリスにデロデロに甘いアーネストが珍しく不機嫌な声で彼女に恨み言を言った。
だが、すぐに微妙な表情で思い悩むように目を伏せて続ける。
「僕も前にやったことだから、僕が怒るのは筋違いだとは分かっている。それでも、気分が良くないのは確かで……はぁ、待って、ごめん。本当に僕が言うことじゃないんだけど、でも……ね。うん、確かに僕は最低だった」
最終的に自分が最低だと結論づけたようで、何故か落ち込んでいる。一見情緒不安定にも見えるそれ。
アーネストは今はアリスに怒るべきなのか、過去の自分を悔やんで良いのか分からず、戸惑っているようだ。
過去、まだ2人の関係が深まっていなかった頃に、似たようなことをされて、アリスは確かに怒っていた。
──殿下はこういうところが不器用な方だわ。
そのままアリスにも怒れば良いのに。
──自分がされて嫌なことを私はしたのだから。
「うん。キリがないから止めようか。僕のことは良いんだよ。そう、アリスが怒っている理由を聞きたかっただけで」
──殿下は本当にお人好しな方ね。それに私と違って変に意地を張らない……。
アリスは今度は自然に微笑むことが出来た。
「あれ?」
アリスが何やら溜飲を下げたことに気付いたらしいアーネストは、再び戸惑っていた。
「ふふ。殿下が怒っているのか反省なさっているのか、先程からくるくる表情が変わっていらっしゃるから……。意地を張っているのも馬鹿らしいですわ。そうですわね。雰囲気を悪くしたくないと思っておりましたが、こうやって殿下のお気を煩わせる時点で本末転倒ですわよね」
「なら教えてくれるの?」
そっと手が伸ばされて、アリスはその手を受け入れた。
「はい」
アーネストに抱きすくめられる。時折、掠れるような小さな声で「……ごめん」と謝罪される。
「私も変に意地を張ってしまって、申し訳ありませんでした」
少し怒りで前が見えなくなっていたのかもしれない。
お互いに顔を見合わせて微笑み合った後、今度こそ何の打算もなく口付けを交わした。
先程まで繰り返した口付けよりもより甘く感じるのは、きっとすれ違いがないからだ。
まるで溶かされてしまいそうなくらい労りに満ちた、丁寧な愛撫だ。
お互いに、はぁっ……と吐息を欲望に染め上げながらも何度も繰り返して、その情熱的な応酬に盛り上がった私たちは、ソファの上へと体を倒していく。
これ以上はまずいとお互いに自覚していたからか、顔を合わせて苦笑した後に、どちらからともなく体を離した。
両思いになってからというもの、アリスは自らが淫らになっていくのを自覚していた。
はしたないこともたくさんしてしまった。
特にキスの回数は増えたと思う。アリスもアーネストも、己の婚約者と体を接触させたり、キスをすることが好きなのだ。
──新しい発見だわ。私がこんなにはしたない女だったなんて……。
「最近、どんどんいけないことをしている気がするよ」
「いけないことなんて……。殿下はお優しいですから……。私だって、はしたないことを……」
お互いにキリがないことを悟った後、アーネストはふと顔を引き締めた。
ソファにしっかりと起こされて、アリスたちは並んで座った。
「それで、僕は君に何をしてしまったのかな?」
アリスが怒っているだけで、それを当たり前のように自分のせいだと信じ切って断言してしまうらしい。
色々な意味で心配になる。
「貴方は何も、私に何かをした訳ではないのです。……殿下は、数年前のことで何かお伝えし忘れていることはございますか?」
「数年前?」
何かあったっけ?と首を傾げる姿に、アリスは脱力した。
「殿下が皆さんから距離を置いていたことがありましたわよね。その理由を先日お聞きいたしましたの……。一時期、毒を……盛られるのが日常茶飯事だったとか」
「ああ、そういえばそんなこともあった……けど」
過去のことだ。今更伝えることではないと判断したのだろうと思う。だから、今教えて貰っていない理由も分かるのだ。
「これは私の我儘です。勝手な蟠りなのです」
「言わなかったことを、怒ってるの?……でも終わったことだし、今更そんな恐ろしい話をアリスに聞かせたくなかっただけで」
「それですわ」
アリスはそっとアーネストの腕を取った。絶対に離すものかと言わんばかりに、抱き締めた。
「過去に何の説明がなかったことは理解出来るのです。あの頃、私は幼かったですし、何かの役に立つどころか、きっと足でまといになったのは確実です」
「アリス、僕はそんなこと思っていない。足でまといだなんて」
「知っておりますわ。私を巻き込みたくないと、周りの皆さんも巻き込みたくないと気遣ってくださったからなのでしょう? 多くの人に内密にしたのにも理由があるのでしょうし、これからも私に言えない公務の守秘義務はたくさんあることでしょう。それは仕方ないのです」
不安そうにアリスの話を聞いているアーネストの手をぎゅうっと両手で包み込み、アリスは続けた。
「だけど毒の1件は、もう終わった話なのでしょう? 守秘義務も何もないはずなのに、私には一言も言わなかったのは何故ですか?」
「それは、わざわざ終わったことで怖がらせる必要なんてなかったから」
「それですわ。恐ろしい思いをさせたくない……怖がらせたくないと殿下は仰いますが、とうに覚悟は出来ておりますわ。私は年下ですけれど、単に庇護される存在ではないのですわ。殿下の言葉の端々からはどうもそれを感じるのです」
「えっ」
予想外のことを言われたとでも言いたげな虚をつかれたような表情。
「今回、殿下とは色々あって協力し合っていたというのに、まだ庇護される立場から脱却していないのだと思い知らされて、私としたことが上手く感情を整理しきれなかったのです。それが原因で悔しくて怒りを覚えたりしただけで、だから……」
アーネストが何かした訳ではないのだと、伝えたかった。
「ごめん。僕の中では本当に終わったことで……。正直言えば、そこまで重要視してなかった。アリスにとっては初めて知らされることなのに、僕以外から知らされれば不安になっても仕方ないよね」
「毒ですよ? 事後報告で知ったとしても、そういった事例があったことを把握していれば、これから何か対処する際にも参考になるではありませんか。知ることは無駄にはなりません」
アーネストは苦笑した。
「しっかりしているね、アリスは。僕の方が年上なのに」
「……どうか私を蚊帳の外には置かないでください。……いいえ、公務で私に言えないことがあるのは重々承知ですから、言えないことは聞きませんし、それは当然のこと。必要とあらば蚊帳の外にしていただいて構いません。……ですけれど、私は殿下と出来るだけ同じ方向を向いていたい。ただ守られるだけでなくて。だから、その努力をするチャンスくらいはください」
アーネストの体に身を寄せて、言いたいことをつらつらと重ねていく。
言えないことは言わなくても良いけれど。
「最初から言わないと決めつけないで欲しいのですわ。いずれ王妃となった時、守られているだけなど私が嫌なのですから」
「アリス……」
アーネストは言葉にならないようで、ただアリスの髪を撫でるだけだった。
何と言えば良いのか、溢れる言葉を上手く形に出来ないようだった。
「貴方の全てを支えることは出来なくても、少しの間でも寄りかかることが出来るくらいには立派になりたいと思っています。どんなに恐ろしいことも受け入れる覚悟を既にしていますわ。だから……どうか、信じてくださいませんか?」
──そう。私は殿下に信じて欲しかった。
恐ろしいものを見せないように目隠ししてもらって、真綿で包むように守ってもらうのではなくて。
どんなにおぞましいことでも受け入れて、考える精神力があるのだと、信用して欲しかった。
そのくらいの覚悟や気概があるのだと。
「アリス、ありがとう」
アーネストのその表情を見て、アリスは理解する。
感謝、尊敬、憧憬、安堵、多幸感、不安、罪悪感、様々な感情が入り交じった表情を見て、受け入れてもらえたことを知った。
アーネストは何を言って良いのか分からずに、何かを言おうとして、口を閉ざして……を繰り返す。
上手く言葉に出来ずにいながらも、繰り返し「ありがとう」とアリスに囁く。
実際に涙を零している訳ではないのに、泣き笑いの表情に似ていた。
やがてアーネストはアリスを抱き込んで、これだけ言った。
「僕はどうやらアリスには一生敵わないんだろうね。でも、尻に敷かれるのも本望かも。……なんてね」
それを言うなら、アリスの方は彼に囚われている。それを嬉しく思っているのだから、もっと重症だった。
緩く微笑んでいた自分の顔を引き締める。
「……殿下、私からも1つお伝えしたいことがあります」
アリスは以前から言っていなかったことを告白しようと思った。
弱かった私が過去に何をしたのか。
──自らの心すら偽ったあの日々について。
自ら恋心を捨てたことを。