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焼きたてのアップルパイ。サクサクのちょうど良い焼き加減の生地。甘い林檎の香りと焼きたての香りにうっとりとしていたアリスがフォークを手に取った時のことだ。
案内された客間でソファに座っていたアリスは完全に気を抜いていたが、ノックもなしにエリオットが駆け込んで来た。
「アリス様。緊急事態です。もうそこで良いんで隠れてください」
「えっ? ……きゃあ!」
いつになく慌てていたエリオットは、使用人に本棚を指差して少しだけ移動させ、あろうことか淑女を押し込んだ。
壁とたった今動かした本棚の僅かな隙間に。
人が一人入り込めるくらいの書斎にある本棚よりも小さなアンティーク。年代物であり、客間に通された客人に提供する本が詰め込まれている
「横から見えるとあれなので、まあここには適当に布でも貼っておきますか」
横から丸見えのアリスを隠すように上から下まで布を貼り、本棚の奥行を水増しさせ、「これで良し」と満足気に頷いている幼なじみ。
何が緊急事態なのかと思って布を少し捲り、隙間から覗いていれば、聞いたことのある声がしてアリスは慌てて摘んでいた布を離した。
「エリオットはいるか?」
「はい、ここに。殿下」
──危うくアーネスト様と顔を合わせるところだったのね。
エリオットの気遣いに感謝しつつも、彼らの話し声に耳を傾けた。
「前々から思っていたのですが、突然いらっしゃるの控えてくださいませんか? こちらも迎える準備がありまして。そういうの他の方にもされているとしたら迷惑ですよ」
「普段はしていないよ。エリオットとアリスくらいかな」
「そんなんだから愛想尽かされるのでは?」
「っぐ……」
アーネストが声を詰まらせる気配。
愛想は尽かしていない。ただ、好きではなくなっただけで。
──もしかしてこれも愛想を尽かすって言うのかしら?
「ところで、ここにパイと紅茶が出ているが、他に客が居たのかな。申し訳ないことをした気がする」
「本当ですよ」
「女性の香水の香りがする。アリスの使っているものに似ている気がする」
どうしてこちらが使っている香水を把握しているのだろうか。隙間に身を潜めつつ、心なしか寒気がしたところで、その思いが通じたのか、バッサリとした言葉がエリオットから投下された。
「女性の香水とかいちいち気にするの気持ち悪いですよ」
「エリオット……。もっとこう、遠慮して言葉を発することは出来ないのか? 第一、僕は嗅覚が優れているから仕方ない」
この主従はお互いに遠慮なくものを言い合えるらしく、彼らの会話にはどことなく安らいだものを感じる。
「それで、ここまで殿下がいらしたということは何かあったのでしょうか?」
「ああ、そうだった。ユリウスが、騎士団の仕事を無断で欠席し始めたらしい」
「それはいつの情報ですか?」
「つい、数分前のことだ。探らせていた影たちの報告で、どうやら神殿の付近を自ら警備しているとのことだ。本格的に不味いことになってきたから伝えて置こうと思ってね。この付近の視察ついでに寄ったんだ。確か仕事を持ち帰っていたはずだから、夕方のこの時間には屋敷に居ると思ってな」
「わざわざありがとうございます。……彼がそうなったら示しがつかないというのに」
それにしても、その件だけならば言伝を頼めば良いのに、何故彼はここで直接、エリオットに会いに来たのだろうか?
エリオットも気になったらしい。
「アーネスト殿下。本題はそれではないでしょう?」
「ああ、お前ならなんとなく察しているとは思っていたが」
アーネストの声が一瞬だけ低くなったのをアリスは聞き逃さない。どことなく冷たく温度のない声が地面を這うように客間に響く。
「ここに、アリスが来ていたりしないか?」
「……っ!」
ぞわり、と背筋を伝ったのは恐怖だろうか。思わず縮こまっていた身体を揺らしてしまい、戸惑って声が出そうになるのを堪え、口元を己の手で塞いだ。
「……っ。何を馬鹿なことを言っているんですか?」
エリオットは一瞬息を飲んだが、すぐに平静を取り戻した。
一方アリスは、心臓がバクバクと鳴り響いている。この状態で顔を合わせるのは状況的にまずいと本能が告げている。隠れているなんて疚しいことがあると言っているも同じではないか。
「いや、別に大したことではないよ。この紅茶もアップルパイも彼女が好きなものだったからな」
──何で知っているの?
「さすが、詳しいですね。殿下」
エリオットは何も言わない。否定もしなければ肯定もしないのが最善だと知っていて、この対応なのだ。
「この屋敷のどこかに隠れているなんてことはないと思うが」
アーネストの無機質な声からは何も判断出来ず、アリスは息を止めることしか出来ない。
隠れているアリスすら伝わって来る威圧感を、エリオットは直接受け止めているのだ。
「そんな三文芝居みたいなこと、ある訳ないでしょう。アリス様が居たら居たで面白そうではありますが」
そう嘯くエリオットの心臓には毛が生えているに違いないとアリスは思った。
「とにかく」
アーネストは一呼吸置くと、ふっと息だけで笑い、
「分かっているな?」
怒っている訳では決してないというのに、何故ここまで身が震えるのだろうか。その威圧感を浴びているのはアリスではないはずなのに、指先が冷たくなった。
「……はぁ。承知しておりますよ。殿下。分かりましたから、その殺気を引っ込めてください。どうにもやりにくい」
これは殺気、だったのかとそこで初めて気付く。
「すまない。驚かせた」
「本当ですよ。驚きました。どうやら彼女と喧嘩したらしいですが、さっさと謝ったらどうですか」
全然驚いていないように聞こえるのは、気のせいだろうか。
「まあ、今のところ、会えないんだけどね」
「次の夜会……、何の祝いだったか忘れましたが、そこで会えるんじゃないですか?」
その日には会うのだから早く仲直りしろ、と言外に告げられた気がした。
「大橋の修繕が終わったからね。その祝いの席だったね」
今から憂鬱な気分を抑えられない。どっちにしろ逃げたままではいられないことは分かっていた。今のアリスが出来るのは、彼相手に感情を漏らさないことだ。
疲れ切ったエリオットが何かを囁いた。アリスには聞こえないように、アーネストだけに伝えたその言葉。
「そこまで神経質になるくらいなら、もっと昔から交流していれば良かったんですよ。もう二十三の御歳になるというのに、殿下は昔からちっとも変わっていない」
──何を、話しているのかしら。
「そうだね。エリオット。いつだってお前の言葉は正しい」
いつになく消沈した声だったのが印象的だった。




