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「っ……!アリス?」

 唇を思い切り噛みつかれ、アーネストの薄い唇からは僅かに血が流れていた。

 絡んでいた二人の唇は解かれて、今は上手く距離を取ることが出来ていたが。

「……! 申し訳ありません!」

 王太子である彼にしてしまったことに青ざめる。いくら嫌いといっても、していいことと悪いことがある。

 持っていたハンカチを彼の唇へと押し付ける。

 素直に受け取ったアーネストは何故か傷付いた顔をしていた。悲しげにアリスを見つめる意味が分からない。

「本当は嫌だったの? もしかして、今まで言えなかった?」

「殿下?」

 何故そこまで青褪めているのか。心から絶望したようにこちらを見つめるのか。

 ──不味い。変に思われたわ。


 慌てていた癖に頭の中は冷徹に働いている。


「私は、そうやってキスで誤魔化すのが嫌だと申し上げています!」

 今回、アリスが怒っていた表向きの理由としては、完璧だろう。婚約者を大切に思っているからこそ、そういった触れ方はされたくなかった。殿下の婚約者であるアリスの不満は、そういう筋書きになった。

「いや、誤魔化しているつもりは!」

「前々から、何も言えなくなると誤魔化すようにキスをするのです、貴方は!」

「……」

 アリスの剣幕に何も言えないのは図星だからだろうか。なんと情けないことかと思いながらも溜飲が下がる思いだ。

 女は怒らせると怖いと、これから警戒すれば良い。

「……本当に誤魔化しているつもりはなかったんだ」

「そんな言い訳が通用したら、今頃この国は無法地帯ですわね。良かったですわ。我が国の法が仕事していて」

「ごめん。そんなつもりはなかった。……謝っても何も変わらないことは分かっているけど……。でも、アリス。君のせいでもあるんだよ」

「何がですか?」

 思い当たる節はなかった。

「君が憂いを帯びた目で見上げて来ると、こう……なんというか、クるものがあって……」

「なんて不謹慎な! 男の方の……そういったことをお聞きしたい訳ではありませんわ! しばらく顔も見たくありません! しばらく私にお構いにならないでくださいまし! 御機嫌よう!」

 アリスはとりあえず怒って見せた。

 さっとドレスを捌きながら部屋を出る。もともと、ここはアリスの部屋だったはずなのに、何故こちらが出なければいけないのか。

 そういった事柄全てが腹立たしかった。

 とりあえず、男嫌いになりそうなのが目下悩みの種である。


 ひとまず、痴話喧嘩中の間にアーネスト相手にどう立ち回るか、それを考えなければ。



「失敗しましたわ」

「さすがにまだ感情面だと不安定ですか。アリス嬢とアーネスト殿下の噂で持ち切りですよ。何でも珍しく仲違いをされたとかで」

 市井の街中、背中合わせに設置されているベンチ越しに、マティアスに近況報告をしていた。

「以前よりは楽になりましたわ。恨むことは簡単とは言いますけれど……。何故、こんなにも彼を目障りに思うか不思議です。まさかこうも変わってしまうなんて」

「ああ、アリス嬢。彼を目障りに思う理由については深く考えてはいけない。綻びが出来ますからね。術が解けてしまう」

「成程。やはり暗示のようなものなのですね」

 つまりは感情を操るなんて神の所業なのだ。

「彼との関係について哲学しなければ、何も問題ありませんよ。それに、嫌いな人のことは考えない方が楽ですし」

 結局のところ、嫌いという感情自体、ある意味では彼に執着している証なのだ。その事実が少し腹立たしい。

「淑女の腕の見せどころですわね。ええ、上手く演じてみせますわ」

「はは、やはり貴女といると退屈しませんね。……それにしても今日も猫と一緒なのですね」

 アリスの膝の上にちょこんと座っているのは黒猫だ。にゃーん……と可愛らしく控えめに鳴く姿は愛らしい。

「最近、屋敷に置いて来ても、気が付けば後を着いて来るのです。確かに置いて来たはずなのに……」

「この黒猫さんは貴方の小さな騎士ですね。……まあ、実際はそれどころではないとは思うのですが……」

 後半、何を言っているのか、分からず問いかけようとしたが、その折、焦ったような侍女の声が。

「アリスお嬢様! 離れられては困ります! お探ししたのですよ?」

「あ……。ソフィー! ごめんなさい。知り合いが居たものだから……つい」


 侍女の声に、マティアスは何故か黒猫を抱き上げると、一瞬にして外野へと回る。アリスとの接点は見受けられないようにと、即座に関係なさそうな本を開いて後ろで熟読していた。なんという変わり身。

 今は御用達である仕立て屋へ直接赴いていた帰りである。実際は、マティアスがアリスを見つけて声をかけて、こっそり抜け出したのだが。

「すぐ近くだから大丈夫だと思ったの」

「もう! お嬢様が変な輩に声をかけられたら、どうしようかと……。それにお連れの方は……」

「ああ……それは」

 もう帰ったと伝えようとした瞬間、「おや? アリス様?」と、アリスを認める者の声。

 その声の主を確かめるべく振り返ると。


「こんなところで会うとは奇遇ですね。アリス様」

「あら、エリオット様ではないですか。貴方が外に出るとは珍しいですね」

 ブラウンの髪。銀縁の眼鏡の奥に煌めく濃い緑色の瞳。

「まるで私が引きこもりのように……。まあ、その通りなんですがね。コーヒーを切らしてまして、発注も日々の激務で忘れている始末。使用人に頼もうにも、彼らはコーヒーについては詳しくないようですし。でもあれがなければ生きていけないので、珍しく徒歩で」

「あらまあ。明日は雪が降りそうですわね」

「季節外れ過ぎませんか。……どうです? 久しぶりに付き合っていただけませんか?」

 侍女のソフィーにちらりと目をやれば、仕方ないと言わんばかりの目で苦笑している。

 とりあえず、この周辺で待機してくれるようだった。

 エリオットが何か話したい時は、なるべく人払いをするというのが昔からの習慣だ。

 現国王の宰相の嫡男。アーネストの未来の片腕として名を馳せており、現在もアーネストの執務を支えている程の敏腕であり有能な男だが、いかんせん人嫌いのところがあった。

 王都の中心街を彼に伴われて歩いている間、彼の横顔を見上げれば、何やら彼は疲れているように見受けられた。

「何かございましたか? 随分とお疲れのご様子ですが……」

「私は人嫌いで厭世的なところがあるから、かの令嬢を直接見たことがないのですが……」

 ぼそり、と口にしただけなのに、そこに込められる怨嗟は酷かった。

「そう簡単に婚約破棄を連発されては、貴族社会が乱れる。それだけでも疲れるのに、今日の殿下も使い物になりません」

「婚約破棄が多数とは、聞き捨てなりませんね。それは確かに面倒な事態ですわ」

 貴族社会の政略結婚がそれぞれ破棄されれば、それは社会問題だろう。……殿下は、別に放置で構わない。

「聖女関連のいざこざは私たちに一任されているので、何かある度に書類が増え、各種対応が求められるのですが、あのクソ聖女! 今月に入って何回目ですか。ああ、あの女の姿を見たことすらないのに、ここまで問題を起こしてくれるってだけで印象最悪です」

 眉目秀麗な彼の欠点。毒舌家。

 文武両道で優秀な参謀タイプの彼だが、彼は人嫌いで引きこもり体質であり、執務室と己の屋敷にしかいないらしい。

 毒舌家ではあるが、男の友人は多いエリオット。そんな彼は、女嫌いで有名だった。

 ──私以外の女性と会話しているのを見たことないくらいに。

「聖女……ルチア様のことですか。頭の中で何を思っていてもエリオット様の勝手ですが、口に出すのは不敬ですわ。何があったのですか」

 心なしか、彼の足が速まっている。ついて行くのが精一杯だ。

「婚約破棄は、皆男側からしている。その理由が全て『聖女様にこの心を捧げたい』なんですよ。なんなんですか、あの聖女。煩わしいことばかり増やして、殿下の面会を求めてばかりなのも気に食わない。あんな純朴そうな顔をしていても、いずれ醜い部分が顔を出すに決まっている」

 ふと引っかかった。

「エリオット様は、彼女のこと好きになったりはしないのですね?」

「ああ。皆、彼女に骨抜きなようで? っは。クソ喰らえだな。お前も彼女に会えば分かると友人に言われた瞬間、俺は絶対に会うものかと決めた」

「落ち着いて下さい。エリオット。口調が素に戻っています」

「失敬。アリスに会って愚痴ったらつい」

 アーネストに忠誠を誓い、傍で侍るのは昔から。その筋で、王太子の婚約者であるアリスと交流があるのは案の定当たり前のことで。

 お互いにあまり交流を求めなかったアーネストよりも、エリオットの方が馴染み深い友人だ。

 彼とは昔からの顔見知りで幼なじみであるから、彼はこうして時折昔と同じような態度で、アリスに接して来る。

「……成程。エリオット様はルチア様に直接お会いしたことはないのですね?」

「当たり前です。お綺麗な心をお持ちの聖女様とは相容れません」

 すごい偏見だ。

 だが、一つだけ収穫があった。彼女の姿を見ていない者はどうやら、魅了されていないらしい。彼女の姿を見たら魅了されるのか、それとも彼女と話したら……なのか。

 条件は分からない。それと、ありそうなのは……。

「話は変わりますがエリオット様。ちょっとこれに触れてくださいませんか?」

 アリスが胸元から取り出した深い夜空の色をした輝石のペンダント。それを彼の手に触れさせる。

「初めて見る石ですね? ……して、これがどうかされました?」

「……成程」

 触れても何も起こらないことを確認した。

 これは、マティアスから渡された魔道具。

 魔力持ちの者がこれに触れると、色がエメラルド色に変化するという。

 ──エリオット様は魔力持ちではないようね。だとすれば、ルチア様に魅了されるには条件があるのね。

「宝石にしては冷たいような……? 随分と珍しい石だな……。よろしければ研究したいのですが」

「駄目です! なんとなく自慢したかっただけなので!」

 彼相手だと、少し気が緩んで嘘も誤魔化しも穴だらけになってしまう。

「……それより、アリス様。殿下と仲違いされたので? 殿下がいつになく落ち込んでおられますし、大分噂になっておりましたし」

「そうですね。しばらく殿下とは顔を合わせたくありません。そう言っておりますのに、あれから謝罪の手紙ばかり届きますの」

「それはそうでしょう」

 本当に面倒だ。返信もしなくてはならず、煩わしくなり、今日は執事に丸投げした。

 久しぶりの休暇に何故、書類作成をしなければならないのかと憂鬱になっていたら、申し出ててくれた執事が居たのだった。

「アリス様も参っているようですね。てっきり殿下とは上手く行っているものだとばかり。ふむ……久しぶりに我が家へいらっしゃいますか?」

「はい? それはどういった……?」

「久しぶりの我が家の料理人のつくった特製のアップルパイでも召し上がらないかと思いまして。アリス嬢は昔からあれが好きだったでしょう?」

「……ありがとうございます」

 彼が柔らかい表情をしてくれているのに安心したアリスは侍女と共に、彼の屋敷の方々に少しご挨拶をしていくことにした。

 この後に厄介なことが待ち受けているとは知らずに。

 ちらりと後ろを振り返ると、マティアスと黒猫は姿を消していた。

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