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 あの取引の後、アリスがまず行ったのは両親に謝ることと、ルチアへの忠誠を誓うことだった。

「私が全て悪かったのを、ルチア様は寛大にも大事にはしなかったようなのです。そのお心に私は感激致しました。これからは愚かな真似などせずに、誠心誠意この国に仕えて参りますわ。お父様、お母様、此度はお見苦しい姿をお見せしてしまったこと心から謝罪致します」

 つまりは心にもないことが口からスルスルと飛び出していくのだが、父は満足気に頷いているし、母は涙を浮かべて喜んでいるようだ。

 不自然すぎて苦笑しか出来なかったアリスだったが、その効果は絶大だったらしい。

「雨降って地固まるとはこのことね!」

「アリス。私たちは分かっていたよ。お前は聡明な娘だと」

「あの時はどうかしていたのですわ。まずはルチア様に謝って、これからの私を見て頂かなくては!」

「ああ……! アリス!」

 茶番である。

 内心吹き出しそうになるのを堪えながら、謹慎は無事に解かれたのだった。


 謹慎が解けた後、すぐに神殿に向かい、「謝罪したい」という一言で簡単に入ることが許されたことに驚愕しつつも、警戒心あらわな神官たちに見張られ、聖女のおわす一室へと案内されていく。

 あれ程の醜聞があった後でも入ることが許されるとは、彼女はどれだけ心が広いのだとか、延々と神官に語られ、時折罵られる。

「それというのに貴女は愚かにもルチア様に手を上げたらしいではないですか。謝罪というが、本当なのですかな?今回、彼女が許可しなければ入れるはずがなかった」

「重々承知しております」


 足を踏み入れた先、聖女である彼女のいる空間は神々しく思えた。

 ピンクブロンドの髪を背中に流し、白いドレスを纏ったルチアを見て庇護欲をそそられない者はいるのだろうか。

 金色の瞳がこちらを認めると、彼女はふわりと笑った。

「こんにちは。アリスさん。何か私に御用ですか?」

 無邪気にも見えるが、彼女の目に宿るのはどこか勝ち誇った優越感とも言える感情で。

 ──歳頃の令嬢としては普通だけど、聖女とは言えないわね。あの様子だと。

「アリスさん、私に謝りに来たんでしょう? 私、貴女が自分の罪を認めてくれるなら許します! 神に愛される存在として」

 健気にもうるうると目に溜まる涙は零れ落ちそうだ。

 ──この言動で眉を顰められないことも不自然なのよね。

 隣にいる神官なんて、「ああ……無邪気でお可愛らしい」とか呟いているし。

「はい。この度はご迷惑をおかけしたことを謝罪しに参りました。本当に申し訳ございませんでした」

 正式な礼の形を取り、謝罪すれば、ルチアは頬に手を当てて「うーん……」と可愛らしく首を傾げる。

「謝るだけなら誰でも出来ますよね? 私、怖かったんです!こうやって謝ってくれても嘘なんじゃないかって」

 ──つまりどうしろと?

 内心が表に出ないように務めながら、考えていた奥の手を首からそっと外す。

 アーネストが首から下げてくれたペンダントは、婚約者である証と言っても良い代物で、王家に伝わる宝石があしらわれていたが、構わない。

 ──聖女様に渡すなら誰でも納得するでしょう。

 これはつまり、アリスから婚約者の座を奪っても何をしても許されるという名目をルチアに与えたといっても過言ではない。

 婚約は書類上のことで決定事項ではないけれども、アリス側が放棄したと周囲に思われても仕方ない。

「これを差し上げることで、私の本気をご理解頂ければと思います」

 ざわっとその場の空気が変わる気配がした。


「綺麗なペンダント。でもそれがどうしたんですか?」

 聖女にはその意味が伝わっていないようであったが。

「恐れながら……ルチア様。私は貴女に忠誠を誓うという証ですわ。このペンダントは殿下から贈られたもので、王家に連なる者が持つものなのです」

 にこりと微笑めば、その場の空気が一変する。


「聖女様のためとは言え、アリス様がここまでするとは……」

「ここまでされるなら本気ということなのでは?」

「これは……まさか公爵家令嬢の方がここまでするなんて」


 アリスのことを信じてもらえないならば、元凶に擦り寄るまで。打算に気付かれない程度に。

 確かな手応えにアリスは嘆息した。


「そこまで言うなら、私はアリス様を許します!」


 おおーっ!という歓声。妙に熱っぽいそれに内心は気色悪さを感じながら、目的を達したことに満足感でいっぱいだった。

 ──問題は山積みですが、まずは行動しやすくすることが大切ですわね。


 気持ちが悪いことに、公爵家でアリスの行動は称えられた。

 己の覚悟と決意を持って忠誠を誓った令嬢として、貴族の間を駆け巡って行く噂はどれも仰々しい。

 たった数時間で何があったのかと言われるレベルである。


 部屋でくつろぎながら、黒猫を撫でていれば、侍女が次から次に報告を持って来るのだ。

 たかが数時間。されど数時間。貴族の間の伝染力はとてつもない。

「お嬢様。殿下がいらしています!」

 ──ついに来た。

 それにしてもいつも突然なのは何故だ。

「来賓室に案内を……」

「その必要はないよ」

 侍女に声をかけた瞬間、割り込んで来た声。


「アーネスト殿下。この度はお騒がせして……」

「そういう謝罪を聞きたかった訳じゃない。……すまないが、彼女と話がしたい。人払いを頼む」

 ちらりと侍女がアリスの方を伺う。アリスは嫌々ながらも目で「下がって」と合図をした。

 バタン、と少し大きめの音を立てて閉められるドア。

 そこからアーネストの不機嫌さが伝わって来るが、そんなこと知ったことかとばかりにアリスは距離を置く。

 何か言いたげな雰囲気を醸し出しているのは重々承知だが、アリスは目の前の人物との会話に面倒を感じて既に気力が湧かなかった。

 ──何で来るのかしら。

 その綺麗な金色の御髪も、相変わらず澄んでいるサファイアの瞳も、アリスの感情を逆撫でする。



 有り体に言ってしまえば、視界に入って欲しくない程、目障りでしかなかった。



「突然すぎる訪問ではありませんこと?」

 声が刺々しくならないように気をつける。殿下に対してそれは不敬だからだ。

「まるで来て欲しくなかったようにも聞こえるけど」

 ──お綺麗なそのお顔を顰められたところで、美しいだけだわ。

 どんな顔をしても美しさは損なわれないアーネストが羨ましいと同時に不愉快だった。

 ──何なの? これは。これは、嫌悪感?

「アリス」

 こちらの髪に伸ばされた指先に、明確に感じた嫌悪と不快感。思わず浮かべそうになる顰め面を見られないように俯く。

 頬を撫でられながら、背中はゾワゾワとして冷たい汗が一筋流れる。

 触れられたくなかった。何故、アーネストはことある事に触れようとするのか、それは趣味なのか何なのか本気で問いかけたくなるが、そんな愚かなことはしない。

 ──余計な波風はいらないわ。

「これ。返してもらったよ。ルチアから」

 シャラリと金属の音がして、首にかけられたのは例のペンダント。

 首輪をかけられた気分だった。

「いくらルチアにあげるといっても、これはいけない。代々伝わってきた宝石だろう? それにこれは僕が君にあげたものだ。婚約者に渡すものだって君も知っているよね?」

 ──だからこんなもの、今は付けたくもないのに。

「……それを差し上げたところで、書類上では決まっているから何の問題もございませんでしょう?」

「そうかもしれないけど、それを誰かに譲渡するなんて前代未聞だ! 君は婚約を破棄されても構わないと公言したも同じだ!」

 ぐっと掴まれた肩。男の大きな手がアリスの細い肩を本気で掴み、骨が軋む音が聞こえた気がした。

 ──何故、この方はこんなにも取り乱されて、怒っているの?

「アリス!」

 ──うるさい。

「君は僕との婚約に不満でもあったのか?」

 ──気安く触らないで。

 少なくとも結婚したところで、上手くいくとは思えない。今のアリスはかつてアーネストを好きだった頃とは違い、目の前の男が目障りで仕方なかった。

 ──私はこの男が憎くて仕方なかった。理由ははっきりとしないけれど。

 心当たりは一つ。恋心を消してしまったからだろう。

 以前の記憶は保持したままだが、感情の変化が著しく、かつての自分が何を悩んでいたのかも定かでない。

 ──本当、何を悩んでいたのかしら?こんな男相手に。

 目を合わせないまま俯いていたら、ふいに頤を指先で固定され、無理矢理、視線を合わせられた。肩をぐいっと押されて、壁に押し付けられる。

「何をそんなに怒っているの? アリス」

 ──そちらの方が怒っているようにしか見えない。

「私は何も怒っていませんわ。それよりも女性相手に乱暴すぎやしませんこと?」

「アリス?」

「私、男の方のそういうところが気に入りませんわ。こちらよりも腕の力が強いからと、そうやって押し込めれば解決するとお思いのところなんて特に。貴方もそうなの? 殿下」

「何が気に入らない? 言ってくれないと分からないだろう!」

 ──そういうところですわ。

 こちらが口を噤んでいれば、彼の強行は凶行へと変わっていく。

「アリス……」

 あろうことか切なげにこちらを見つめて顔を近付けて来るのだ。

 ──そういうところ、軽蔑しますわ。

  落胆と嫌悪といった負の感情を見せないようにするので精一杯で、せめて慎ましく映るようにと彼を上目遣いで見つめた。

 アーネストの悪癖。何かあればキスで誤魔化す。

 僅かな抵抗としてさり気なく顔を逸らして、彼の唇を避ければ、ムキになったのか強引に唇を合わせてくる。

「っんぅ…!?」

 ──生暖かくて気持ちが悪い!

 僅かに湿った薄い唇の感触と、熱い息が断続的に唇越しに伝わって来るのがもう駄目だった。

 ちろりと小さく舐められ、舌を侵入させようとするのも、生理的な嫌悪感が勝る。

 口付けの最中、ちゅっ…と生々しい音がするのも耐えられなかった。


 好きでもない人とのキスはこんなにも苦痛だと初めて知ることが出来た。


「んっ……いっ、」

 いやっ!と拒否の声が漏れそうになったのを堪える。

 ここで振り払えば面倒なことになるのは必須。早く終わってくれないかと期待するしかない。

 ──ああ。もう無理。我慢したけど、もう無理!

 さらに深めようとした口付けを振り払おうとしたら、ぐっと強引に壁に押さえつけられて、頭を引き寄せられる。

「……逃がさない」

 僅かに離された彼の唇から、吐息のような声が咎めた。

「やっ……」

 せっかく離れたのに、再び触れようとする彼の唇を避けることは出来なかった。

 ──嫌! いや!

 それは無意識だった。

 ガリっと音がして、咥内に広がるのは血の味。


 ああ。私はやってしまった。


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