月は丸い?
少しの不安と沢山の期待。
僕の今の気持ちだ。
高校入学を機に、なんとか親を説得して一人暮らしを許してもらい、引っ越しの荷解きが一通り済んだところ。
まだ殺風景な部屋を見渡し、頬を緩める。
「これが俺の新生活の拠点……」
観葉植物とか、おしゃれな置物とか置いてみようか。
なにせ高校生だ。きっと女の子をこの部屋に呼ぶこともあるだろうし、そうなればその先のことだってあるだろう。部屋を見てやっぱりこの人は無いわ、なんてことは避けなければ。
ああそうだ、女の子はベッドの俺の隣でいいとして、とりあえず友達が来たとき用にクッションをいくつか揃えておこう。
友達か。
何人かは同じ中学のやつも入学してるけれど、それ以外のやつらともすぐに馴染めるといいな。
いきなりアクセルぶっ飛ばして引かれないように、無難な自己紹介を考えておかないと。
それから、それから……。
これからのことを考えるとまるで切りが無い。
「どうしよう、全然落ち着かっ、ごほっ、ごほっ!」
はしゃぎすぎたせいか、部屋の整理をしていたせいか噎せてしまった。
「窓くらい開けとくべきだったな」
ベットに片膝をつき、窓の鍵を開ける。
下見の時にこの窓を開けて、正直がっかりした。目一杯体を乗り出して手を伸ばせは届きそうな距離に、隣のアパートが建っているのだ。よって見晴らしは最悪。
まあ、もう一箇所の窓は南向きで採光に支障は無いし、高校からの距離や家賃その他色々を考えて結局この部屋に決めたけれど、本当、この窓だけはいただけない。
それなのに僕は、最悪の窓を開けた瞬間、その向こうの景色に見惚れた。
「こんばんは、新しいお隣さんかな?」
窓の向こうは相変わらず隣のアパートだ。ただし壁ではなく、その一室の窓が、ちょうどこちらの窓と向かい合わせになる位置にある。
今、その窓は開け放たれ、そこから一人の女性が微笑みかけていた。
「え、あ、あのっ……」
女性は大学生くらいだろうか、いやもっと大人のような気もする。
けして老けているという意味ではない。
大人っぽいのだ。
アダルトなのだ。
後ろ髪を髪留めでアップにまとめ、上はキャミソール一枚、下は非常に残念ながら窓枠の下で見えない。
火照って夜風にでも当たっていたのだろうか、片手には缶チューハイで、頬は僅かに赤く染まり、トロンと融けた目に僕は囚われてしまった。
「こんばんは」
「はいっ! あの、こんばんは!」
お姉さんからの再びの挨拶に、僕はひっくり返った声で返した。
「ねえ、引っ越してきたの?」
「は、はい、今日、来たばかりです。その、ここ高校で、ひと一人暮らしで」
「そっか」
舌が上手く回らない。
落ち着け。落ち着くんだ。
興奮で荒くなりそうな鼻息をなんとか抑え、ゆっくりと空気を吸い込む。
爽やかな柑橘系の香りがする。
あ、これ、お姉さんの香り……じゃないな。
お姉さんが持っているレモンハイの香りだった。
ちょっとのがっかりで頭に冷静さが戻って来た。
こんなに綺麗な人と隣? それとも向かい? になれたんだから、ちゃんと挨拶しないと。
「ねえ、君」
「はい!」
ちゃんとした挨拶というのを考えていたら、先にお姉さんの方から話しかけられた。
お姉さんは目線を僕では無く、アパートの壁に挟まれた細長い空に向ける。
「今日の月は丸いかな?」
「え?」
お姉さんは細くて白い指を立てる。爪の形まで綺麗だ。
「ほらあれ、月」
お姉さんの指を名残惜しみながら目を空へと移すと、長方形の枠の真ん中に月が浮かんでいた。
もしかしてお姉さんはけっこう酔っているのだろうか?
今日の月は三日月だ。
「いえ、丸くはないですよ」
僕の答えを聞くと、お姉さんは意地悪そうに笑った。
「そっか、君はあれが丸くないと思うんだ」
「だってあれ、三日月じゃないですか」
「ふふっ」
お姉さんは艷やかな唇を缶に付けてお酒を一口飲み下す。
「月が欠けるとき、本当に月は欠けてる?」
「えっと、どういうことですか?」
「月が欠けるとき、欠けた部分は無くなってしまっているのかな?」
「それはまあ、無くならないですけど」
「そう。あれは影になって見えないだけ。だから三日月であっても月は丸いまんま。今日も、これからもずっとね」
お姉さんは挑発するように語尾を上げた。
それで僕はドキッとした反面、少し言い返したくなってしまった。
「でも、月って丸く見えても実際はクレーターとかでデコボコじゃないですか」
「ふーん」
「自転や地球の重力の影響でほんのちょっと潰れてもいますし」
「君は凹凸があったり、歪んでいたりしたら丸じゃないって言うんだ?」
お姉さんは目を細めて口を尖らせる。
細か過ぎることを言って気を悪くさせてしまったかもしれない。
せっかく綺麗なお姉さんと仲良くなるチャンスだったのに、僕はなんてことをしてしまったんだ。馬鹿野郎。
慌ててフォローの言葉を探していると、お姉さんは窓から身を乗り出して近付いてきた。
「それじゃあ君には、これも丸く見えない?」
そう言ってお姉さんは、自分の胸に付いた二つの大きなまん丸を腕で持ち上げる。キャミソールの薄い布越しに、腕に圧されて形を変えるのがよく見えた。
瞬間、頭が沸騰した。
「ふふっ、あはははっ。大丈夫? 顔が真っ赤っかだよ?」
「いや、あの、これはっ」
「あーおかしい。君も酔っているのかな? お酒飲んでないのにね」
こんなにも狼狽えてしまったことが子供っぽくて、恥ずかしくて、僕は何も言えなくなってしまった。
「熱くてもちゃんと布団を掛けて寝なよ。風邪をひかないようにね」
俯く僕におやすみと挨拶を残して、お姉さんは窓を閉めた。
しかし僕の方は窓越しにおやすみなさいと返した後も、熱くてしばらく窓を閉められなかった。
三日月を見上げて思う。
また、お姉さんとお話できるだろうか。
引っ越してきて早速、楽しみが一つできた。
その夜、僕はお月見をする夢を見た。
不思議なことに、空には丸い月が二つ並んで浮かんでいた。