表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

雨降りの午後

作者: 東山未怜

「うそ……」

 訪れた図書館の机を前に、私は小さくつぶやいてしまった。

 思わずもれた声に目の前のその人は気づかず、なにかの本を熟読している。


 高校の最寄り駅近くの、小さな図書館。

 中間テストの勉強をしようと、私はひとりでやってきた。ギリギリの成績で入学したから、必死に勉強しないと、赤点まっしぐら。

 最近仲よくなった子たちとは駅で手を振って別れて、私はそのまま電車には乗らず、ここにやってきた。


 そしたら……なんで、うそ、どうして。


 窓辺の席。机に向かう、大学生らしき男の人。

 涼やかな目もとのホクロ、すっとした鼻すじ、そしてメガネ。

 あの人に、とてもよく似ている……そう思いながら、私は彼の正面に座る。

 静かにノートや参考書を取りだして広げてはみても、文字は記号でしかなく、ちっとも頭に入らない。


 ちらちらと彼の顔を盗み見したあと、視線を窓の向こうに移す。そぼ降る雨の中、青い紫陽花が咲いていた。

 そうか今、梅雨なんだ……私の想いが強すぎて、幻覚でも見ているような気がしてくる。

 教科書に目を落としながら、私は遠い日のことを思いだす。

 


 その人の名は、スグルくんといった。

 彼と出会ったときの私は、まだ小学三生だった。

 

 私はどこかまがぬけていて、おっちょこちょいで、元気だけが取り柄といった子どもだった。

 よく忘れ物をした。よく失くし物をした。

 家のわりと近所でも、ちょっと違う小道に入ってしまえば、帰り道がわからなくなった。

 心細くて、犬の散歩のおじさんや、スーパー帰りのおばさんに、道を訊ねるなんて日常茶飯事だった。

 

 

 六月のあのとき、私は町内の公園で友だちとふたりで遊んでいた。

 ジャングルジムのてっぺんで、私は歌をうたった。


「私の絵の具箱ー、カビだらけになっちゃったー」


 でたらめに歌っていると、鈍色の空から大粒の雨が降りだした。カギっ子の友だちは、

「洗濯物取り込まなきゃ!」

 そう言って、いちもくさんに帰っていった。

 取り残された私は、ゆっくりジャングルジムを降りて、家に帰ろうとした。


 ところが、帰り道がわからない。あの道もこの道も、知っているようでまるで知らない道だった。

 いつもより遠くの公園にきたのがまずかった。いきは友だちとのおしゃべりに夢中だったし、明日は遠足で浮かれていたから、家までの帰り道なんて確認していなかった。


 どうしよう……途方に暮れた。けれど、雨は強くなるばかり。このままここにいてもしかたがない。とにかく、歩きだすことにした。あてずっぽうに。 


 

 雨の中さまよった。道を訊こうにも、雨降りの空の下、通りには誰もいない。寒くなりお腹もすいてきて、気づけば私は、おんおん泣きながら歩いていた。


「どうしたの?」


 男の人の声に、びくっとした。

 住宅街の一軒家、開いていた門から、メガネの男の人が顔をだしていた。高校生くらいのお兄さんで、私に歩み寄ると、さしていたビニール傘をかざしてくれた。


「うちがどこだか、わかんなくなっちゃった……」


 お兄さんは頭をかいて、まいったなあというような顔をした。

「……どのあたり?」

「稲荷神社のすぐそば……」

「ああ、神社ならわかるよ、近くだね。けど、その前に」


 お兄さんは私を招き入れ、雨のあたらない軒下へと導いた。

 そこから見る庭は、アパート暮らしの私には、はじめて見るものだった。鯉の泳ぐ池。手入れのいき届いた、いくつもの庭木。石垣の上の大きな松。広大な芝生。私は立派な日本庭園にびっくりして、泣くのを忘れた。


 玄関を開けたお兄さんが、

「母さーん、タオル持ってきてー」

 大きな声で呼びかけた。やがてタオルを持ってでてきたその人のお母さんが、私を拭いてくれた。私は心の底から安心した。


 髪の毛も服もびしょびしょだった。水を含んだ髪の毛の先は、濡れそぼった絵筆のようで、なんだかおかしくなってきた。それでお礼を兼ねて、歌を口ずさんでみた。


「私の絵の具箱ー、カビだらけになっちゃったー」


 お兄さんのお母さんが笑いだした。お兄さんもひとしきり笑って、そのあとに訊いてきた。

「絵の具箱?」

「うん、学校で使ってる絵の具セット。今日の図工で久しぶりに開けたら、筆も絵の具もね、びっしりカビが生えちゃってて。私のだけだよ? 恥ずかしかった!」

「あらまあ。梅雨は、カビが生えやすいからね」

 お兄さんのお母さんはそう言うと、鳴りはじめた電話の音に、あわてて家の中へ戻っていった。


「梅雨って、カビが生えやすいの?」

「梅雨ってやつは、じめじめしてるから、そうなんだよね。パンにも生えるから、気をつけなきゃ」

「パンにも!」

「そうだよ。でも、僕はこの梅雨の季節が好きだよ。あ、そこ踏まないで!」

 厳しい声に、あわてて立ち止まった。小ぶりになった雨につられて、私はつい、庭をうろちょろしていた。目の前の石垣の下には、緑色のふかふかしたものが広がっている。


「苔だよ、杉苔っていうんだ。梅雨のころは、こいつらの天国だよ。すこしずつ増えていくから、観察も楽しい」

「杉苔? なんか、かわいい」

「日蔭を好む苔で、杉の葉に似てるから、そういうんだ。僕がいちばん好きな苔。こいつらは僕が育ててる。苔の中でも、栽培はかなり難しいよ」


 どこか得意そうに、お兄さんは言った。すっと通った鼻すじをした顔を見つめていたら、メガネの目もとのホクロに気づいた。


「あ! お兄さん、私とおんなじところにホクロある!」

「え? ……あ、ほんとうだ」

 お兄さんは微笑んだ。

「仲間だね」

 その言葉に私はうれしくなった。親近感、そういう言葉は知らなかったけれど、ただただ、うれしかった。

「うん、仲間!」

「それじゃあ、お仲間さん、よく見てあげて、僕の杉苔を」

 私はしゃがんで、そうっと杉苔にさわってみた。雨を含んだその緑は、ふんわりとてのひらにやさしい。

「どう? かわいいでしょ」

「かわいい、すっごく!」

 すると、お兄さんはまた微笑んだ。

「よかった、泣き虫迷子が笑ってくれて。家まで送るよ」


 もうちょっと苔を見ていたかったけれど、早く帰らないと、母親が心配するだろう。母親の心配はヒステリーに発展するから怖ろしい。

「いこう」

 お兄さんの言葉に、私はその場を去ることにした。

 


 相合い傘で歩きながら、お兄さんは苔の観察が趣味だということ、名前をスグルということ、高校生だということを教えてくれた。


 耳ではスグルくんの言葉を聞きもらさないようにして、目ではしっかりスグルくんの家から自分の家までの道順を憶えるのに、必死になった。

 またあの家にいって、苔を見たかった。スグルくんと、仲よくなりたかった。


「スグルくん、高校ではなにか部活、やってるの?」

「え? ……高校っていっても……」

 見あげると暗い顔で、ひとりごとみたいに言った。

「学校、いってないんだよね……僕のせいで、両親には迷惑かけてる」

「いってないの? どうして?」

 無邪気さはときに残酷だと、今ならわかる。だけど私はあのとき、とっさにそう訊いた。


「学校には、怖い奴らがいっぱいいてさ……家にまで押しかけてくることもあるんだよ」

 ふてくされたように、それでいて泣くように、スグルくんは言った。私の胸の中には、強い怒りがこみあげてきた。

 スグルくんに、怖い思いをさせるなんて!

「もしかして、スグルくんをいじめるの? そんな奴ら、私がやっつけてやるから!」

「……ありがとう。心強いね」

 微笑んでくれたその顔は、困っているのに、なんだかうれしそうだった。


 やがて稲荷神社が見えて、私たちは足を止めた。うちのアパートもよく見える。

「おうち、どこだかわかる?」

「うん! もう大丈夫」

「よかった」

 はにかんだスグルくんに、私はせいいっぱいの笑顔を見せた。

「スグルくん、ありがとう。ばいばーい!」

 こんどは私が助けてあげよう、遠くなる後ろ姿を見送って、強く思った。



 家に帰ってから母親に、きーきーきーきー怒られた。

「心配したじゃない! 遅いんだから。また迷子になったの? 変な人に誘拐でもされたら、どうするの! もう遠くへ言っちゃダメよ!」

 矢継ぎ早にまくしたてるものだから、私はうなだれるしかない。ここで反論したら、火に油をそそぐようなことになるのは、わかりきっていた。


 だからスグルくんに助けてもらったことは、自分だけの秘密にした。言わないほうがいいように思えたし、言いたくもなかった。とってもたいせつな、ふたりだけのできごとのようだったから。



 次の日の遠足は晴れたものの、期待していたよりずっとずっとつまらなかった。

 バスの中でぎゃんぎゃん騒ぐ男子が、とても幼稚に見えた。スグルくんみたいにやさしくない。背が高くない。声が低くない。

 なのに友だちは男子の誰それとおやつを交換ができたなんて、きゃあきゃあ喜んでいる。

 それがどうしたというんだ。あたしは昨日の雨の中で、あのほんの数十分で、いきなりおとなになった気がした。

 また会いたい。早く会いたい。スグルくんに会いたい。そうだ、お習字の帰りならきっとお母さんにバレない……そうしよう。

 そればかりを考えていた。

 


 その翌日は毎週通っているお習字の日で、やっぱり雨降りだった。うちからまっすぐいくとたどり着ける近所の書道教室は、私でさえ迷うことはない。

 

 道がわかるのだから、母親の言う〝遠く〟ではないし、そもそも子どもの私の足では、そうそう遠くへはいけない。だからこそ、スグルくんと過ごした時間は、とくべつなものに感じられた。どこか知らない遠くでの、夢物語のようだった。

 だけど私があのとき迷子になったのも、ちゃんと家に帰ることができたもの、現実だった。となれば、夢でもなんでもない。

 

 畳の部屋に入ると、同じ学年の男子が騒いでいた。おじいさん先生の注意を無視して、わめいている。

 私はそんな子ども、相手になんかしない。もう私は大人なんだから。

 すました顔をつとめて、正座をした。そうっと筆巻きを広げたところで、私の大人への扉はがしゃんと閉ざされた。

 あろうことか、小筆も大筆も見事にカビだらけになっていた。筆を洗ったあと、乾かすのを怠けたからだ。こんなの、ちっとも大人じゃないように思えた。スグルくんの仲間、失格かもしれない。

 まったく梅雨ってやつは。だけど――先生の目を盗み、ティッシュでカビを拭き取りながら、スグルくんを思いだす。

 梅雨、スグルくんの好きな杉苔がよく育つ梅雨、ありがとう。

 そっと胸のうちで唱えたら、気分が上を向いてきた。



 書道教室の帰り道、私は自分の中に眠っているはずの方向感覚を総動員させて、スグルくんの家をさがした。会いにいくことにした。

 だけど、スグルくんの家がどこだか、やっぱりさっぱりわからない。

 それでもなんとか公園までたどりつくと、奇跡が起こった。

 公園の青い紫陽花の茂みのあたりに、ビニール傘をさしたスグルくんがいた。


「昨日はありがとう!」


 駆け寄るとスグルくんは、


「ああ、昨日の迷子」


 そう言って、メガネの奥の目が微笑んだ。その笑みが私に向けられていることが、とてもとてもうれしくて、私はどこか甘い気持ちを噛みしめながら訊いた。

「何してるの?」

「苔を探してるんだけど……見あたらないな」

 また苔か……でも、そういうスグルくんだから、なんだか気になってたまらない。

「スグルくんのおうち、この近くだったよね? かわいい杉苔、見せて」

 びっくりしたスグルくんは、すぐに笑みを浮かべた。ものすごくうれしそうな、とびきりの笑顔を。


「杉苔、好きになった?」


「うん、好きになっちゃった」


 言ったとたん、胸がどきんとした。


 好きになったのは、杉苔のことなのかスグルくんのことなのか、よくわからない。

 もしかして両方かもしれないと思ったら、よけいにどきどきした。だから私はまた、あの歌をうたった。


「私の絵の具箱ー、カビだらけになっちゃったー」


 笑いだしたスグルくんに訊かれた。


「その歌、一度聴くと、頭から離れないね」


「そう? 私、歌手になろうかな」

「いいね、夢いっぱいで」

「スグルくんの夢は?」

「僕? ……苔を研究したいなあ……」

「ぴったり。スグルくんに、ぴったりだね!」

「ありがとう」

 スグルくんは、にんまりした。その隣を、高鳴る胸をおさえて私は歩いた。


「ここだよ、うち」

 スグルくんの家についたところで、公園からの道のりを確認していなかったことに気づいた。浮かれていたのだ、またしても。

 しまった、ひとりでここへ遊びにくることは無理なんだ……杉苔の前にしゃがみこんだ私は、自分の脳天気さと方向音痴に、ほとほと嫌気がさした。

 すると、隣にしゃがんでいたスグルくんが、深いため息をついた。

「……どうしたの?」

 恐る恐る訊いてみると、スグルくんは私を見ないで言った。


「こいつらのこと、よく憶えていてね……」


「え?」

 その指先が、ちょこんと杉苔に触れる。

「根っこみたいなこの部分はさ、水を吸う力が弱くてね。だけど一生懸命、身体を支えてる。けなげにちゃんと、がんばってる」

 今になってみればその言葉は、自分もがんばりたい、そんな心の叫びだったように思う。あのときの小さかった私は、そこまで深く考えることはできなかったものの、漠然と感じたことを口にした。

「すごいね! なんか、スグルくんに似てるかも!」

「え、僕? ……そうかな……ありがとね、うれしいよ」

 スグルくんは照れくさそうに、私の頭を、ぽんぽんと、たたいてくれた。

 私のどきどきは収まらない。恥ずかしいのをごまかすしかない。だからこんどは替え歌をうたった。


「私のお習字もー、カビだらけになっちゃったー」


「……え?」

「今日ね、こんどはお習字の筆が、カビだらけになっちゃったー!」

「お習字の?」

「うん。私って……カビ生やすの得意! てかもう、私がカビみたい!」

 おどけてみせたけど、スグルくんは笑ってくれない。


「……僕のほうこそ、カビみたいな人間なんだよな。キノコになりそこないの、カビ。高校生になりそこないの、カビ」


「なんで? ちがうよ、スグルくんは苔の大好きな、やさしいお兄さんだよ」

「そんなことないよ」

「そんなことあるよ!」

 自分でもおどろくほど大きな声だった。

「……ありがとう。励まされてばかりだね」

 微笑みのまま私にうなずいてみせて、スグルくんは立ちあがった。

「家までの道、わかる?」

 私は首を左右に振った。

「わからない」

「そっか。ほんとうに、よく迷子になるんだね」

 えへへ、私は苦笑いをしたと思う。

「送るよ。いこう」

 スグルくんと並んで歩きだした。スグルくんはビニール傘、私はブルーの傘をさして。

 しとしと降る雨音は、やさしくて心地いい。

 雨音を聴いているうちに、このまま家にたどりつかなくてもいいような、そんな気がした。

 帰ったらまた母親に、ヒステリーを起こされるのはわかりきっている。

 だけど、それが怖くて帰りたくないんじゃない。

 私はもっとこうして、スグルくんと一緒にいて、話がしたいんだ。


「あの大きな紅葉」

 ふいにスグルくんが言った。

「あの青い屋根」

 指をさしている。

「あの風見鶏」

 スグルくんはやんわりと私に言う。

「道しるべにするといいよ」

「……道しるべ?」

「もう迷わないための、目印だよ」

 スグルくんはそう言ってくれた。やさしいまなざしで。



 その後、スグルくんに会うことはなかった。

 風邪を引いて一週間も寝こんだ私は、元気になってからスグルくんの家に、奇跡的にやっとたどりつくことができたけれど、彼の家は引っ越してしまっていた。

 大きな門は閉ざされ、あの杉苔を二度と見ることもなかった。


 

 以来、私はなにかにつけて、道しるべをさがすようになった。中学校までの道しるべ、高校までの道しるべ……。

 おかげで道に迷うことはすくなくなった。

 とはいえ、人生の道は迷走してばかりだ。受験だって失敗した。なんとか入れた高校で、私は落ちこぼれぎりぎりだ。

 

 あれからスグルくんが高校にいけるようになったのかはわからない。私はスグルくんの言う〝怖い奴ら〟を、やっつけてあげることもなかった。

 いつのまにか、私はあのころのスグルくんと、同じ年ごろになっていた。



「落ちましたよ」

 はっとして声の主を見ると、それは目の前の彼だった。私の蛍光ペンを差しだしてくれている。

「……ありがとうございます……」

 小声で返して、彼の大きな手から、ピンク色の蛍光ペンを受け取る。

 

 それから彼は、ふたたび本に見入った。ふとその中をのぞくと、何やらカビのようなコケのような、キノコのような写真が載っている。

 

 え、まさか、ほんとうに……?

 

 彼が、スグルくんなんだろうか。だけど、なんの証拠もない。

 いきなり「あなたの名前はスグルくんですか?」、そんなことを訊いて、ストーカーと思われるのもかなり困る。

 だけど、どうしよう……伝えたい、あのときの私です、って。

 あれからずっと、雨の降る紫陽花の季節には、いいえそれ以外のふとしたときにも、あなたを思いだすんです、って。

 そう考えたら、胸の鼓動が激しくなった。彼にも聞こえてしまうんじゃないかっていうほど、大きなときめきの音。

 だから咳払いをしてみた。

 落ちつけ、私。まだなんにもはじまっていないんだから。

 これからすべては、はじまるんだから。

 今は勉強しなくちゃ。うん、勉強。

 スグルくんのそばで勉強できるだなんて、それは考えもしなかった奇跡。彼がほんとうにスグルくんだったらの話だけれど……。

 


 生物の勉強にかかりっきりになっているうちに、正面の彼が帰りじたくをはじめた。

 

 ――待って、帰らないで。


 私もあわてて荷物をまとめる。

 そうっと、彼のあとをつけながら図書館をでた。彼は青い傘を広げて、雨の中を歩いていく。

 私はビニール傘をさして、数メートルあとをつける。

 青い紫陽花が、門のところに咲き乱れている。そこを彼は今、でていこうとしている。

 

 どうしよう、もう会えないかもしれない。

 声をかけなかったら、二度と会えないかもしれない。

 

 ――そうだ!


「私の絵の具箱ー、カビだらけになっちゃったーっ!」


 大声でうたってみた。しとしと降る雨音の中、私の声は図書館の敷地に響いていった。

 彼は足を止めて、こちらにふり返る。

「梅雨って、絵の具箱、カビちゃうんです!」

 きょとんとした顔で、彼は私を見ている。まずかっただろうか、これじゃあただのヘンな女子高生だ。

 けれどやがて彼は、私のほうへと歩いてきた。


「……その歌、有名なの?」


 真顔で訊かれる。

「え?」

「いや、ずっと前にも、聴いたことがあるから。耳に残るよね」

 困ったように頭をかいて、彼は言った。

「あ……この歌、私がつくった、でたらめの歌です!」

「きみが……つくったの?」

「はい! あの……それで……あの……それで私……いつも知らない場所を歩くとき、道しるべを決めているんです!」

 おどろいた彼の表情が、次第にゆるんでいく。


「きみは……迷子になるの、得意?」


 こくり、私はうなずいた。

「お習字の筆にもカビ、はやしちゃう?」

 こくり、またしてもうなずく。

「おなじところにホクロ、あるよね?」

 こくり、うなずきながら、恥ずかしくてたまらない。

「そっか、もう高校生になったんだね。ちっとも気づかなかった」

 それもそうかもしれない。あのころはショートカットだったけれど、今ではロングで、校則のために三つ編みだ。


 思いきって彼の顔を見てみると、微笑んで私を見つめていた。あのころのスグルくんが、そのまま大人になった、やさしげな笑みをしている。


「スグルくん……ほんとうに、スグルくん?」

「うん。杉苔好きが高じて、大学で苔の研究をしてる」


 笑顔でこたえた彼が、とても誇らしく見える。

「夢、かなったんですね! すごい、スグルくん、すごい!」

「高校は中退しちゃったから、それからが大変だったけどね……結局僕は、逃げたんだよ」

「ちがいます。それって〝怖い奴ら〟から逃げたんじゃなくて、戦いかたのひとつです!」

「……そうかな?」

「そうです!」

「……ありがとう。そう言ってもらえるの、すごく救われる。きみは、テスト勉強でここへ?」

「はい。赤点まっしぐらを、回避しようと」

「僕、明日もこの図書館にくるよ。わからないところ、教える」

「いいんですか?」

「もちろん。きみには助けられてばかりの気がする。だから、恩返し」

 雨の中、スグルくんの微笑みが私に向けられている。

 恥ずかしくて、うれしくて、顔がどんどん熱くなる。

 青い紫陽花だけがただ、私たちを見守っている。

 

    

                                 了



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ