8話 氷解
「大塚さん勝手な思い込みですが、俺が自費で慰謝料まで払ったらあいつがあまりにもかわいそうな気がしまして…」
「何とかあいつに温情掛けて貰う訳にはいきませんでしょうか?」
大塚夫婦はこれまでの勢いとは打って変わって伏し目がちに達己の話を聞いていた。
「俺、保険の事も調べてきました。康太には賠償保険掛けてます。学校でも掛かってるようですが、事故としてなら、保険から病院へ直接払い込まれる治療費の他に、一日当たり幾らで慰謝料が出るそうです。ばって喧嘩とか障害事件だったら出ないそうです。大塚さん何とか事故として収めて貰えないでしょうか。お願いしますわ」
大塚の父親はゆっくりと眼線を上げる。
「俺は恥ずかしいですわ。大人気なかったですわ。大体何の理由もなしに人殴って殺されんやっただけ運が良いですわ。湯村さん分かりました。その条件飲みますわ」
言葉遣いも穏やかで吹っ切れた表情だ。
「大塚さんありがとうございます」
達己は大塚夫婦に心から深く頭を下げた。
「湯村さんちょっと待って下さいや」
達己が先に出た。遅れた大塚の父親が小走りに追って来て、ランサーに乗り込もうとしていた達己に声を掛けた。
「俺、湯村さんの我が子を信じて疑わない熱い心に感服しましたわ」
達己は漠然と、「はぁ…」
「俺、大塚俊夫と言いまして年は34才ですわ。原町で親父と一緒に土木会社やってますんで」
そう自己紹介して俊夫は達己に名刺を手渡した。
「俺は39才です。土井町の鉄道宿舎に居ります」
達己も応えて名刺を見た。
―― 有限会社大塚組 大塚俊夫 ――
土木 工事 建設一式
俊夫は後を振り返って自分の妻を大声で呼ぶ。
「明美、早来んかちゃ」
大塚の妻が俊夫の左横に立つ。
「こいつは明美言いまして年は30ですわ」
「俺ら夫婦、調子に乗ってヤンキー言葉使って汚れ演じちまいまして…」
「穴があったら入りたいぐらいです。お恥ずかしい」
俊夫はバツが悪そうに後頭部を掻きながら頭を下げる。
「おら明美お前も頭下げろちゃ」と俊夫は突っ立つ明美の頭を押さえる。
「ご免なさい」
明美は叱られた子供のように若干口を尖らせ気味に項垂れる。
「大塚さんそげん謝られたら俺ん方が恐縮しちまいますて」と達己も一緒に頭を下げようとする。
「こんなちゃらちゃらした格好気に障ったち思いますが、俺昔やんちゃしとりまして。息子の浩紀が生まれたんは俺が二十歳、こいつが16才の高校一年のときやったす。子供出来たんが早かったんもあったんですが、あいつがワルになったんも、俺たちが放任しとったしワルぐらいが男の子にはちょうどいいと思とったもんで」
「いつも怪我させる側やったんが、怪我して俺が学校に乗り込む羽目になるちゃぁ思いませんでしたわ。俺中学校来るの初めてやったもんで、箔つけて相手飲むためカマロ借りてこんな格好してきました。ほんと失礼しました。湯村さんも気付かれたち思いますが、確かに友人にゃ組関係も居りますが…」
俊夫は言い掛けて言葉を切った。
「…明美は鳥巣駅の前のサニービルでスタンドバーしとります。こいつ今日はけばい化粧しとりますが結構美人なんすよ。まだ30ですけ。こいつ目当てに来る客結構いますき」と俊夫は明美の後頭部に左手を添えて顔を綻ばせた。
「俊、何言よるん。恥ずかしいやんか」
明美は頬を赤くして俊夫の背を右手でどんと叩いた。
「今度湯村さんと俺の店で飲みたいっすね」
俊夫はランサーに眼を留めて、「湯村さんこん車去年の8月出たばっかりのランサー1600GSRやないすか。バーフェン決まっとりますね。さっきエンジン音聞きましたがだいぶ弄っちゃるごたるすね」
「俺はTE27乗っとります」
俊夫が胸を張る。
「ほぉ、TE27ですか。飛ばし甲斐ありますね」
車の話題になって達己はにやっと不敵に笑った。
俊夫は、「俺も仲間も車馬鹿で久留米のTSレーシングに入り浸ってましたわ」
「俺も三好自動車に入り浸って車弄っとりますわ」と達己。
「三好ちゃ電電公社の裏の…今度俺も三好に寄らして貰いますで」
「どうぞ俺も待っとりますわ」
達己は腕時計に目を落として、「すいません。俺職場に戻らにゃいかんもんでこの辺で…」
「分かりました。俺らも失礼します。今から枝川病院に行って息子説教してきますわ」
鳥巣高校は明日から中間テストが始まる。一日目は現国・日本史・古文の真知子の得意科目の3教科だ。毎日こつこつと勉強している真知子に一夜漬けは必要ない。いつも通り9時から勉強を始めたが、まぁ午前2時くらいまで就寝を遅らせるくらいか。
康太は四畳半の部屋で安らかな寝息を立てている。真知子はほっと胸を撫で下ろしていた。佐和子の言った通り、今日康太には何もなかった。後はもうすぐ帰って来る達己から話し合いの結果を聞くだけだ。
真知子は耳を研ぎ澄まして隣近所の迷惑を顧みないランサーの爆音を待った。それらしきエンジン音が近づいてくる。玄関前に停まると2回吹かしてエンジンが止まった。
――お父さん帰って来た。
真知子はスリムのジーパンに黄色のトレーナーで勝手口から外に飛び出した。
「何か、わざわざ外まで出迎えか真知」
「うん今日は特別。ずっとお父さん帰ってくるん待っとったんよ」
達己は真知子の頭に右手を置いてぐりぐり撫でてやる。
新幹線宿舎の街灯が達己と真知子とランサーをぼんやりと照らし出す。ランサーの爆音に驚いて眼を覚ましたのか、康太の鳩が庭でコロロロと鳴いた。
「お父さん弁当箱…」
真知子は達己の前に、「はい」と両手を差し出す。
達己はそんな愛らしい仕草の真知子の顔に目を留めて、「真知、俺ぁ美千との新婚時代思い出したわ」
「お母さんもこんな風に外まで迎えに出てくれてたん?」
真知子は達己を上目遣いに見る。
「あぁ、新婚のときは長坂(猪町)に居ったばって俺の足音聞きつけてな。そいにお前、美千にそっくりやけんな」
「ほんとにお母さんにそっくりなん?」
「ああ」
「毎日お母さんの写真見とるけど…」
真知子は小首を傾げた。
「写真と現物は違うぜ。あいつ二十歳過ぎてもあどけない顔しとったもんな」
達己は感極まるものがあったのか、星空を見上げた。
達己は、飯台の自分の場所に腰を下ろすと、作業着の胸ポケットからハイライトを取り出して火を点ける。
「真知済まんな。組合で遅うなっちもうた。明日は非番(休み)じゃ」
達己は台所に立つ真知子に声を掛けた。
「お父さん今日はカレーよ。温めるけんちょっと待っとってね」
達己の遅い夕食の準備が終わって、真知子は、いつもの自分の場所とは違う、達己の対面に座って飯台に両肘付いて顎に宛がい、黙々と食べる達己を満面の笑みで眺める。
「真知、そげん見詰められたら食い難いやねぇか」
達己は一度眼線を上げてまたカレーの上に戻した。
「お父さんとお母さんいっぱい愛し合ってたんだよね」
「あぁ」
真知子は幸せそうにふふっと笑う。達己の返事はいつもぶっきらぼうだ。
普段物臭な達己だが、美千子との写真は結構あった。真知子は、紙箱にばらばらに放ってあった写真を、煩わしがる達己にしつこく場所とか日付を訊き出して、アルバムに一枚一枚、見出しとコメントを付けてきれいに整理した。今、自分の机の中に大切に仕舞ってある。
アルバムの中のセピア色に染まった達己と美千子の仲睦ましい姿は、真知子に勇気と元気を与えてくれる。真知子が3才のときに亡くなった美千子の面影は朧気にしか記憶にないが、アルバムが十分に補ってくれていた。
真知子にはずっと喉に刺さった魚の小骨のようなものがある。今まで達己に女の影がちらつくことはなかったが、いつかはそのときが来るんじゃないかと怯えてしまう。ずっと母を思い続けて欲しいが、それは自分のエゴに過ぎない。もしそのときが来たら、自分はどんな態度を取ってしまうんだろうと恐ろしくもあった。
「ところでお父さん、話し合いはどうやったん?」
「おっそうやの。真知には詳しく報告する約束やったな」
達己はカレーを平らげて冷水で喉を潤す。
「大塚夫婦のヤクザのごたるあの派手な格好・脅し文句にゃさすがの俺も参ったぜ」
「お父さん、大塚夫妻って、や…やくざ屋さんだったん?」
真知子は顔を強張らせる。
達己はふっと笑って、「やくざ屋さんか…ぴちぴちの女子高生の言い方は違うな」
「一応土木の仕事しよる」
「それでお父さん恐くなかったん?話し合いになったん?」
真知子は正座の体制から腰を浮かせて身を乗り出す。
達己は首を左右に振って、「ちっ見くびらんでくれよ真知。俺は中卒ぞ。怖いものなんかねぇよ。あるとすれば走りだけや」
「そうやね。お父さんに怖いものなんかなかよね」
真知子は平常の表情に戻った。実際達己の豪胆さには舌を巻く。その切れた走りを見ても一目瞭然だが、超自然的なものなど全く意に介さない。心臓に毛が生えている。例え眼前で人魂が飛んでも眉一つ動かさないだろう。仲間と賭けをして、北松の有名な心霊スポットでたった一人、数日寝起きしたと真知子は同郷の達己の後輩・江口から聞いたことがある。
達己は食後の一服で喫っていた煙草の煙を大きく吐き出すと一言、「解決した」
「もうお父さん簡単過ぎる」
真知子が頬を膨らます。
「人間心から話せば分かってくれるもんやな。康太の個人的なことも話に出して情に訴えた。話が通じたら互いに認め合えた。何か俺、大塚夫婦に気に入られたごたる」
真知子はきょとんとして、「気に入られたって…?」
「今度一緒に飲みたいち言われたわ。大塚の嫁さんなサニーの地下でスタンドバーしよるげな。嫁さんまだ30ぞ。結構美人やったな。んありゃ美人ママじゃ」
達己はわざと視点を宙に浮かせ、真知子をからかうように美人を強調する。
「もうお父さん好かん」
「真剣な話し合いに行ってどこ見とったん?」
「真剣に聞いて損した」
真知子も悪戯っぽく怒った振りをする。
「まぁそういうことよ」と達己は一仕事終えたが如く左腕を肘枕に横になる。
真知子は台所に立った。
「はいお父さんコーヒー」
「おっありがと真知」
起き上がった達己に、「明日は三好自動車に行くん?」
「俺が休みに行く所はあそこしかねぇけな」
「それより真知、明日から中間テストやろ。俺のことはもういいぞ。片づけて風呂入って適当に寝るけん。試験頑張れよ」
「うん分かった」