6話 姉・真知子
「康ちゃん7時よぉ…」
真知子は合服にエプロンで弁当を包み終えると、中々起きて来ない康太を大きな声で呼んだ。
――どうしたんやろ?いつもなら自分で起きて来るんに。
真知子は六畳の間に布団を敷いて寝ているが、康太は黒い木枠の二段ベットの二段目を取り払って寝ている。猪町に住んでいた頃、御堂住宅は六畳二間と狭かったので、一段目に康太、二段目に真知子、達己は二段ベットの横の畳に布団を敷いて寝ていた。
真知子は布団を頭から被っている康太の右横に肘枕で添い寝する体勢で、ぽんぽんと布団の上から軽く叩いた。
「康ちゃんどしたん?」
「学校遅れるよ」
「俺今日学校休む」
布団の中で声が籠る。
「康ちゃん具合でも悪いのぉ?」
「具合なんか悪くねぇばって行きとうない」
「分かった。康ちゃんそう言って真知困らせて甘えてんだ」
「そんなんじゃねぇ」
康太は布団を払って顔を出す。自分の顔上に柔和な真知子の眼差しが落ちていた。一瞬亡くなった母と見紛うてどきっとする。照れ隠しか、康太はもう一度頭から布団を被った。真知子はその布団をゆっくり払うと、康太の頬を右掌の甲で優しく撫でながら、「ならどうして学校行きたくないのぉ?」
「今日学校行ったら学校中の奴らが俺を白い眼で見るに決まっとる。そいに坪口たちが俺を狙うとる」
「坪口君って大塚君の仲間?」
「そうや」
「いいよ。康ちゃんは真知が守ってあげる」
「今日は康ちゃんと一緒に鳥巣中に行って大塚君のグループには指一本触れさせない」
「康ちゃんを白い眼で見る人たちには真知が…」
康太を想う感情が昂って真知子の言葉の終わりの方が擦れる。
――しもうた!姉ちゃんほんとに俺に付いて鳥巣中来ちまうぞ。
姉を辱めることは出来ない。康太が跳ね起きる。真知子が自分のことに関しては決して冗談では言わないことを知っていた。
「姉ちゃんご免、俺弱気になっとった。なら学校行ってくるわ。一人で大丈夫やし」
「ほんとなん?残念。真知も一緒に行きたかったんに」
真知子は本気だった。彼女を排斥できる者なんていない。教師も生徒も例え坪口でさえも。天性の美少女、頭脳明晰、社交性抜群でどんなコミュニティでも直ぐに溶け込んでしまえる彼女は、何の不自然さも感じさせることなく登校から下校まで康太に付き添えてしまったことだろう。初めて彼女を目にする者は瞬間見惚れてしまって、一言でもいいから関係を持ちたくなってしまう。ただそこに存在するだけで華になってしまえるのだから。
「ま~ち!」
「あっ佐和子!」
真知子が振り返る。
「真知が図書室で何か悩んでそうやから行ってやってくれって。山田が」
佐和子も真知子の左隣に並ぶ。
「山田君が?」
「山田は真知にべた惚れやから」
「佐和子…そうはっきり言われたら私、山田君に悪い」
「山田はいいんよ。ほら芸能人に恋してるような感じで割り切っとるけん」
みんなの前で暗い顔を見せたくない真知子は、昼食を終えて、トイレに行くからと佐和子たちに告げて三年の教室と同じ二階にある図書室に出てきた。ベランダの手摺に両腕を乗せ、視点を鳥巣高のシンボル大楠に置いたまま朝の康太を思い返していた。
「真知が一人になりたがるってことは?…康ちゃんのことやね」
真知子は敵わないという顔で、「佐和子には何でもお見通しやね」
「当たりきよ~」
佐和子がおどけてみせる。
「ふふ…」
真知子から笑みが零れる。
「あっ真知が笑った」
「鳥巣高のアイドルがそんな沈んだ顔をしてると…」
真知子が怪訝な顔で、「何…?」
「真知、図書室の方見てっ」
後ろを振り返ると、鉄枠ガラスの窓越しにこちらを窺う数人の男子と目が合った。途端、男子たちはバツが悪そうに視線を本に戻す。
佐和子が、「みんな真知が気になるんよ」
「うんごめん」
「悩みがあったら真知の親友の、この私に話して。力になる」
佐和子は右手でどんと胸を叩く。
真知子がゆっくりと口を開く。
「実はね佐和子、康ちゃん土曜日に修学旅行から帰って来たん。お父さんには担任の先生から連絡がいってたようなんやけど…康ちゃん旅行中に他の生徒に大怪我させたん…」
佐和子は相当びっくりしたようで、「えっ!あの大人しい康ちゃんが…?」
「原因はね…相手は大塚君ていってヤンキーグループのリーダーなん。康ちゃん転校して来たときから目を付けられとったみたいで、その子に殴られて仕返しに…ヌンチャクっていうんかな、それで殴り返して顎を骨折させたらしいん」
「ヌンチャクってあのブルース・リーが使った…」
「佐和子知ってんの?」
「うん映画雑誌で見たことある」
「今日、お父さんが話し合いに鳥巣中に行くんやけど…それより心配なのが、朝康ちゃん初めて学校に行きたくないって真知にダダこねたん。学校行ったら大塚君のグループと一悶着あるし皆に白い目で見られるって。やったら真知も一緒に鳥巣中付いて行くって言ったら、真知にごめんって言って一人で学校行ったんだよ」
真顔で聞いていた佐和子は、「真知、本気で一緒に行く気やったん?」
「う、うん」
真知子はこっくりと頷く。
「真知らしい。康ちゃんのためやったら私たちには考えられんことでも平気でするもんね。真知は」
「康ちゃん大丈夫かなぁ?やっぱり一緒に行けばよかったかなぁ」
真知子はざわざわと波打つ心を抑えきれず鳥巣中の方角に目を遣る。そんな真知子の横顔に目を留めて、「まず…真知が鳥巣中に行ったら康ちゃんには逆効果になる」
真知子は視線を足元に、右足でベランダの鉄格子を軽く蹴りながら、「それは分るんやけど…康ちゃんが殴られるかもしれんって思うと、針のむしろなんかなと思うと…どんなに非難されても私も一緒に居ってその辛さを共有してあげたいなぁって」
「真知が分かるっていうんは、恥ずかしげもなく姉と一緒に登校して意気地なしって康ちゃんが思われることやろ。私は違う意味なん」
「真知は自分の凄さが分かってない」
「えっ?」
真知子は怪訝な表情で佐和子を見る。
「私を含めて鳥巣高のみんなは真知をもう1年以上知っとるけん何でもないけど、初めて真知を見た人たちの反応は、真知のかわいさに唖然として授業どころじゃなくなる。その弟が康ちゃんやと分かると、みんなの嫉妬に似た非難が康ちゃんに集中する」
「真知が転校して来たときのこと、私はっきり覚えとる。世の中にこんなかわいい子が居るんやって信じられんやった。担任の松信なんか、真知紹介しながら何でもないのに真知ばかり見てた。男子は真知に見惚れてめろめろになってた。山田なんか、一日中真知の方ばっかり見て授業なんか全然聞いてなかったもん。真知のかわいさに嫉妬できる女の子なんか居ない。美少女のレベルが違い過ぎる」
「今やから言うけど、私も男の子に何回か告られたし自信もあったけど真知の前では霞んでしまう。正直私も里絵子もみんな見惚れてた。授業そっちのけで真知ってどんな性格の子か想像してた。臆面もなくこんなこと告れるんは真知が真知やからなんよ」
真知子は真剣な眼差しで佐和子の話に耳を傾ける。
「真知の凄いのは外見だけやない」
「普通の転校生の1日目はクラスに慣れんけん大人しくみんなが話し掛けてくれるん待ってる。でも真知は違った。真知は自分から積極的にクラスのみんなに話し掛けて回った。最初に話し掛けてくれたんが私やから私が真知の一番の親友なん。これはみんなに自慢なんやから」
「佐和子そんなふうに真知を思ってくれとったん。ありがとう…」
真知子の目に涙が滲む。
「真知はいつも謙虚で思い遣りがあって、他人の悩みなんにまるで自分のことのように心配してくれて、こんなにかわいいのに気取らんし…そんな良い子の真知がこんなに康ちゃんのこと心配してるんやから絶対思いは届く」
「佐和子…」
「ただ真知は康ちゃんのことになったら右も左も分からんごとなって取り乱してしまうん」
「う…うん」と真知子が頷く。
「真知、康ちゃん大丈夫。旅行中の大きな事故やったと思うけん先生たち十分に目を光らせとるって思う。特に康ちゃんが怪我させたヤンキーグループにはね。やから康ちゃんはいつも通り何事もなく帰って来る」
「ほんとに?」
真知子は涙で潤んだ瞳で佐和子の表情を確かめる。