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凶悪志願  作者: クスクリ
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5話 A73ランサー

 夕方真知子が居間に出てきた。

「康ちゃん買い物行こうか?」

 居間で寝そべってテレビを見ていた康太に真知子が声を掛けた。真知子がよく買い物をする店は、鳥巣高校への通学路の途中の古野町にある鳥巣ストアで、家から20分くらいの距離だ。二人で勝手口から外に出ると、ちょうど井戸端会議の真っ最中の新幹線宿舎の若奥様連中と出くわした。

 新幹線宿舎は博多まで新幹線が延長されるのに合わせて去年建ち上がった。三棟並んでいて、一棟に四世帯入っている。モダンな鉄筋コンクリートの二階建てで、一世帯に一階と二階があり、狭いながら庭も付いている。


「あら真知子ちゃん今からお買い物?」

「康ちゃんも修学旅行から帰ってきたんやね」

 新幹線宿舎の纏め役的存在の児玉さんが喋り掛けてくる。

「はい、今日は久しぶりに弟と二人で買い物です」

 真知子は朗らかに答える。

「真知子ちゃん受験勉強捗ってる?」

 未舗装の通路を挟んで湯村家と並ぶ棟の陶山さんの問い掛けに、「はい何とか」

「でも真知子ちゃんも大変やね。家事と勉強やろ」と児玉さん。

 ――ありゃ、姉ちゃん話し込みだした。こりゃ暫く終わらんな。

 康太はすーっとその輪を抜けだすと、鳩が戻ってないか確かめに庭に入って行く。


 今度は一番若い山本さんが真知子に、「ねぇ真知子ちゃん、主人酷いんよ。この前連絡もなしに午前様で飲んで帰って来た主人問い詰めたら、真知子ちゃんが俺の嫁さんやったら即行で家に帰るんやけどなぁやって。まぁ真知子ちゃんを引き合いにされたら、芸能人を出されたようなもので何とも思わんけどね」と冗談めかして面白そうに話す。

 真知子はきっと真顔になって、「まぁ奇麗な奥様前にしてご主人失礼ですね」

「真知子ちゃんありがと」

 山本さんの頬が綻む。

「でも世の中の男連中は真知子ちゃん前にしたら皆そう言うんやない」としれっと言葉にする陶山さんに、「どうもありがとうございます陶山さん」

 真知子ははにかんで、軽く頭を下げる。

 陶山さんが続ける。

「真知子ちゃんまだ彼氏居らんの?」

「はい、ただいま募集中です」

「真知子ちゃんを彼女に出来る世界で一番の幸せ者は今どこに居るんかなぁ…」

 児玉さんは青春時代を懐かしむかのようにしみじみと漏らす。

 真知子は照れながら、「児玉さんったら、まだ私に彼氏なんかずーっと無理ですよ」

「ねぇねぇ真知子ちゃん、明日あたり康ちゃんと夕食に来ん?うちの子真知子ちゃん大好きで、特に主人が喜んでねぇ」と山本さんはこの場に居ない旦那に皮肉を込める。

「えっいいんですか?」

山本さん、冗談めかして、「ええ、主人にあんたじゃ真知子ちゃんは分不相応って分からせてやるぅ」

「火曜日お父さん泊まりなんでお言葉に甘えてお邪魔させていただきます」

「ほんと嬉しい」

「真知子ちゃんきっとよ」

「はい」

「山本さん抜け駆けずるい。私も真知子ちゃん誘いたかったんに」

 陶山さんが口を突き出す。

「真知子ちゃんの奪い合いやん」と児玉さんが笑う。

「はい、また陶山さん児玉さんのお宅にも伺います」

「きっとよ」

 陶山さんと児玉さんの声がハモってしまって、二人顔を見合わせて笑う。


 真知子は人の誘いを素直に受け取って遠慮しないが、必ずお菓子とかケーキとかの手土産を持参する。真知子に家に来られて嫌な気がする家庭なんかこの鉄道宿舎界隈には存在しない。幼児のあやし方は上手いし話題は豊富で盛り上げ方も的を得ている。一緒に居て場の空気が沈滞することがまずないから皆に喜ばれる。新幹線宿舎の主婦たちは真知子の家庭の事情を知っていて何かと心配してくれたし、世話も焼いてくれた。真知子には嬉しい存在だ。もちろん一般宿舎の主婦たちにも受けは抜群だ。


 鳥巣は鉄道の町で鹿児島本線と長崎本線が分岐する。人口は五万人で、父兄が国鉄職員という小・中・高校の生徒はいっぱい居た。鉄道宿舎も土井町の他にも数ヶ所あり、鳥巣機関区は次の駅の田代駅まで包括する広大な面積を持つ。宿(しゅく)町の鳥巣市役所から大正町・本鳥巣町を通って国道3号線を突き抜け、西鉄端間(はたま)駅に抜ける道路がある。この道路の途中に鹿児島本線に架かる高い跨線橋があり、ここから操車場・転車台など鳥巣機関区全体を見渡すことができる。 

 鳥巣駅は明治44年に改築された洋館風駅舎で、1・2番ホーム3・4番ホーム5・6番ホームと並び、その左手に機関区が広がって無数の引き込み線が敷かれている。その所々に機関区の管理棟が建っている。

 土井町の鉄道宿舎から県道を左折して古野町の国松商店の四つ角を右折して直進すると、右手にスーパー銀鳥がある。ここから鹿児島本線と長崎本線を潜るトンネルに入る。このトンネルの途中に機関区に続く道が右手に伸びる。


 達己は一仕事終えて、一番管理棟でネスカフェのインスタントコーヒーを飲みながらハイライトで一服していた。

「達つぁん新車の調子はどがんな?」

 過疎線合理化で、達己と一緒に松浦線の佐々機関区から移ってきた後輩の江口が声を掛けてきた。

「おぅエグ。さすが三菱の新型車じゃ。その辺の腐れ車たぁ吹け上がりが違うぜ」

 達己は吸いこんだ煙を天井に向かって大きく吐き出す。

「何、達つぁんのランサー弄っとるやん」

「まぁそりゃそうやけど」

 達己の横に腰かけて江口も煙草を取り出す。


 達己は39才、前年出たばかりのA73ランサー1600GSRを初めて新車で購入した。実は達己はA73を手に入れるに当たって、もう一台買えるくらいの資金を準備していた。馴らし運転を終えると、直ぐに仲間の三好自動車でコルトスピードのC2フルキットを組んだ。内容はオーバーフェンダー、フライホイール、クラッチセット、シリンダーヘットセット、プラグ・ピストン・コネクチングロットセット、ロッカーアームセット、エキゾーストマニホールドセット、プーリーベルトセット、オイルクーラーセット、オイルポンプセット、これでノーマル4G32エンジンに対して出力45パーセントアップだ。

 これにプラスして、キャブを大口径ウェーバー・サイドドラフトタイプに換装、マフラーはワンオフで50パイに、タイヤは横浜の195/70HR13に、ホイルはワタナベのマグロードに付け替え、オフセットを調整してオーバーフェンダーに面一になるように落としている。車体色はモスグリーンだ。

 当時はチューニングカーで公道ラリーを堂々とやっていた時代、各キットとも専用パーツで、エンジンブロックとクランクシャフト以外は全くの別物を使うなど、コルトスピードの力の入れようは半端じゃなかった。


「達つぁん実は頼みがあるんよ」

「何な?」

「今度若い車好きの連中でラリークラブ作ろう思とるんよ。ばってんみんな素人やしそげん速い奴居らんやろ。川口が達つぁんに会長になって貰うて教えて貰うたらって言うんよ。こいはみんな賛成して、達つぁんと一番付き合いの長い俺が頼み役になったっちゅう訳なんよ」     

「確かに川口は俺のランサーのシェイクダウンに付き合わせて河内走ったな」と言った後、達己はちょっと顔を歪めて、「若い奴らのクラブに親父の俺がかぁ?」

「ラリーとかやったことねぇしそいに俺ぁ一人で走るんが信条やしな」

「なぁ達つぁん頼むよ。断られたら俺の立場ないんよ。九州、いや西日本でん達つぁんより速いもんは居らんって川口が言うし、俺も松浦線に居るとき達つぁんのジープの横に乗せてもろうたことあるばって、あの速さは人間技じゃねぇよ」

「ん…俺を持ち上げてくれるんは嬉しいんやけどよ…」


 達己はランサーの前にはジープしか乗ったことがない。二台も維持できないのでジープは三好の仲間に売った。愛車にしていたのは三菱ジープJ20だ。ガソリン2200CCのハリケーンエンジンJH4型搭載のミドルホイールベースの希少ジープだ。福岡まで何度も探しに行って、やっと36年式の中古を手に入れた。昭和37年、達己29才の時だ。

 猪町のラフロードを時間があればかっ飛んだ。猪町では舗装されているのは江迎町から猪町町を貫く県道一本だけだったから、林道なんか腐るほどあった。このジープを達己は自分の手足のように操り、ほとんど真横になって信じられないスピードでコーナーを抜けていく。もちろん足回りとエンジンは弄っていた。


「なぁ達つぁん頼むよ」

 江口は哀願するが如く達己に縋る。

「エグ、俺が拘るん知っとるよな」

「うん、達つぁんとは長い付き合いやけん」

「そんなら俺が三菱車以外車ち認めんの知っとるよな」

「うん、車は三菱ちゅうのが達つぁんの口癖やけん」

「エグ、条件出すわ。そいでいいっちゅうなら考えてもええわ」

「ほんとな達つぁん、どげな条件でも達つぁんがなってくれるんなら俺と川口で認めさせちゃる」

 江口の表情がぱーっと明るくなる。

「なら言うわ。クラブ員は全員三菱車が条件じゃ。トヨタ・日産・いすゞに乗っとる者も居ろうばって 、そん車でやりてぇなら俺のA73の走りについて来れるのが条件じゃ」

「達つぁんらしい条件じゃ。ええよ。俺と川口でみんなに達つぁんの言うたこと諮ってみる」

「仲間にゃ、27・37レビン、510ブルSSS、ダルマセリカGT、カリーナGT、箱スカGT、べレットGTRなんかに乗ってぶいぶい言わしとる奴もおるばってん、達つぁんの速さはもうこの機関区内じゃ伝説化しとうけん、達つぁんに挑みきる奴、何人出るか楽しみじゃん」

 江口がはしゃぐ。

「達つぁん約束ばい。後で止めたぁ言いなんなよ」と言い残すと、勇んで一番管理棟を飛び出して行った。


 達己は上背180センチ超、髪型は前髪を立てたスポーツ刈り、着る物には全く頓着しない。普段着は全部真知子が見立てたものだ。真知子が何も言わなかったら、職場の薄紺色の五つボタンの上下の国鉄の作業着をどこにでも着て行こうとする。体重は68キロ、若い頃炭鉱で力仕事をしていたおかげで、上半身は筋肉質で腹も見事に締まっている。達己はまだ30代、女に言い寄られることもあるが、全く相手にしない。 

 達己は煙草は吸うが、酒は付き合い程度、晩酌はしないしパチンコも公営ギャンブルも麻雀も一切やらない。買うのは車の部品だけで、車以外に価値を見い出さないから給料袋はそのまま真知子に渡す。封を切ったことは一度もない。車関係の出費を見越して、真知子公認で郵便貯金はしているが、原則小遣いは無いし要らない。どうしても入り用があるときは真知子を拝み倒す。


 達己が走るホームグラウンドは九千部山に張り巡らされた林道だ。何十キロもある。谷川の冷たい澄んだ水の流れる鳥巣市民の憩いの森、四阿屋(あずまや)から入る。脊振山系の九千部山は鳥巣を代表する山で、冬は薄っすら雪化粧する。鳥巣市と筑紫郡那珂川町に跨がり標高847メートル、山頂は鳥巣側にある。林道は放送用の無線局維持のために入山する車のもので、福岡県側の麓には那珂川水系の南畑ダムがある。

 達己は時間が許す限りここをかっ飛ぶ。車とすれ違うことはまずないので昼間でも大丈夫だが、勿論夜も補助灯を活用して走る。鳥巣に来て1年ちょっとで九千部山系の林道は知り尽くした。ジープでばかり走っていた林道を三菱が誇るA73ランサーという最新鋭のマシンで走るのだから、その速さはもはや神の領域だ。ワークスでも達己について行けるか疑問だ。

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