懺悔
この俺、都理の罪を正しく告発した円木は、結局社会につぶされた。
そりゃそうだ、誰も不思議に思わなかった。
なんの根拠もなく他人を疑って、それを大声で喧伝すれば、それ自体が罪になる。
その喧伝が事実なのかどうかさえ、審議されない。大声で他人へ糾弾すること自体が罪なので、本当の悪人であるかどうかさえ検討に値しない。
この円木は、自分のことを正しいと思っていたんだろう。
誰も自分のことを理解していないと、社会に絶望さえしていただろう。
だが違う、誰もがこいつを理解していた。
こいつが欲しかったのは、悪人ではなく生贄だ。
殴ってもいい奴、反撃してこない奴、殴ったら周囲から褒められる奴、殴っていて悦に浸れる奴を求めていただけだ。
そんなこと、コイツ自身以上に、みんなが理解していることだった。
それこそ、客観的な視点というものだ。
だからこいつはみんなから叩かれた。物理的にも社会的にも、攻撃されて排除されたんだ。
俺が何かをしたわけじゃなくて、周囲の人が自分でそう動いたんだ。
こいつは、そういう奴だった。自分に都合がいい想像を真実だと思って、自分の気持ちよくなれる行動を正義だと信じている。
ああ、よく知っているチート主人公だ。
性格が、悪い。浅くて程度が低くて、まったく最悪だ。
その性格を維持したまま、悪化させたまま、こいつは、こいつは……。
「はははは!」
俺は笑った。泣きながら笑った。
「ははは! はははは!」
コイツは、世界を救ったんだ。
それ一つで、全てがどうでもよくなる。
コイツは、行動をしたんだ。
頭の中にある気持ちの悪い妄想を、実行して達成して、実績を重ねたんだ。
一年A組には三十人もいたのに、一人もできなかった。
それをこいつは、やり遂げて、その先にいる。
「ふん……それがお前の本性か……バカみたいな格好だな、昔のゲームの中ボスってところか?」
「あはははは! そういうお前は一昔前のラノベ主人公だけどな!」
「ヒトの容姿をバカにするとはいい度胸だな?」
二行で矛盾している。
ああ、性格悪いなあ、コイツ!
俺の容姿のことは馬鹿にするくせに、自分が馬鹿にされたら怒るのか!
酷いなあ! 本当に自分のことしか考えてないんだな!
「ぶっ潰す、虫のような人生を送らせてやる」
ああ、だが、この呪いだけは本物だ。
俺に向けている憎しみだけは、本物だ。
本当に不幸な人生を送って、その記憶を引き継いだものの顔だ。
「いい夢の見られない人生にしてやる、眠ることさえ嫌になる人生にしてやる、起きるたびに死にたくなる人生にしてやる……!」
「……具体的だな」
さっき、とっさにコイツを追いかけたときの俺とは違う。
本物の憎悪がある。
じゃあ俺には何がある?
まずは死にたくないな、ああ、まったく殺されてやりたくない。
気持ちがふわふわしている、定まっていない。
一年ぶりの感覚だが、これはあんまりいいもんじゃない。
あの時も、運が悪ければ……ははは。
「……俺は、そんな人生を送るわけにはいかない」
「自分の親が泣くからか? 人殺しの分際で、親を言い訳にして自己保身か?」
「その通りだ」
「開き直ったもんだ、救えない恥知らずめ」
憎悪が先にある、憎悪だけの男。コイツの言葉は人を傷つけるため、正当性を主張するためだけにあって、それを発する時に自分を省みることがない。
まあ、白々しい嘘を吐き続けた俺には似合いの相手だ。
この強さは本物だ。
この年齢でこのレベルになったのには、それなりの理由があるんだろう。
成長補正型だったとしても、赤ん坊のころから努力していたとしても、そうそうありえないことだ。
世界観自体が違う可能性もあるが、おそらくは呪いの武器によるものだろう。
おそらく、というのは俺のチートだと呪われた武器の能力が分からないからだ。
俺の九本の尾のように体の一部として融合していればまた話は違うが、武器の鑑定は俺のチートの対象外だ。
つまり武器に依存するこいつの戦闘スタイルは、俺のチートと相性が悪い。
だがそれは、チートだけ切り取った話だ。
良くも悪くも、俺達はチートだけで戦っているわけじゃない。
「……これだけ強いなら、本気でやってもうっかり殺すなんてことはないか」
円木の体から、膨大な呪いが吹き上がる。
常人なら直視するだけで昏倒し、触れればそれだけで全身が壊死しかねない。
皮肉なことだが、こいつには似合いの戦闘スタイルだ。
代償を支払わずに発揮できるということもあるが、この怨嗟を振るう本人も憎悪や憤慨で満ちている。
「……負ける気はないってか? 自信満々だな」
「当然だ、お前如きが俺に勝てるわけがない」
直後、小さな体が突っ込んでくる。
「弾丸の尾! マシンガンカーペット!」
迎撃と牽制、様子見を兼ねて弾丸を放つ。
これで倒せるなんて、到底思っていない。
「何かしたか?」
実際、まったく効いていなかった。
体に当たっても軽く血が出るだけだっただろうが、まず届いていない。
吹き上がる呪詛に触れるだけで、弾丸の一発一発が朽ちて消えていく。
なんとも攻撃的な防御手段だ。
剣で斬るだけではなく、反撃をすることさえも封じている。
攻防一体、ではないな。攻撃あるのみ、という雰囲気だ。
「何もしてないさ」
ギュウキ様の言葉を思い出す。
格上相手には、何をするにも全力で行けと。
まったく、ありがたいお言葉というのは、いつだって気付くのが遅い。
「斥力の尾、出力百パーセント! エマージェンシーポッド!」
斥力の尾を用いて、直上へ離脱する。
とにかく接近戦はマズイ、どんな呪いかわからない以上、とにかく下がらなければならない。
「もう一度言うぞ?」
その体が、急停止した。
上に向かっていた体が、一気に下へ引き戻された。
「何かしたか?」
俺は見た。円木の体に巻き付いている、古びた鎖。それが妖しく光り、呪詛を発していたのである。
なるほど、逃走禁止、或いは逃走をした相手に一定のペナルティを課すタイプか。
抵抗することもできない俺を、まさに迎え撃とうとしている円木。
それはまるで、野球のバッター。俺はピッチャーではなく、ボールである。
「ぎ!」
呪われた剣が、俺にぶつかった。
剣で斬られる、という感触が確かにあった。
怖いな、殺す気がないとか言っていたが、なんの配慮もなかったぞ。
「……お前」
「いやあ申し訳ないな、円木。怖くてついつい、ぎ、とか言っちまった」
もちろん俺だって、剣で斬られれば普通に痛い。
こんな余裕をもって、相手の動きを評価できるわけじゃない。
ポイントハート、回数制限付きの無敵である。
早速消費してしまったが、仕方がないと言えば仕方ない。
「だから改めて言わせてもらうぞ、何もしてないさ」
俺を斬った気になっていた円木は、明かに苛立っていた。
引き寄せられた俺は、円木にもたれかかるように動けなくなっていた。
だがそれも、一度斬られたことで解除される。
「斥力の尾、猛毒の尾、同期の尾、弾丸の尾、出力400パーセント!」
「て、てめえ!」
「デススプラッシュ!」
至近距離から放つ、高密度の散弾。
毒性を帯びた、加速された弾丸たち。
それが小さな円木の体を吹き飛ばしていた。
「俺のチートは、ステータス閲覧。人間やモンスター、主体性のある生物が対象で、お前の持っている武器の特性を見抜けるわけじゃない」
「く、くそが……ざけやがって!」
「だがお前も同じだろう? お前のチート能力は、あくまでも呪詛の代償をなくすもの。俺が毒を放った場合は、普通に通じる」
コイツのチート能力は自己保存型、基本的に防御に向いているタイプだ。
だがコイツの防御能力は、自分が使っている武器のデメリットに向いている。
変な話だが、こいつは自分の武器に対して無敵なのであって、他の何かに対して無敵になれるわけじゃない。
「まあよほどの格の差があれば話も違うが……そうでもないみたいだな」
今の攻防で確信した、こいつは俺の格上じゃない。
「……勝った気か?」
同格だ。
俺は不意打ちを成功させたが、格上なら怯む程度だろう。
格下なら、そのまま死んでいた。
そのどちらでもない円木は、苛立たし気に起き上がる。
「今のがお前の切り札だったとしたら、それを使っても俺をイライラさせただけだ……」
「そうか……ははは、やっぱり強いなあ、お前」
思わず笑ってしまった。
物凄く怒ってはいるが、毒で汚染されていない。
おそらく状態異常への対策も、何かのアイテムで補っているんだろう。
俺の猛毒の尾もまた、チートではない。
つまりチートではない手段でも、防ごうと思えば防げる。
「お互い、楽勝って雰囲気じゃないな」
「……舐めてるのか、舐めてるんだな!」
俺の笑いを、余裕と捉えたのだろう。
それを強者故の油断ではなく、格下が調子に乗って侮っている、と考える辺りがコイツらしい。
「お前は、何時もそうだった! 俺が何を言っても、薄ら笑いをしてバカにしてきやがる!」
それを言えば、お前だっていつもそうだ。
勝手に決めつけて、それを否定されると怒り出す。
だが不思議なもんだ。変わっていないのに、世界を救ったという事実だけでおつりがくる。
「後悔させてやるよ! 俺をバカにしなければよかったってな!」
発言や行動原理は、それこそ軽蔑するしかない。
だがこの強さには、敬意を表したくなる。
俺だってしばらく死ぬ気で頑張ってきた、投げ出したくなりながらもやり切った。
その俺と、こいつは互角なんだ。苦労もなく与えられたチート能力、それ以外がぶつかり合って互角なんだから。
「……後悔なんてしないさ」
若竹たちの時と同じだ、相手が強いと俺は嬉しくなる。
苦労して強くなったからこそ、倒すべき相手が強いと嬉しくなる。
自分の命が危なくなるっていうのに、敵なんか弱い方が良いに決まっているのに。
そういう意味では、相手が思ったより強くてイライラしている円木の方が、よっぽど人としてまともだな。
まあ、人を傷つけることも、殺すこともない。
本当の意味でまともな人からすれば、誤差みたいなもんなんだろうが。
「お前、余裕にふるまっているが……鈍いのか? 全身が呪われている俺に、全身で触れたんだ。ただで済むわけがない」
「鈍くはないさ、結構我慢しているよ」
俺は一応念のために、離島への対策を講じていた。
九本ある尻尾、そのうちの二本に能力を振らなかったのだ。
もしも離島が奮起したとして、俺の尻尾へ対策を練ったとして。
それでも二本も未定なら、完全に対策を練ることができない。
諦めるまで対策を練り合えると思っていた。
一応、念のためだった。
だがその余白が、この時生きた。
「第八尾、生贄の尾……俺にかかった弱体や呪詛は、全てこの尾が引き受ける……!」
要するに、後だしじゃんけんみたいなものだ。
俺のチートでは、こいつの持っている呪いの数や総数まではわからないが、一番厄介な俺自身への負荷は避けることができる。
最悪この尾を切り離せば、引き寄せなどにも対応できる。
「お前のチートは、呪いの代償を支払わないこと。その呪い自体はチートじゃない、だからチート以外でも受けられる!」
「……ずいぶん、舐めてくれたな。ああ、まったく、とことん馬鹿にしてくれる」
思わず、ぞっとした。
でるわでるわ、どこから出したのかもわからない量の、大量の呪われたアクセサリーが。
「それぞれが特別な能力を持つ、九本の尾、か? 割とよくある能力だよな……九つでどうにかなると思ってるのかよ!」
能力を知った時点から想定できたことではあるが、あんまりにもあんまりだった。
円木は世界を救っている、その意味するところは……。
初期装備で来たわけじゃない、既に世界の隅々まで荒らしたということ。
「俺はな……世界中の、全ての呪物をかき集めた! その力で世界を救ったんだ! わかるよな……九つどころじゃねえんだよ!」
コイツのチートを最大限に生かすのなら、それこそ世界中の呪われたアイテムや武具を集める方がいい。
寿命を削るとか、苦痛を受け続けるとか、体力を失うとか、そういう代償抜きでメリットだけ受け取れるのなら。
それこそチート級の強さを発揮できる、だからこいつはこの年齢で世界を救えたわけだ。
だがやっぱり、それは絶対じゃない。
「……つまり、それがお前の底、全力ってわけだ」
「は?」
「第九尾……浄化の尾!」
俺は残されていた、最後の尾の能力を決めた。
白く輝く九本目の尾は、呪われて弱っていた八本目を癒していく。
「わかるよな? 今のお前の強さは、呪われたアイテム有ってこそ……それを全部、一つ一つ解呪してやるよ」
びきり、と円木の顔が歪んだ。
それは俺と戦うということが、こいつにとってどれだけ不利益なのか、よくわかってしまったからだ。
「……」
呪われた武具をノーコストで使える円木だが、呪われたアイテムを作れるわけじゃない。
おそらく世界中の呪われた武具を集めたであろうコイツにとって、それを浄化されるということは、取り返しのつかないことになる。
それはもう、俺に勝ったところで意味がない。文字通り、不可逆的な喪失だ。
「……で?」
怨嗟が吹き上がる、憎悪が増す。
ああ、まったくもって、お互いに救い難い。
どれだけ浄化しても、お互いの罪や心までは清められない。
「そのちんけなオッポで威嚇して、もう帰ってくださいってか? それが舐めてるって言ってるんだよ……!」
妥協しねえなあ、コイツ。
でもわかるさ、こいつは元々負けず嫌いだった。
反省から程遠い、やると決めたらやり切る奴だった。
「何があっても、お前をぶっ潰す!」
血まみれの斧が、泥を出す槍が、冷気を吐き出す鎌が、それ自体が悲鳴を上げている盾が、燃え盛るナイフが。
大量に浮かび上がり、こっちを狙っている。その数は、それこそ九つじゃ足りないだろう。
生贄の尾で受けて、浄化の尾で攻めて、他の尾も動員して……それで足りるかどうか。
「……そうか」
でも俺も、引く気はなかった。
まったく、俺も馬鹿だ。
「じゃあ、ここからが本番だな」
退く気なんて、全然ないんだから。
※
五分同士の戦いは、熾烈を極めた。
笑ってしまうが、円木は本当に強かった。
剣術や体術、浮かせている武器の使い方も、大変見事なものだった。
いわゆるチート主人公の特徴である『子供なのに大人以上』というのを目の当たりにしたので、なんとも奇妙な笑いが起きた。
だが、まあ、悪い気はしなかった。頑張らなかった一年A組の生徒たちに比べれば、ご都合だろうとなんだろうとマシだ。
一体どれだけ戦ったのかもわからないほどの死闘の中で、俺は今までにないほどぼろぼろになっていた。
生贄の尾が朽ちて使い物にならなくなり、俺自身にも呪詛が襲い掛かってきた。
苦痛と倦怠感に襲われて、体ががたがただった。
だが円木も似たようなもんだ。浄化の尾で呪われたアイテムが効果を失っていき、猛毒の尾が通じるようになっていった。
本人の強さによるものか、即死はせずに戦いを続けていた。だがそれでも、全身が痛くてたまらないだろう。
なのに俺も、こいつも、引く気なんてなくて。
行き着くまで行き着いた俺達は、ついに最後まで戦い抜いていた。
「俺にはお前のステータスが見えるんだが……後一発、普通に殴られたら死にそうだな」
「俺には、お前の方が一発斬られたら潰れるように見えるけどな」
「ああそうだな。お互い、一発でも喰らったらそのまま終わりだ」
お互い、満身創痍。その上、刀折れ矢尽き、という具合だ。
俺は九本ある尾が全部力を失い、円木はほぼすべてのアイテムの呪いが解かれていた。
「……潰す」
だが相変わらず、円木は呪われたままで。
「ははは」
俺自身も、呪われたままだった。
「笑うんじゃねえよ!」
かみ合っていない俺たちは、どこまでも平行線だった。
お互いに言いたいこと、やりたいことしかしていない。
そんなもんだ、お互いクズ過ぎる。
「確かに呪われていたアイテムは、もうほとんど駄目になった。ああまったく、やってくれたよ、お前は!」
最後に残ったのは、大剣だった。円木自身が持っているそれさえも、わずかな呪いの残り香があるだけ。
それも段々消えていく、こいつのチートが意味を失っていく。
「だけどな……お前は、お前が言った様に、武器の鑑定はできないみたいだな」
ついに、呪いがすべて消えた。
すさまじい量の呪いを放っていた剣が、ただの剣のように鎮まる。
だがそれは、一瞬のことだった。
その直後に、呪われていたはずの剣は光を放つ。
「この魔剣は、元々聖剣だった。だがある使い手が、憎悪に任せて人を斬りまくったせいで、膨大な呪いを溜めこんで魔剣に転じたそうだ。それでも強大ではあったが……聖剣だったときの方が強かったらしい」
言っては悪いが、あんまり似合っていなかった。
毒に侵されて、それでもなお戦おうとする姿は立派だが。
穢れが払われた聖剣を持つには、こいつの顔は憎しみに染まりすぎている。
「お前が、その呪いを解いたんだよ……! どうだ、当てが外れてがっかりしたか? 絶望したか? 無意味だったと分かった感想はどうだ?」
質問をされて、俺はようやく理解した。
コイツは、俺のリアクションを求めている。
俺にみっともなくわめき散らしてほしいのに、俺は似合ってないなあ、とかファッションチェックをしていた。
まったく、俺も勝手なもんだ。
「似合ってないぞ、それ。お前に聖剣は似合わない、魔剣のままの方がよかったんじゃないか?」
「……最後までふざけやがって!」
いや、うん。まったくふざけている。
命の危機だってのに、俺はなんで似合うとかに似合わないとか考えているのやら。
「そうだよな、俺が呪いを解いたんだもんな」
しかし、こいつは気づいているんだろうか。
そもそもお互い、あと一回攻撃をもらったら終わりなのに。
なのになんで、攻撃力が上がったことを自慢する?
意味ないだろ。呪われていたままの魔剣でも、呪いが解けた聖剣でも、普通の剣でも。
いやはや、そんなことを考えて笑っている俺は、まったく、つくづく。
コイツに比べて、異常だった。
「……潰す。これからの人生のすべてで、後悔し続けろ」
そんな俺への『説得』を、こいつは諦めた。
これから続く長い人生で、失意に浸らせようと思っているのだろう。
まあ、わかる。実際そうなるだろう。
客観的に考えて、このまま負けて体を壊されれば、きっと後悔の日々が続く。
なんであの時、もっと真面目に頑張らなかったんだって、そんな失意の日々が続くんだ。
今の俺の気持ちなんて、一時の高揚なんだろう。
「ああ……そうか」
でも俺は、今の俺は……。
「じゃ、やろうか」
俺は走り出した。
当たり前だが、俺は素手。
呪われたぼろぼろの姿のままで、徒手空拳で殴り掛かるのみ。
対するに相手は、輝きを取り戻した聖剣を持っている。
いくら体が小さいとはいえ、リーチの差は明白だった。
「……バカが!」
俺の人生を潰すために、円木は聖剣を大きく振りかぶった。
そして、近づいてくる俺を、最高のタイミングで切り裂こうとする。
「……あ?」
だが、遅かった。
円木は興奮していたので気付かなかったが、こいつの体はもうとっくに限界だ。
聖剣が剣である以上、振り回すには力がいる。
つまり、走る俺が遅いとしても、円木の剣を振る速さはなお遅いわけで。
俺の拳の方が、先に当たる。
今の俺の力でも、ぶん殴ればそのまま後ろに倒れて。
それで、こいつは死ぬんだろう。
俺は、そんなことを考えて、そして……。
「あ」
一瞬、俺は、動きがとまった。
俺は、俺自身の躊躇で、一瞬だけ遅れた。
「……は?」
バカみたいな話だった。
後悔する負け方だった。
振り遅れを自覚していた、間に合わないと思っていた円木は、俺を切り伏せたことに驚いていた。
他でもない俺だって、自分の負けを、悔いの残る負けを、自覚したまま倒れていた。
「おい、理」
「……なんだよ」
俺はまた、円木にもたれかかっていた。
まばゆく輝く聖剣は、しかし俺の肩に食い込んだだけで、両断とはいかなかった。
それでも、俺を動けなくさせるには十分だった。
これから円木は、憎い俺に残虐の限りを尽くすのだろう。
すべての呪いが解けた後でも、適当に手足を潰して、死なないように処置をするだけで、こいつは本願を成就させるんだろう。
今の俺はそれを確信しているのに、不思議と穏やかなものだった。
「なんで、殴るのを止めた」
心底から驚いた様子の円木は、俺に問う。
「今、俺を殺せたはずだ」
「……殺したくなかった」
俺は、答えた。
ああ、初めてかもしれない。
コイツの問いに、俺が真摯に応えたのは。
「殺したくなかったんだ……」
殴ったら殺してしまう、そう思ったから、攻撃が止まっていた。
「俺はな、円木。お前の言う通り、人殺しで、人でなしだ」
円木も、俺の話を聞いていた。
俺のことを、理解しようとしていた。
「二十九人も、殺したんだ」
俺は、それが、嬉しくて。
だから俺は、ありのままを、飾り気なく言えた。
「そんな俺だ、もう誰も殺したくないなんて、言う気はないんだ。でもな……でもな」
涙が、溢れて止まらない。
「尊敬できる奴を殺すのは……強くなるために一生懸命頑張った奴を殺すのは……凄く嫌なんだ……!」
尊敬できる奴を、実際に殺したことがある。だから俺は、それを味わうのが嫌だった。
「円木……ここまで強くなるの、大変だったよな? 怨みがあっても、憎しみがあっても、苦しいのは苦しいよな……?」
そんな気持ちが、躊躇を生んだんだ。
「いくら女がいても、どれだけもてはやされても、投げ出したくなったよな。でもお前は、誰もやってくれないから、自分がやったんだよな?」
ああ、俺は異常だ。
この上なく、駄目な奴だ。
あんなに頑張って勝ち取った人生なのに、この気持ちに嘘がつけなかった。
二十九人も殺して勝ち取ったのに、今更一人殺すのをためらったせいで……。
「理……」
「なあ……円木……」
それでも、俺は。
コイツに会えて、良かったなんて、思ってるんだ。
「お前に……もっと早く会いたかったよ……」
これが最後の言葉になるかもしれない。
そう思ったうえで、俺は、言葉を口にした。




